ノート:郷士

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goo辞典[1]と酷似しています。ZZZ 2004年7月22日 (木) 00:42 (UTC)[返信]

Copyright 警告が消されて書き直されています。履歴に残っているのでいったん削除が必要? --KZY 2004年7月24日 (土) 11:28 (UTC)[返信]

このページの削除が必要に思えます。 2004年9月13日 (月) 16:12 (UTC) 利用者

地侍[編集]

せっかく直されて悪いのですが、地侍は元々在所に住んでいた半農の侍のことですから、武家とされては少し意味が変わってしまいます。 Zorac 2005年10月22日 (土) 05:27 (UTC)[返信]

郷士の豊かなものは「自給自足する」というイメージではありませんし、禄をもらう郷士も多いです。かっては武家の庄屋(って何)ではなく、地侍です。よって、悪いですが元に戻させてもらいます。 Zorac 2005年10月27日 (木) 14:23 (UTC)[返信]

藩士[編集]

Jungerさん、藩士と郷士を区別する記述をあちこちで何回もしていますが、そういう使用例はあるのですか?坂本龍馬や武市瑞山は土佐藩士ではないのでしょうか。 Zorac 2005年12月15日 (木) 12:46 (UTC)[返信]


横から失礼します。藩によって違いはありますが、藩士はいわゆる家中と呼ばれる正規の武士をいいます。郷士は旧族郷士・取立郷士の別にかかわらず、正規の武士ではありません。ゆえに両者は明確に区別されます。

郷士は基本的に武士階級と百姓階級の中間に位置する身分。つまり、武士に同様あるいは準ずる特権(苗字帯刀、御目見、知行・扶持・給地など)を持つことが大きな特徴。一方でそれに対する武士としての義務(軍役など)を勤めるという意味で、庄屋などで単に苗字帯刀を許されただけ百姓・町人(特権百姓・町人)と区別されるのです。

両者の違いとして端的に表すのがは郷士は藩政に関わることがほとんどありません。家中であれば、近世中期以降に中下級のものが藩政改革の責任者や一代家老などに登用されることがありました。郷士は武士に準ずる身分ではありましたが、彼らのほとんどは商業や農業が本業であり、日常的に登城して御用勤めはしていませんでした。彼らはあくまでも支配される側。武士同様の特権をもっていたり、人別帳から除かれる場合など支配者としての側面も併せ持っているため複雑ですが、それゆえ身分的中間層と呼ばれます。

ちなみに坂本龍馬や武市瑞山は土佐藩政に関わりましたが、それは幕末という非常時での話。

土佐藩では上士と郷士を含む下士の差別が激しかったと言われますが、他藩を見ても家中と郷士が同列であった例はほぼ皆無といえると思います。郷士については、さらに詳しく知りたければ木村礎の論文を読むことをお勧めします。222.14.60.89 2005年12月16日 (金) 18:00 (UTC)[返信]

丁寧なお返事ありがとうございます。ただ、普通の武士と郷士が違うことは本文にも書いてあるように分かっているのです。問題は藩士という言葉が、郷士を含まないかということです。ご存知のように藩士という言葉は、元々正式な用語ではなく、江戸期にはあまり使われておらず、幕末以降に盛んに使われるようになった言葉です。
正式な用語ではない以上、一般にどう使われているかですが、例えば有馬新七は薩摩郷士ですが、普通、寺田屋事件では薩摩藩士と表記されています。同様の例は多く、藩士と郷士を区別して表記する例を知りません。幕末は特殊な時期ですが、藩士も幕末に使用された言葉であることと、正式な定義が無い以上、一般的な使われ方を重視すべきです。また、そもそも江戸期の身分制を説明するのに藩士という言葉を使用すべきではないと思っています。ご推奨いただいた「木村礎さんの論文」も郷士は藩士には含まれないとは言ってないのではないですか? Zorac 2005年12月17日 (土) 06:58 (UTC)[返信]


再び失礼します。有馬新七の例ですが、薩摩藩もまた特殊な環境の藩であります。なぜなら、旧族居付大名であるため、外城制の存在などに見られるように中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは違います。戦国時代における在地武士がそのまま郷士として家臣団の末端に組み込まれたところ(類型としては相馬中村藩の郷士に近い)があります。つまり他藩であれば、城下に移住するべき家臣団が在地に残ったわけです。他藩における一般的な郷士は基本的に新たな領主が懐柔策や新田開発・献金の褒美によって領民を郷士に取り立てた(あるいはその地位を認めた)わけで、藩内における立場に差があると思います。 薩摩藩の郷士は紛れもなく郷士に値しますが、このような特殊性、および公器としての性格の強まった幕末雄藩の状況における郷士を近世全体の郷士像としてみるのは危険だと思います。草莽の志士などと呼ばれるように郷士などの下級武士や村落知識層が活躍したのが幕末であるため仕方ないといえば仕方ないのですが、どうしても幕末、しかも西国雄藩の郷士に目が行きがちです。しかし、この制度を見る場合には幕末以前の段階及び全国的な郷士制度を見る必要があると思います。

また、越後の渡辺家や酒田の本間家、あるいは自由民権運動の河野広中(河野は正確には郷士の次男)などはそれぞれ郷士に列していますが、かれらをそれぞれ米沢藩士、庄内藩士、三春藩士などと呼ぶでしょうか?また天領にも郷士は存在しましたが、彼らを幕府御家人と呼ぶでしょうか?少なくとも私はそういう例を存じません。前に書きました武市瑞山などもある程度以上の専門性がある書籍では「土佐藩士」とは表記せず、「土佐藩郷士」と表記してると思います。

視点を変えてみるとして、確かに藩士・及び藩という語は幕末(特に雄藩で)に使われ出し、江戸期の正式な史料用語ではありません。ですが、日本近世史の研究のおいては豊臣期あたりからの大名領国を「藩」と呼称することがあるなど、いわゆる学術用語でもあるのです。「藩士」においても、論文上などでは正確さを追求するため、多くは「家中」と記しますが、「家中」=「藩士」という意味で使用する例も多々あります。どこまでが家中かは藩によっても違いますが、この家中で括られる範囲がいわゆる正規の武士に当たります。大抵、足軽などは家中の範囲に入りませんので、足軽が「○○藩士」という表記をされることはほとんど見ません。この点からも郷士も同様あると考えております。

木村礎などの論文においては、郷士は家中とは明確に区別されるという意味の記述があります。 確かに藩士に郷士は含まれてないという記述はありませんが、家中=藩士という図式に当てはめれば郷士は藩士に含まれないと考えられるのではないでしょうか?

また、私の方からもJungerさんに質問があります。履歴を見ていただければ分かりますが、庄屋などで単に苗字帯刀を許されただけの者は郷士とは言えない旨の記述でわざわざ「郷士に属するが」とお入れになった意味がわかりません。これらの者は郷士には属さないので、この表記ではまるで「~のようで~でない」という謎かけのようです。日本語として矛盾しており、とても分かりづらいのでこの言葉を外しました。これらの者が郷士に属さないのは、郷士研究における現在の学説の通説であり、「厳密」と前置きしているからには学説で通説になっているものを記述して正確さをもとめるべきだと思います。もし、この言葉を入れた意味があるなら、ご教示願えれば幸いです。222.14.60.89 2005年12月17日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

藩士の件について、ご返答します。

  1. 薩摩藩を例外だとしても、70万石の雄藩なら十分な例で、取るに足らない特殊なものとはいえないと思います。旧族居付大名には伊達氏などもありますし、それに戦国大名の支配の強かった地域にも同様の事情はありそうです。
  2. 郷士は非常に多様で一口にはまとめられないわけで、名字帯刀を得た取立郷士や特権百姓と旧族郷士は扱いが違うだろうと思います。また、負けず劣らず特殊な例を挙げていますが、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と詠われた本間氏を藩士扱いしては可哀想でしょう。十津川郷士も思い切り特殊な例で、彼らはむしろ朝臣と自認してたと思います。しかし、八王子千人同心などは幕臣と自覚していたでしょう。まあ、どちらにしろ藩ではありませんが。
  3. 私の見た範囲では、大名直属の足軽は藩に含めているようです。もちろん足軽は士分ではありませんから藩士とは言いませんが、(一応)士分である郷士なら藩士と呼ばれることになります。
  4. そして、藩の概念は(大名)家より大きいのです。家はあくまで個人の家の拡大判なのに対し、藩は領地内の全てのものを含んでいるようです。つまり、家中≠藩です。だからこそ、身分の低い出身の者が多かった維新の志士は好んで藩を使ったのでしょう。

Zorac 2005年12月19日 (月) 14:20 (UTC)[返信]


なるほど。大変失礼ではありますが、ご返答に誤りと思われる箇所がありますので、私の意見と併せて指摘させていただきます。

1、伊達氏は旧族居付大名ではありません。豊臣秀吉によって旧葛西・大崎領を中心とした地域に移封されています。仙台藩は地方知行制によって武士が在村していましたが、彼らは在郷家臣と分類される存在です。(ちなみに旧族居付大名と地方知行はイコールではありません)

2、薩摩藩の例を取るに足らないとは申しておりません。薩摩藩の形態は郷士の代表的なものです。ただ、その藩内における立場が特殊だと申しあげているわけで、旧族居付大名は島津氏、南部氏、相馬氏、宗氏など数えるほどしかおりません。たとえ70万石の大名だとしても郷士の置かれている立場は同時代におけるマイノリティであると思います。戦国時代の大名支配が強かった土地ではありそうとおっしゃいますが、そういった土地では在地の勢力が強かったわけで、その懐柔として郷士として遇したのは何度も申し上げている通りです。同時に新たな支配者の体面という点で郷士は特権と裏腹に公権力からは距離を置いて差別化を図ったわけです。このような事情から旧族居付大名の土地以外で郷士が公権力に組したというのは知る限り例を見ません(幕末期を除く)。

3、同一の藩内に旧族郷士と取立郷士が同時に存在した例はありますが、家臣団における立場という点では同一の藩内ではあまり変わりがありません。もちろん郷士内部における格付けは存在しましたが(相馬中村藩における郷士と在郷給人など)。多様な例のある郷士で一口にまとめられないのは確かですが、そういった差でいうならむしろ取立郷士と特権百姓の差が大きいと思います。

4、負けず劣らず特殊な例といわれてしまいましたが、本間氏や渡辺氏、あるいは河野広中の例を出したのは、そのような郷士であっても所詮は領民であったわけで、学術的に藩士として表記されないことを示したいがためです。権勢を誇った本間氏を藩士扱いは可哀想といいますが、権勢を誇ろうが郷士に列しながら藩士として扱われてない例だと思いますが。まあ、本間氏はともかくとしても、渡辺氏や河野広中の例などは郷士でありながらも「藩士」という表記をされることがないことを示しているのではありませんか?河野広中などは三春藩(東北の小藩ではありますが)の藩論を戊辰戦争における官軍への恭順へ導くということをしながらも、三春藩士と称されることがありません。

5、八王子千人同心は幕臣、十津川郷士は朝臣と自負していたといいますが、そのような意識は郷士はもちろん特権百姓も多分に持っていました。それどころかこれは村役層一般にもこの意識は強く自負心という点は問題ではありません(このあたりの事情については落合延孝著「猫絵の殿様」という研究書に詳しいので参照に)。問題はそれ以外の層からどのように捉えられていたか、また研究者の間でどのように捉えられているかです。

6、「藩」と「藩士」の違いがはっきりしていないようなので、その点について。学術用語としての「藩」は同時代における大名権力による支配機構、およびそれにより支配される地域をいいます。藩が大名家よりも大きいのは至極当然の話であります。よって、藩の機構という点で足軽や郷士という存在は含まれます。よって家中≠藩というのは当然ですが、家中≠藩士とはなりません。 藩士は藩に含まれる(広義の)武士を全て含むものではないからです。俗語でいうところの藩士は藩に含まれる武士(およびそれに類する者)全てでもよいのですが、歴史学において使用されるある程度の専門性をもつ言葉(もちろん正確な用語ではないが)としての「藩士」はいわゆる家中の範囲とするのが通例です。

私は日本近世史を専攻して修めた際にこのように理解いたしましたが、いかがでしょうか?ちなみに私は222.14.60.89と同一人物です。222.4.16.3 2005年12月19日 (月) 17:27 (UTC)[返信]

まあ、これくらいにしておきましょう。学術用語で家中=藩士であるというなら仕方がありません。言葉は、元々、広義、狭義があるのが普通ですし、専門的な使われ方と一般的な使われ方は違います。

あえて公式に近い使われ方としては、「平成 15 年 5 月 8 日(木)の衆議院憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会」における「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」の中で、

明治 2 年(1869)
6 月 25 日 藩士を士族・卒とし、農・工・商を平民とする(M3.9.19 平民に名字の使 用を許可)

というのがあります。これによると、足軽も含めて藩士と呼んでいるようです。

それより、せっかくこれだけノートに書かれているのですから、具体的な郷士の事例等を本文に書いてもらえませんかね。そういうのがあると読者も具体的なイメージをつかみ易いですから。また、ログイン登録をするとページのウォッチ機能もついてきて便利ですよ。 Zorac 2005年12月20日 (火) 11:55 (UTC)[返信]

このノートをずっと拝見しておりました。自分は近世史には殆ど疎いので、お二方のご見識に敬服するばかりです。ときに222.14.60.89=222.4.16.3さんは近世史をご専攻されたとのことですが、ウィキペディアにはそうした専門知識を有する人材が実は乏しく、まさに貴兄のような方を渇望しているところなのです。既にウィキペディアでのご活動をなされていれば失礼をお詫びいたします。もしそうでなければウィキペディアでのご活動を是非ともご検討ください。首を長くしてお待ちいたしております。(本来ここに書くべきではありませんが、222.14.60.89さんが可変IPのようですので、失礼ながらお邪魔いたしました。)--shimoxx 2005年12月20日 (火) 17:19 (UTC)[返信]

Jungerさん[編集]

Jungerさん、議論はよく読んでください。広義の藩士はもちろん狭義でも、この使用の仕方は不正確になります。藩士は、幕臣に対する区別に使うものです。 Zorac 2005年12月23日 (金) 04:42 (UTC)[返信]


申し訳ありませんが、Jungerさんの記述の一部削除、変更をさせていただきました。 理由といたしましては貴殿の加筆によりかえってわかりづらい表現になっているように思われることと、加筆された内容が大雑把かつ根拠に欠けると思われるためです。以下、理由の詳細を記述いたします。

まず、「改易されたり滅びた戦国大名~」という記述ですが、これはあくまで由緒によって郷士に列せられた代表的事例の一つを記述しているのですから、「改易された戦国大名~」という表現にあえて「滅びた」と付け加える必要はないと思います。百科事典である以上、詳細かつ読みやい文章が求められます。 次に郷士が上級と下級に分かれる場合があるとの記事ですが、たしかに細かい階層に分かれる場合は多々あります。しかし、郷士が社会的身分として存在したのは近世までですから、上級の郷士の条件に「現在も~」と付け加える意味がわかりません。さらにいえば内部の階級として分かれる場合、上級・下級のように二分されることはまれで、さらに細かい階層に分かれます。

私はこのように思いますが、いかがでありましょうか?222.2.14.88 2006年1月23日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

土佐郷士家系の現状[編集]

本文にあるように、土佐藩では上士による郷士への相当な差別政策が取られていました。この関係から、今なお高知県では上士の末裔と郷士の末裔との確執が根強いと聞きます。実態はどうなのでしょうか? 219.20.144.131 2006年11月2日 (木) 08:55 (UTC)[返信]

Category作成[編集]

需要があると思うのでCategory:郷士を作成したいのですが・・・何かご意見等ありますか?今日から1週間くらい意見を募集しますので--Parachutes 2007年10月26日 (金) 11:19 (UTC)[返信]

賛成 --越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年10月30日 (火) 12:08 (UTC)[返信]

(報告)反対意見がなかったのでCategory:郷士を作成しました。--Parachutes 2007年11月1日 (木) 13:10 (UTC)[返信]

著名な郷士[編集]

著名な郷士が少しずつ増えていってます。 薩摩藩は雄藩で維新で活躍したので、著名な郷士が多いのはわかるのですが、 これ以上増やさなくともよいのでは? あまり長いと見づらくなりますし。

個人的にはあくまで「郷士」についてのページなので、 各藩1名ぐらいでよいのでは?と思っています。 --220.215.160.165 2009年5月8日 (金) 19:09 (UTC)[返信]


意味不明[編集]

>庄屋や大庄屋あるいは豪商などで単に名字帯刀を許されただけの者は、武士階級における郷士とは区別して特権豪農・豪家というべきとされるが微妙である。というのもそれらの特権豪農・豪家は郷士とされている場合が少なくないからである。

郷士とは身分階層名称を持って家臣団階層の中に含まれている、知行を与えられている、軍役があるなどの点が特徴です。これらがなく、単に苗字帯刀を許されただけなのが特権豪農・豪家。この点で区別されます。 それなのに「特権豪農・豪家は郷士とされている場合が少なくない」というのはどういうことでしょう?

苗字帯刀を許されただけでも「郷士」と呼ばれている/称していることが少なくないということでしょうか? それはあくまで自称や通称であって、公的なものではないはずです。 つまり史料的、学術的なものではありません。

そもそも「微妙」という表現は辞典的ではありません。

過去の版を見ても、苗字帯刀が許されただけのものをどうしても郷士と位置付けたい方がいるようですが、そのように書き直すなら学術的な論説や裏付けできる史料を示していただきたいです。

>農村に居住して自活自営する武士

過去のノートにも『郷士の豊かなものは「自給自足する」というイメージではありませんし、禄をもらう郷士も多いです』 との記載があるように自活自営する武士というのは正しくありません。


以上から、木村礎の論文をもとに郷士の本質的な性格を整理して加筆訂正させていただきました。 --220.215.160.165 2009年5月8日 (金) 19:51 (UTC)[返信]

差し戻しについて[編集]

AKEK さんによって加筆された2010年3月17日 (水) 19:37の版についてですが、近世史学会における郷士研究を踏まえておらず、独自研究ないし個人的思い込みによって書かれた極めて主観的なものとなっております。 具体的には以下の点が該当します。

>士族には含まれず、上級藩士(上士)、下級藩士(下士)、足軽の下に位置し、地下浪人よりは上の身分である。

上記は土佐藩の郷士制度を基に書かれたようですが、土佐藩の郷士制度をもって全国的に存在した郷士身分の概論を表すことは適当ではありません。例えば土佐藩以外で郷士株を他に譲渡したものが地下浪人という浪人身分となることは少なく、これをもって身分の上下を表す基準とすべきではないでしょう。 さらに、藩によって千差万別とはいえ、郷士は徒士並であることが多く、また士分には入らない卒身分の足軽の下というのもあまりにも日本近世史における定説とずれております。

>一般的に農村に居住(在郷)しながら最下級武士としての待遇

上記にも触れているとおり徒士並の身分であることが多い郷士は、必ずしも最下級武士ではありません。

AKEK さんの加筆部分は、全国的に存在し様々な実態を持つ郷士について理解されておらず、土佐藩の郷士制度のみを もって郷士身分としているようです。その土佐藩の郷士制度についても、論文等の学術的な研究について理解されているのではなく、歴史読み物や歴史小説による記載を基にしているのではないでしょうか。 なぜなら、概論等では身分の上下関係については持論を加筆しているが、矛盾する内容にも関わらず木村礎の学説を基に記載されている郷士身分のメルクマールについては一切加筆・修正されていないことから、郷士制度の先行研究を理解していないものと判断できます。

よって、百科事典には適当な加筆ではないと判断し、差し戻しをさせていただきました。 異論等ございましたら、まずはこのノートにてお願いします。--220.215.160.165 2010年3月25日 (木) 17:24 (UTC)[返信]

コメント土佐藩の郷士制度は下記で詳しく解説してあるため不要です。冒頭部分には一般的な郷士階級を記すのが普通です。--118.10.83.235 2010年5月15日 (土) 16:37 (UTC)[返信]

コメント118.10.83.235殿の加筆された箇所についてですが、加筆内容自体が土佐藩における郷士制度のもので一般的なものではありません。よって大変申し訳ありませんが、差し戻しをさせていただきました。前回の記述と被りますが、詳細は以下となります。

>上級藩士(上士)、下級藩士(下士)、足軽の下に位置し、

全国的にみた場合、郷士は徒士並であることも多く、この場合は下級藩士並となります。 また場合によっては騎馬を許され、下級藩士よりも上に位置付けられる場合さえあります。 身分が低い場合でも足軽並の役を務めることが多く、卒身分の足軽の下というのはあまりにも日本近世史における学会の定説とずれております。

>地下浪人よりは上の身分である。

土佐藩以外で郷士職を召し上げられた、あるいは譲渡により郷士身分を離れた場合、地下浪人なる身分として遇されることは稀です。単なる百姓、あるいは町人となり、苗字帯刀は許されないことがほとんどです。よって地下浪人なる身分は一般的ではありません。

もし、この点に異論があれば、まずはこちらにて論文等学術的な資料を示された上で御加筆ください。--220.215.160.165 2010年5月18日 (火) 15:01 (UTC)[返信]

白札のリダイレクト化提案[編集]

土佐の白札の記事内容が、すべてこのページに含まれているため、リダイレクト化を提案いたします(このような場合は統合できません)。

議論はノート:白札にて。--禁樹なずな 2010年6月6日 (日) 20:49 (UTC)[返信]

報告 2週間経過しても特に意見がなかったため、実行しました。--禁樹なずな 2010年6月20日 (日) 19:58 (UTC)[返信]