ノート:長崎純景

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関連資料[編集]

関連資料

出典が全くないため、以下に関連資料を一覧にします。発行年順[※ 1]、書誌情報を補います。

  • 片岡 弥吉『少年少女のための日本キリシタン物語』中央出版社、1948年。CiNii。
    • 改訂版、片岡 弥吉、永井 隆『日本キリシタン物語』、1959年ほか。
  • 第4管区総監部第1部 編「郷土史研究の主要参考書(長崎篇)」『福岡篇、長崎篇』〈精神教育参考書〉、陸上自衛隊西部方面総監部、1955年-、221-222頁。
  • 田中 将『日本キリシタン物語』角川書店、1966年。CiNii
結城了悟

パチェコ・ディエゴスペイン語: Diego, Pacheco、別名義は結城了悟、1922年-2008年。

  • 『長崎を開いた人 : コスメ・デ・トーレスの生涯』佐久間正 訳、中央出版社、1969年。デジタル国立国会図書館内/図書館・個人送信、Template:Pidjp
    • 改版改訂版、結城了悟 著、サンパウロ、2007年、ISBN 9784805664155
  • 撮影とも『長崎の外人墓地の碑文』日本二十六聖人記念館、1977年。
  • 『九州キリシタン史研究』キリシタン文化研究会〈キリシタン文化研究シリーズ 16〉、1977年。
  • 撮影とも『九州の古城とキリシタン』日本二十六聖人記念館、1978年。
  • 『長崎の開港とイエズス会への譲渡』Centro de Estudos Maritimos de Macau、1989年。Diego Pacheco名義。
  • 『ルイス・デ・アルメイダ:1525–1583 光を灯す医師』マカオ文化学会、1989年。
  • 『日本キリシタン物語』
松田毅一
  • 『日葡交渉史』教文館、1963年。CiNii
    • 『大村純忠伝 : 付・日葡交渉小史』、教文館 1978年。改訂版。CiNii
    • 『日本・ポルトガル交渉小史』在京ポルトガル大使館文化部、1992年。
脚注
  1. ^ 長崎から世界の宝へ”. ナガジン(発見! 長崎の歩き方). 長崎市広報広聴課. 2023年10月1日閲覧。
  2. ^ * 題字は松浦素による(旧平戸藩松浦家当主)。

--Omotecho会話2023年10月1日 (日) 15:49 (UTC)[返信]

「トードス・オス・サントス教会跡」(写真、長崎県庁公式サイト←世界遺産担当部署より転載)
長崎で初めて建ったカトリック教会、その跡地に立つ仏教寺院(山門)。
|cite web
|title=【フォト巡礼】「トードス・オス・サントス教会跡」
|date=2020-11-06
|url=https://www.pref.nagasaki.jp/object/kenkaranooshirase/oshirase/461542.html
|publisher= 長崎県庁© 2021
|accessdate=2023-10-11
|date=令和2年(2020年)9月11日 午後3時半頃
|location=長崎市夫婦川町(撮影場所)
|author=池田勉(撮影)
|quote=掲載の写真は同教会跡地に1651年に建立された華嶽山春徳寺の山門周辺を参道から撮影した写真である。参道脇にある五色塀は大村藩特有で大村城下では多く存在している。
  • 1569年に自(長崎領主の長崎甚左衛門は)領地内に長崎で初のトードス・オス・サントス教会を建てている。その後
  • 1573年に、長崎港口を支配しキリシタンに反感を持つ深堀純賢によって同教会は焼き打ちに遭っている。その後
  • 1580年に大村純忠は長崎をイエズス会に寄進
  • 1588年には豊臣秀吉の直轄地となっている。
  • 1597年には同教会跡にセミナリオやコレジヨが設置されている。
--Omotecho会話2023年10月11日 (水) 11:09 (UTC)[返信]

疑問点[編集]

所領替えに700石とある点は典拠があるでしょうか。700万石と示した資料[※ 1]しか見つからず、正しい石高の典拠をお願いします。なお前述の資料は誤字が多くその点を書き添えます。

第2点は時期です。同じ資料に示された年号(以下ご参照)を補足できるかどうか、より信頼性の高い資料をご存じでしたらご教示願います。以下、転記します。

  • さらに天正8年(1580)、長崎6ヶ町と茂木をイエズス会に寄進。町全体がイエズス会領になる(中略)。また、天正12年(1584)には浦上村もイエズス会に寄進され、浦上村一帯がキリシタンの村となる。

  1. ^ 「ナガジン」発見!長崎の歩き方”. www.city.nagasaki.lg.jp. 長崎市. 2023年10月1日閲覧。
  2. --Omotecho(会話) 2023年10月3日 (火) 23:55 (UTC)/資料検索の補足--Omotecho会話2023年10月4日 (水) 00:13 (UTC)[返信]

    第一点に関して言えば、近所にあるものを見ただけですが、700石と書かれた資料しか見つかりません。
    • 片岡弥吉「甚左衛門の晩年」『長崎の殉教者』(4版)角川書店〈角川選書〉、1980年、14頁。"時津村七〇〇石を知行地として与えようとしたが、甚左衛門は受けず"。 
    • 家臣人名事典編纂委員会 編「大村右近」『三百藩家臣人名事典』 7巻、新人物往来社、1989年、297頁。ISBN 4-404-01607-7。"純景に時津村七百石を代地として与えることとした。しかし、純景は憤然としてこれを受けず"。 
    むしろ『ナガジン』の700万石という数値はどこから出てきたのか、興味があるところです。--西村崇会話2023年10月10日 (火) 00:00 (UTC)[返信]
    @西村崇さん、迅速なご返答と、書誌情報を教えてくださり誠にありがとうございます。
    • ところで非常に厚かましいのですが、教えてくださった典拠を例の石高に添えていただけませんでしょうか。やはり資料で固めて品質を保つのは必然と思いました。近所の公立図書館では入手できず、国会図書館のデータベースですと旧版で目次に載っていないようでした。
    • ▲「甚左衛門の晩年」なし。〈角川新書〉、1957年。(片岡弥吉『長崎の殉教者』角川書店〈角川新書〉、1957年。NDLJP:57010617、DOI: 10.11501/296542。国立国会図書館デジタルコレクション(遠隔複写サービス、国立国会図書館内で 閲覧)。
    • ▲目次の電子版なし。改版、〈角川新書〉、1970年。全国書誌番号:74006161。NDLJP:12282790。DOI:10.11501/12282790
    別件ながら、長崎純景が最後に仕官した下りの典拠です。もしかして先般の2つの文献に依ることはできますでしょうか? 実に意地の悪い針小棒大な指摘になりますが、江戸時代の話題に1900年代の年を示した箇所が『ナガジン』にあり、これぞ他山の石とします。
    余談、「万」という文字は単なる誤植だと直感します。現代のそろばん勘定ですと、全く元が取れません。いかに長崎の湊が良港とは申せ、ポルトガルが落とすであろう利潤は、7百万人ぶちを軽く回収できるほど莫大と見込んだのか? (純景の仁義に主家がそのような厚遇をしては、お家騒動になりかねず……。)--Omotecho会話2023年10月10日 (火) 17:47 (UTC)[返信]