ノート:足尾鉱毒事件

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押出し6回説の根拠[編集]

押出しの回数が6回だったというのは、布川了の研究にあります。明確な反論はないようですが、もし、布川に対する反論論文がありましたら提示してください。「4回」というのはいつの時代の「定説」でしょうか? 丸木俊の代表作、「足尾鉱毒の図」でも、題材に使われたのは第5回の女押出しだったはずです。川俣事件も参照してください。押出しの回数がはっきり分かるようになったのは近年で、当事者ですら間違っていた(存在しないはずの押出しを数えていた)、ということが近年分かってきています。Modeha 2006年9月3日 (日) 12:41 (UTC)[返信]

確認しました。『田中正造と足尾鉱毒事件研究13』(2003年)掲載の「正造直訴語の二つの勝利」(布川了)に、第5回、第6回押出しについての詳細な研究があります。特にご異議がない場合、「布川了によれば」という但し書きをつけて戻します。Modeha 2006年9月5日 (火) 09:51 (UTC)[返信]

私自身はこの件について詳しくないのですが、布川氏の研究がそうだとしているのは紛れもない事実なので、但し書きがあれば特に問題ないと思います。改めて読んでみると、押出しに関しては川俣事件の項のほうが詳しく書いているのですね。文章が冗長になる恐れもありますが、押出しそのものについての記述なり、誘導があると、今回あったような「見解」の相違の理解に役立つかもしれません。--Tdk 2006年9月5日 (火) 15:04 (UTC)[返信]

Tdk氏の案に沿って書き直しました。布川以前に、田村紀雄の『川俣事件』等にも、第5回の女押出しについての言及は既にあります。(ただ、田村は回数で「第5回」とは数えていません)Modeha 2006年9月7日 (木) 10:32 (UTC)[返信]

2006年8月4日(JST)のIP利用者61.215.63.200による編集[編集]

1か月半ほどかけて、この利用者による編集の根拠を参照してみましたが、いずれもその根拠が極めて脆弱か、発言者本人によって後に取り消されていることが分かりましたのでいったん全部消します。

具体的には次のとおりです。

入沢の裁判での証言ですが、入沢本人は、急性銅中毒以外については調査していないと後に自ら認めています。また、入沢の裁判での発言直後、裁判長が入沢へ命じた内容は「鑑定を命ぜす」というものでした。単に裁判での証言がすべて事実と認められるならば、被告の農民側の、被害は甚大という事実も当然認められるべきで、入沢の言及のみが強調される理由がありません。最悪でも、農民側の主張を併記すべきでしょう。また、入沢自身が後に自身の研究が、急性銅中毒のみの研究であると明言しているにもかかわらず、入沢の古い研究結果を取り上げるのは、読者が入沢に対して誤った印象を持つおそれがあります。

田中が、1902年の豊作が山が崩れて鉱毒に汚染されていない土が汚染土の上に積もったためだと主張したことについて、「しかし、現実にはありえない幼稚な作り話だし、前記の新聞記事とも矛盾する。当事者である農民も誰一人この説を認めていない。」という記述が加えられましたが、太田鉱毒根絶期成同盟会会長でもある板橋明治が碑に刻んだ文章中にこの件に関する記述があり、「当事者である農民も誰一人この説を認めていない」というのは明らかに事実に反するので消しました。

ケネス・ストロングが「1904年までには多くの田畑が通常の水準に近いところまで生産性を取り戻した」」と書いたという部分については、ストロングはこの文章のすぐあとで、しかし、今後も鉱毒が流れてこないという保証がない、と続けているので、明らかに文脈をとらえない記述であるために消します。ストロングの言通り、実際に1938年には再び堤防が崩れ、鉱毒反対運動が起きています。このときも国会(衆議院)で追及がされましたので議事録等を参照してください。この理由からこの部分も消します。

栃木県連合教育会編・発行の『下野人物風土記・三集』については、古河市兵衛の項に、当時の予防令による工事で鉱毒がなくなったという記述があることは確認しましたが、一集の田中正造の項ではこの時点で鉱毒がなくならかったことを前提に書かれており、鉱毒がなくなったと栃木県連合教育会が主張しているとはいえません。なお、三集が出てから一集の再版が出ています(1971年第3版)ので、一集の内容を三集で訂正したものという言い方はできません。また、同じ栃木県連合教育会の『しもつけ物語 七集』(1988年)の古河市兵衛の項では、「鉱毒はなくなりませんでした」とはっきり書いてありますので、少なくとも栃木県連合教育会は、1970年時点での誤りを、1988年までに訂正したとみなすことができます。栃木県連合教育会自身が訂正している記述をそのまま使うのは不適当なので消しました。恐らく、1970年段階の文章は、古河市兵衛の伝記小説か何かを元に、調査の不十分なまま執筆されたものでしょう。

また、1993年に、政府は、当時の対応が不十分で、抜本的な解決とはならなかったことを認めていますので、それ以外の、当時の対策で鉱毒がなくなったり相当減ったかのように見える記述はいったん消します。Modeha 2006年9月23日 (土) 11:33 (UTC)[返信]

追記『しもつけ物語 七集』は「鉱毒はなくなりませんでした」という表現ではありませんでした。135ページですが、2カ所で鉱毒についての言及があり、どちらも対策を行ったが完全には防げなかったという書き方になっています。なお、『しもつけ物語 七集』には、あとがきのないロット品と、はさみこみであとがきのあるロットがあります。(どちらも初版本)このあとがきでは、「下野人物風土記」等の栃木県連合教育会の出版物に触れ、同書などの品切れが多くなったことが、この書の発刊理由であると明示されています。つまり、「しもつけ物語」は、「下野人物風土記」の後継として編纂されたものであることが分かります。あとがきは一集についているものと同じのようです。Modeha 2006年9月28日 (木) 12:08 (UTC)[返信]

古河側が初めて「賠償金」を支払ったのが1974年であることの根拠[編集]

どうも、1974年の毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会との和解で、古河側が公害問題ではじめて損害賠償金を支払ったという記述がたびたび消されるので、根拠文献を提示します。かなりたくさんあるのですが、たとえば、

森長英三郎 『足尾鉱毒事件 下』390ページに、このとき、被害民ははじめて損害賠償請求した、という記述があり、少し戻って389ページには、それ以前の示談金提供などは損害賠償とはいえないだろうと述べられています。探せばほかにも根拠文献はあります。もし、1974年以前に「協力金」「寄付金」「見舞金」以外の名目で古河鉱業が鉱毒被害に対して賠償金を支払った例がありましたら提示してください。Modeha 2006年10月15日 (日) 12:50 (UTC)[返信]

Revertの理由[編集]

Afaz氏により、2011年3月11日の源五郎沢堆積場再決壊事件からわずか1年3ヶ月で現在進行中タグが削除されましたが、120年間継続中の公害事件で、事象からたった1年3ヶ月で現在進行形中タグを除去する根拠が提示されていないのでrevertしました。再度除去される場合はその理由の提示をお願いします。Modeha会話2012年8月15日 (水) 12:50 (UTC)[返信]

現在進行テンプレートはすべての現在進行中の事象に貼り付けるものではありません。状況が急激に変化しつつあるため、編集内容が不正確になる恐れが高い場合に貼り付けます。この記事の更新状況はもう1ヶ月に1回程度なのでその恐れが少ないため外しました。なお、この現在進行テンプレートは現在廃止が検討されていますので、議論はそちらでお願いします。--Afaz会話2012年8月16日 (木) 00:00 (UTC)[返信]