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ノート:関ヶ原本戦の配置

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信憑性[編集]

  • 伊奈昭綱は本当に「伊奈今成」の表記になっているがそのように名乗ったのか?
  • 高田治忠について「高田薩摩守」になっていたが、「高田豊後守」が正当の為修正した。
  • 三渕(淵)大和守は三淵藤英だとするとかなり前に没しており、息子の三淵光成

伯耆守の受領名を名乗り、東軍として田辺城の戦いで活躍したはず。同じく他の子息も 細川藤孝の一族であり家臣とすると西軍で誰かがついたことは考えにくい。

伊奈今成については状況証拠(彼の根来組が戦後廃絶されている)からの判断なので不適ですね、修正する必要があります。坂部広勝」につきましては修正、ありがとうございました。
ただ「高田薩摩守」「三淵大和守」については出典の「朝野」からそのまま引用したので、もし立志堂様がそれらを修正する場合はそれを否定する資料を明記した上で、修正・注釈する必要があると思います。またその時は、修正前の文も何らかの形で残すべきでしょう。「--HI 2009年12月23日 (水) 02:29 (UTC)[返信]

独自研究の疑い[編集]

本項目冒頭に「出典について」と題し、次のような注意書きがあります。

関ヶ原の戦いの項では明治時代、旧陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 関原役』を基にしているが、本項では江戸時代に幕府の命により林述斎らが作成した徳川家康に関する史料集『朝野旧聞裒藁』を基にする。その為、いくつかの点で差異が生じているので注意されたし。また記載内容は基本的に綱文を参考にしているが、中には本文史料を参考にした箇所もある。別途、脚注で表示する。

ここで記されていることを手短に述べれば、信頼できる情報源(旧陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 関原役』)があるにもかかわらず、それに従うことなく、一次資料(史料)を参照して記事を執筆したということであるように思われます。

しかし、「史料に『○○』と書いてある」ということは容易に言えても、そこから「(だから)××という出来事は○○だった」「史実は○○だった」ということとの間には大きな飛躍があります。こうした事情は、E・H・カーの『歴史とは何か』 で外交交渉の当事者の残した記録を例に挙げて指摘されている通りです。カーの挙げた例では、いずれの側の当事者も、自分は理路整然としているが相手は支離滅裂という記録になっており、単にそれらの記録を史料として採用しても何が起きたかは分からない、としています。つまり、史料(=一次資料)に何が書いてある、というレベルを超えて出来事として何が起きたのか(起きなかったのか)を確定する(「情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価」)ということに なると、そこには史料の信頼性や真正性を検討するとか、複数の史料を信頼性を考量しつつ突合するとか、・・・大まかに言えば史料批判といわれる手続きが必要になります。

しかし、史料批判には専門的な訓練を必要とします(各時代や領域ごとに史料の持つ性質は異なり、それを踏まえなければ、史料批判は出来ません)。さてここで、Wikipediaの依拠する前提(つまり方針文書等)を鑑みると、個々の書き手の能力や資格は実は記事の信頼性の基礎となりえないと考えられているように思われます(WP:NOR、WP:Vなど)。であるならば、史料に基づいて歴史上の出来事について記事を書く(まして既存の学説批判の文脈で記事を書く)というのは、少なくともWikipediaにおいては記述の信頼性の基礎たり得ないものを基礎としようとする試みであって、一言で言えば独自研究なのではないか、と考えます。

また、記事中に掲げられている図の類も「『朝野旧聞裒稾』内容より推定して作成した」との記述がある一方、その推定の主語が明記されていないことから、いずれも図の作成者による推定と考えられますが、こうした図も上記と同じ理由から、独自研究として最低限でも除去されなければならないものではないでしょうか。

改善を図ることが出来ればそれでも構いませんが、それが不可能なのであればjaWPの信頼性を損ねる記事として削除することも視野に入れなければならないと考えます。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 04:50 (UTC)[返信]

本項では『朝野旧聞裒藁』内の綱文、つまり林述斎ら江戸時代の見解を参照して記述をしています。そうでないものは本文中に収録されている史料と明記した上で、用いています。そういう意味で江戸時代の学者達による史料批判はなされていると判断しています。また、図につきましても構文の内容を図に起こす形で作成しています。--HI 2010年5月2日 (日) 05:33 (UTC)[返信]

第1に史料批判という研究上の手続きはランケ以来の近代的な歴史学に属するものです。それを「江戸時代の学者たちによる史料批判はなされている」とするのは語義矛盾です。それにもかかわらず、述斎らの著作を史料批判を踏まえたものだというその命題には、何か出典を提示できるのでしょうか。「江戸時代の学者たちによる史料批判はなされている」という命題がHIさんの判断以外に根拠を持たないのであれば、それは信頼性の基礎を欠き、不適切なのではないでしょうか。

第2に(言葉は悪いですが)述斎らは江戸時代の体制イデオローグであって、その著作に語られるところが何を意味しているのかは、「概括、分析、総合、解釈、評価」なしには把握しえません(これは常識でしょう?)。われわれウィキペディアの書き手は、述斎が著作にこれこれと記している、と書くことは出来ても、そのことから史実はこれこれであった、と書くのはしてはならないはずの「概括、分析、総合、解釈、評価」をしたことになります。

もちろん百歩譲ってこの記事が、関ヶ原本戦に関する述斎らの認識を扱うというのであれば、あるいは良いかも知れません(それでも実は問題があると思いますが)。ですが、その種の留保は一切なく、関ヶ原本戦に関する史実を、しかもきわめて慎重な取り扱いを要する史料を、いちウィキペディアンの解釈で以って確定し、百科事典記事として公表するというのは、あまりにも疑問を抱く余地が大きすぎます。

第3に「構文の内容を図に起こ」した図についても、疑問があります。ここまで述べてきた疑問に説得的な回答がなされたとしても、文字メディアである史料上の情報を視覚的なメディアである地図上の情報に置き換えることが、そのように単純に可能であるとは考えられません。陸軍参謀本部の地図上にある地形・地名と、史料中の地形・地名との対応関係の正しさは、何によって裏付けられているのでしょうか。なにより素朴な疑問として、関ヶ原の戦い、江戸時代、明治時代と百年単位の時間を隔てて、地形や地名がいささかの疑問の余地もなく簡単に対応付けられるものなのでしょうか。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 11:56 (UTC)修正--ikedat76 2010年5月2日 (日) 14:46 (UTC)[返信]

第4に、述斎の著作に依拠したの「でないものは本文中に収録されている史料と明記した上で、用いています」とあります。述斎の著作に依拠したりしなかったり、という選択の妥当性は何によって裏付けられているのでしょうか。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 14:46 (UTC)[返信]

第一、についてはウィキペディアにおいて史料批判の範囲が近代以降のものに限定されるという基準を示して下さい。
第二は無論、当時の状況から完全な中立性があるとは言えません。しかしそれはどの時代、歴史書にも程度の差こそあれ言える話であり、絶対の中立性があるという史書など皆無です。私は林述斎らによって編述された関ヶ原合戦の内容を書いているだけで、別にこれを史実化する気など毛頭ありません(もしそうなら、「関ヶ原合戦」の項に「日本戦史」のと置き換えます)。項目を「朝野旧聞裒藁が示す関ヶ原本戦」とでもするべきなのでしょうか。
第三については当時の地形・集落は大きく変化ることを前提にしている考えが理解できません。其の様な事実があるのでしたら、ぜひお教え下さい。
第四は複数の史料内で矛盾しない箇所で、文章内で説明が足りないと所を補足説明しています。これは林述斎の見解でなく、「記載史料にそのような記述があった」という意味で「本文史料を参考」としています。--HI 2010年5月2日 (日) 14:57 (UTC)[返信]
  1. 繰り返し指摘しますが、史料批判という手続きは近代歴史学になって初めて登場した概念です。史料批判が近代以前の・しかも非西洋社会で行われていたという見解は極めて奇異なものであり、そうした主張こそまさに出典の必要な主張にほかなりません。ウィキペディアかどうか、ということとは全く関係がありません
  2. 「完全な中立性」などというものは求めていません(近代以前・以降を問わず史書が編述された時代から独立ではありえないのは史学史の研究成果によって明らかなところです)。述斎の著作はそれ自体が日本近世思想史の研究対象であり、そのように研究対象であるということは、述斎の著作の記述が自明に理解可能な事柄ではないからです(「当時の状況」と相互参照しつつ読解されなければならない)。述斎の著作に「『○○である』と書いてある」と述べることには異論はありません。しかし、述斎の著作に「『○○である』と書いてある」から「史実は○○である」と述べるには、『○○である』という記述が単に事実として存在しているというだけでは不十分で、その記述が(例えば)史実の記述として信頼に値するという史料批判に踏み込まなければなりません。述斎の著作について、そこまで踏み込んで評価できる根拠はどこにあるのでしょうか。
  3. 変化があったかも知れませんし、無かったのかも知れません。どちらなのか、私は知りません。しかし、史料中の地名・地形を現在の地名・地形でどこに相当するのか比定することが問題になる場面は、歴史学において多々見られることです。そうした問題が無いとなぜそこまで安易に断定できるのか、私としては非常に不可解です。
  4. ますます分からなくなりました。「記載史料」「本文史料」のような曖昧な書き方をされても何のことだか分かりかねます。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 15:38 (UTC)追記--ikedat76 2010年5月2日 (日) 15:39 (UTC)[返信]


1.それは貴方の勝手な思い込みです。ウィキペディアのルールに無いことを勝手に唱えないで下さい。
2.林述斎の記述が史実とみなされない基準が理解できません。1.を根拠にしているのなら認められません。
3.つまりそれは根拠無く、地名や集落が移動したと考えているのですね。また「歴史学において多々見られることです」というのがこういう問題提起をしなければならない程にあるという根拠を示して下さい。
4.「朝野旧聞裒藁」掲載内の史料で綱文になく、矛盾しない点はそれを史料を用いたと明記した上で記し(参加武将・配陣位置)、複数の記述があるのは両論併記としております(兵数)--HI 2010年5月3日 (月) 04:16 (UTC)[返信]
「それはあなたの勝手な思い込み」の「それ」とは何を指すのでしょうか。「それ」が史料批判が近代歴史学以降のものであることを指すのなら、残念ながらHIさんの認識誤りです。「それ」が述斎という前近代かつ非西洋の著作家による歴史書が史料批判の方法に即していた、ということなのであれば、それは史料批判という概念の定義上、ただちに認められない矛盾した命題であり、それを主張するのであれば検証可能な出典が必要です。それを示していただきたく存じます。
述斎の著作はそれ自体が歴史上の書物であり、その内容について「述斎の著作に『○○である』と書いてある」という以上のことを、書こうとするのであれば検証可能な形で出典を示しつつ行う必要があります。
明確に書きますが、地名や地形の変化の有無は私は知りません。ただ、戦場の地形・地名という極めて重要な情報につき、関ヶ原の戦い(1600年)から少なくとも300年経って作成された陸軍測量部地図に記された地形・地名とが、ズレなく対応いることが裏付けがないのは非常に問題ではないでしょうか。とすると、HIさんの作られた地図はまるで意味がないばかりか、読者に誤った情報を提供することになります。
ひとつ気になること。「林述斎らによって編述された関ヶ原合戦の内容を書いているだけで、別にこれを史実化する気など毛頭ありません」とお書きになっています。そのように著しく限定された視角から書かれた内容の記事というのは、「関ヶ原本戦の配置」というタイトルを見て、閲覧にきた読者の期待に即したものなのでしょうか。ご自分のウェブサイト等で好きにやられるのであれば、あるいはいいかも知れません。ですが、もしその言葉が事実だとすると、この記事のタイトルは偽りではありませんか。--ikedat76 2010年5月4日 (火) 09:27 (UTC)[返信]


一段落目については「それ」とは史料批判の適応範囲が近代歴史学以前は含まれないという点。そして、それが西洋学でなければ認められないというのが貴方の勝手な思い込みであるということ。

二段落目は本文中の最初に「朝野旧聞裒藁」の内容であると記述している。

三段落目については地名・集落の移動があったと唱えるならその根拠を示す必要が貴方にはあると私は考えます。

最後の段落については一つの史観(朝野旧聞裒藁)では問題なのかもしれません。例えば「参謀本部編 日本戦史」の内容も併記する必要があるかもしれません。ただしその場合は「日本戦史」の記述しかない(例:兵数)「関ヶ原合戦」の方も手をいれる必要があるでしょう。--HI 2010年5月4日 (火) 13:42 (UTC)[返信]

私の誤解でなければ、HIさんは次のように主張されていると理解しています。
  • 述斎の著作『朝野旧聞裒藁』では「江戸時代の学者達〔=述斎〕による史料批判はなされている」(2010年5月2日 (日) 05:33 (UTC)より)
このHIさんの主張を言い換えれば、「江戸時代の学者達=述斎」は史料批判をしていたということになります。この理解でよろしいでしょうか。--ikedat76 2010年5月4日 (火) 13:57 (UTC)[返信]
「徳川家康辞典」の「朝野旧聞裒藁」の項に「本書の特色は、年代順に主要事項の綱文を立て、その下に、その根拠となる史料を原文のまま抄出・列挙し、編集者の評価を加えず、史料をして語らせるという客観的・実証的な手法をとっている点にある。」とあります。
その点における綱文は彼の考証の結果であり、史料の吟味を行っていると言えるでしょう。--HI 2010年5月6日 (木) 03:34 (UTC)[返信]

まず、2010年5月4日 (火) 13:42 (UTC)付のHIさんのコメントより

> 史料批判の適応範囲が近代歴史学以前は含まれない

と述べたことはありません(少なくともそうした意図はありません)。近代的な歴史学であれば、研究対象となる時代の如何にかかわらず史料批判は必須の作業です。

> 西洋学でなければ認められない

これについては、「西洋学」というのが、「ランケ以降の近代歴史学」を指すのであれば、明確にその通りです。言い換えれば、「史料批判をする」というセンテンスの主語となり得るのは、「ランケ以降の近代の歴史学者」以外は、本来あり得ない。私としてはそう申し上げているつもりです。

ここまでの点、誤解がないか確認していただきたく存じます。--ikedat76 2010年5月8日 (土) 02:29 (UTC)[返信]

貴方のお考えは理解できました。
>「史料批判をする」というセンテンスの主語となり得るのは、「ランケ以降の近代の歴史学者」以外は、本来あり得ない。
については納得できませんが。--HI 2010年5月8日 (土) 03:21 (UTC)[返信]

地図の件[編集]

納得されないのはHIさんの意思の問題ですので、私としては何とも申しようがありません。言うべきことはありますが、次の点として地図作成の件に移ります。

  • 地図作成にHIさんによる「朝野旧聞裒藁」読解ではない出典はありますでしょうか。あればご提示ください。
  • 繰り返しのお尋ねになりますが、16世紀末の時点(関ヶ原合戦当時)と20世紀初めの時点(陸地測量部地図編纂の時期)とで、地名・地形の変遷はないとHIさんは主張されていると理解してよろしいでしょうか。もし宜しいのであれば、その出典についてもご提示ください。

以上、お答えいただきたく存じます。--ikedat76 2010年5月8日 (土) 05:12 (UTC)[返信]

納得しないのは意思の問題でなく、それが貴方の勝手な考えだからです。
一つ目は何が言いたいのか良く解りません。「朝野」の文章内容を地図に示した行為が独自研究にあたるとお考えなのでしょうか。
二つ目、「関ヶ原町史」を確認した所、この間に地名・集落の移動があったという内容はありませんでした。--HI 2010年5月8日 (土) 08:05 (UTC)[返信]
一点目に付いてはその懸念を当初から示しています。メディアの性質の違い(文字で書かれた文書と地図)や歴史上の地名の比定という問題点も含めて申し上げているのですが、ご協力いただけないでしょうか。
二点目ですが、それでは非常に弱い証拠です。無かったと明言されているわけではないということなのであれば、無かったとも、有ったけれども「関ヶ原町史」編纂の段階で関心を惹かなかったため記述対照とならなかったとも、解釈できてしまいます。信頼のおける文献等に掲載されている地図に類件のものは無いのでしょうか。--ikedat76 2010年5月11日 (火) 03:40 (UTC)[返信]
一つ目については文章の地点を地図に起こす行為が独自研究になるなら、そうとしかいえません。ただ、それを独自研究とするならば、それを裏付けるウィキペディア内の明確なルールを示していただけるとありがたいです。
二つ目については最早疑いだしたらキリがない事を考えていませんでしょうか。「日本戦史」の地図と本項の地図は同一のものですが、特に地名・集落の移動について考慮した点は見られません。
地図にかんしてはあくまで文章内容をイメージし易くするために作成したものなので(その為に「推定」と表記しました)、文章内容程に信頼性があるかと問われれば、それは無いと言わざるを得ません。--HI 2010年5月12日 (水) 00:58 (UTC)[返信]
「文章の地点を地図に起こす行為」に関してですが、既に申し上げたようにメディアの違いがあることから、そこに「他の情報源から取得した情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価」(歴史上の地名・地形と現在の地名・地形の比定の問題を含めて)が介在する可能性を否定できません。そうしたものが明確に排除できないのであれば、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料に言う、「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事」の逆、「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を(意図してか否かはさておき)してしまっている記事」になっていると考えます。
私自身の経験をお話してよろしいでしょうか。熊野参詣道および熊野信仰の関連記事としてCategory:九十九王子配下の記事を作成しましたが、その際に参照した文献では、中世の熊野参詣記に登場する地名を比定するにあたり、不明・不確実あるいは異説といったものの記述に相当の紙幅が割かれていました。そうした文献の著者であるプロの研究者でさえ、歴史上的文書上の地名・地形と現在の地名・地形を引き合わせるにあたってその様に慎重であることを考えると、「疑いだしたらキリがない」というのは、いささか軽率・安易の感を否めません。
「推定」と記したことで信頼性に留保をつけたと仰っておられますが、検証可能な文献の著者がその様に記すならともかく、われわれウィキペディアンが勝手に信頼性に疑問の残るモノを作ってしまうことは、幾つかの意味で問題があると思われます。一つには百科事典としてのウィキペディアの信頼性を損ねること。もう一つには「推定」ということでいわば新説を唱えることになり、Wikipedia:独自研究は載せないに言うところの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当すると考えています。--ikedat76 2010年5月12日 (水) 02:37 (UTC)[返信]
なるほど、地図に関してはikedat76さんの仰るように問題があるとは認めざるを得ません。それでは地図は関連する地名の表記のみにし、あくまで参考資料としてのせるというのはいかがでしょうか。--HI 2010年5月13日 (木) 04:51 (UTC)[返信]

「推定」を「参考」にしたところで、何の問題が解消されるのでしょうか。恐れ入りますが、もう一度、私が申し上げていることを確認していただけますでしょうか。「関連する地名の表記」の精度・正確性をどうやって担保されているのか(するのか)という点をそもそも問題にしてきたはずなのですが。--ikedat76 2010年5月13日 (木) 16:21 (UTC)[返信]

問題なのは慶長と明治の間に地名・集落の移動・変更があったがどうかが確定的な史料で示されていないのに、明治の地図を用いるのは問題があるという話ですよね。その点については「日本戦史」が特に考慮せず同様の地図をそのまま用いているので問題なしと見ています。--HI 2010年5月14日 (金) 01:11 (UTC)[返信]

つまり、「慶長と明治の間に地名・集落の移動・変更があったがどうか」について、『日本戦史』に掲載されている地図を見ると、「慶長と明治の間に地名・集落の移動・変更が」無いという扱いになっている。したがって、地形・地名に異同は無いと根拠をもって言うことができる - ということでしょうか。この理解が正しいか、まずは確認していただきたいです。

もし私の理解が正しいとすれば、単に「『日本戦史』所掲の地図に基づく」ファイルであるとすれば、何ら疑念を招くことなく、極めて話は単純であったように思います。また、私も疑問を抱きはしなかったでしょう。

さらに言うなら、そういうことだとすると、今まで伺ってきたことに重ねて疑問を感じてしまいます。そのように出典を挙げることが出来るのなら何故早い時期に示していただけなかったのでしょうか。また、出典が挙げる事ができるにもかかわらず、史料に基づいて「推定」した、などということを何故言っておられたのでしょうか。矛盾があるように思います。--ikedat76 2010年5月14日 (金) 15:52 (UTC)書き直し--ikedat76 2010年5月14日 (金) 15:54 (UTC)[返信]

「日本戦史」の図で説明しなかったのは図の信頼性について書くと、「では「日本戦史」内の文章内容はどうなのか」と問われる事を恐れたからです。
正直、私は「日本戦史」の記述内容には色々と疑問を持っており、其の様な状況で「日本戦史」の図のみの信頼性を説明するという良いとこ取りに気後れを感じていましたので、極力「日本戦史」を用いずに説明をしたかったのです。
ikedat76さんにはいらぬ迷惑をお掛けしたようで申し訳ございません。--HI 2010年5月15日 (土) 05:40 (UTC)[返信]

『日本戦史』?[編集]

節分けしました。--ikedat76 2010年6月2日 (水) 16:55 (UTC)節レベル変更。--ikedat76 2010年6月4日 (金) 16:11 (UTC)[返信]

なぜ先行研究というものに対し、そういう理解に達するのでしょうか。やはりよく理解できません。

「私は「日本戦史」の記述内容には色々と疑問を持っており」と言っておられますが、それはどういうことでしょうか。既存学説や先行研究を批判するという趣旨のもとで、本項目をHIさんは作成された、そしてその手段として「朝野旧聞裒藁」の読解をされた - そういうことなのでしょうか?--ikedat76 2010年5月15日 (土) 06:11 (UTC)[返信]

例えば、兵数をとってみても島津は1500とありますが、吉川広家書状や他の合戦記では3000とあります。そういう情報が全く流れていない現状ですので、「日本戦史」以外の情報というのを提示する事がより良い事であると判断しました。--HI 2010年5月16日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

もう一度伺いますが、Yes/Noでお答えください。第1に、本項目の作成は、既存学説ないし先行研究(この場合『日本戦史』)を批判するという趣旨のもとでのことなのでしょうか。第2に、『日本戦史』を信頼できない、とする見解を採るWikipedia:信頼できる情報源はないのでしょうか。

それから、お願いですので、5W1Hを明確に書いていただけないでしょうか。失礼ながらHIさんの文章は、5W1Hがしばしば曖昧にぼやかされていて、理解しにくい場合があります。「島津は1500とあります」というのはどこに書いたことなのでしょうか。--ikedat76 2010年5月16日 (日) 03:23 (UTC)[返信]

第一についてはNo、第二は例えば笠谷和比古氏が石田三成が七将の襲撃にあった際に、伏見の家康の屋敷に逃げ込んだという「日本戦史」の記述を否定している。 「島津1500」は参謀本部が日本戦史に書いています。--HI 2010年5月16日 (日) 09:07 (UTC)[返信]

私事につき、返事が遅れましたことお詫びします。
さて、あらためてHIさんの言っておられることを読み返してみましたが、なぜ史料をHIさんご自身が読解するという手法で本項目を作成しなければならないのか、あらためてよく理解できませんでした。
関ヶ原合戦における諸勢力の兵力配置という本項目の主題につき、古典的な文献として参謀本部による『日本戦史』がある。だが、その内容については批判があり、後続の研究により不充分な点や誤りの指摘がなされている、ということであれば、特定の史料ただ一点のみを・ウィキペディアン自身が解釈して記事を書くという、多々問題含みな手法をとらずとも、記事を書けるはずです。なぜそうならないのか、疑問に感じました。--ikedat76 2010年5月29日 (土) 08:51 (UTC)copyedit--ikedat76 2010年5月29日 (土) 08:52 (UTC)[返信]

関ヶ原本戦における兵力配置ついて網羅的に記述がなされた史料は『日本戦史』を除外すると実は殆どありません。その為、現代だけでなく近世史料も当たったところ、網羅的かつ複数史料を基にしたであった『朝野』を選びました。もし『朝野』単独で内容を書くことにに問題があるならば『日本戦史』を併記形で修正を致します--HI 2010年5月29日 (土) 13:05 (UTC)[返信]

「網羅的に記述がなされた史料は『日本戦史』」と書いておいでですが、申し訳ないのですが、料と料の区別はついておられるのでしょうか。その上でこの表記をしておられるのでしょうか。--ikedat76 2010年5月29日 (土) 14:18 (UTC)[返信]

wikiでは「歴史学では資料は史料と呼ぶ」とありますね--HI 2010年5月30日 (日) 03:59 (UTC)[返信]

私の質問にお答えください。「wikiでは」どうなっているか、などという質問はしていません。--ikedat76 2010年5月30日 (日) 04:46 (UTC)[返信]

特に意識的な区別していませんが--HI 2010年5月30日 (日) 11:06 (UTC)[返信]

区別されていない件は了解しました。

ではあらためて伺います。網羅的な記述がなされた文献として『日本戦史』があります。『日本戦史』の内容は、皇族の研究によって批判を受けている部分もあるとのことです。『日本戦史』を基本として、その誤りや不充分な部分を後続の研究で補う、というやり方で書くこともできるはずだと思います。それをやらない(もしくはできない)理由があるのでしょうか。あるとすれば何なのでしょうか。

こうしたやり方は、WP:NORに言う「なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています」と述べられているものに該当すると思います。また、史料を直接ウィキペディアンが解釈して記事を書くという、いろいろな意味でグレーゾーンな行為をせずに済むだけでなく、Wikipedia:独自研究は載せない#なぜ独自研究を排除するのかの2項(「信頼できる情報源を示すことで、読者が自ら調査・研究を行う際に参照することができる資料を提供します。実際のところ、人々は、リサーチの足がかりとして 百科事典をひもとくのであり、調査・研究の最終段階として百科事典を参照するのではありません」)に該当するものを提供することもできると思います。--ikedat76 2010年6月2日 (水) 16:55 (UTC)[返信]

他の研究を全て網羅するということをしない理由は単純です。「大変だからやらない」それだけです。
ですので既に「関ヶ原の戦い」の項で記述されている『日本戦史』とは別の網羅的な記述がある『朝野』を用いさらにそれを最初に明記した上で、本項を執筆しました。この項に『日本戦史』や他の研究内容を追加する編集(もちろん、出典の明記はされるべきでしょうが)は大いにするべきでしょう。
とてつもなく大変な作業なので私はしませんが。--HI 2010年6月3日 (木) 01:47 (UTC)[返信]
> 他の研究を全て網羅するということをしない理由は単純です。「大変だからやらない」それだけです。
ウィキペディアは個々の執筆者に完璧な記事を書くことを求めているわけではないし、必ずしも書く必要の無いシステムになっています。また私もそうしたことを求めてはいません(それは無理難題というものです)。
私が求めているのは別のことです。『日本戦史』の内容には、後続の研究から批判を受けるような点がある、ということをHIさんは何らかの文献をご覧になったうえで言っておられるはずです。『日本戦史』とそれらの文献をもとに書くだけでも、「信頼できる情報源を示すことで、読者が自ら調査・研究を行う際に参照することができる資料を提供」(Wikipedia:独自研究は載せない#なぜ独自研究を排除するのか・2項)することが出来るという意味で、充分有益なことだと考えます。
今のHIさんのやり方を「グレーゾーンなやり方」と形容しましたが、そうしたやり方によって信頼性に疑問の余地のある記事を公開することは、読者に対して良いことでなのでしょうか。完璧な記事ではないことよりも、そのことの方がよほど問題のあることと考えます。--ikedat76 2010年6月3日 (木) 16:33 (UTC)[返信]

『日本戦史』に疑問があるということはあくまで私個人の考えであり、それを本項に表立って出してはいません。私が本項を書いたのは『日本戦史』以外の関ヶ原本戦を俯瞰した史料を基にした記事を書くことで、『日本戦史』とは別の可能性があることを示したかったからです。--HI 2010年6月4日 (金) 03:47 (UTC)[返信]

「『日本戦史』に疑問がある」とは確かに一言も書いていないでしょう。しかし、批判があるにせよ定評のある文献があることを知りながら、それを強いて無視して記事を書かれたことで、「『日本戦史』に疑問がある」と記事(あるいは記事を書く手法)をして充分に語らしめてしまっています。
それに、ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません。『日本戦史』を批判したいのであれば、独自研究ではなく、検証可能信頼できる文献にもとづいて行ってください。日本の歴史上の戦いについて書くときに、『日本戦史』が参照されるべきでない・信頼できない文献であると言いたいのであれば、それもHIさんのご意見にもとづいてウィキペディアに書くことはできません。もしそれが出来ない、もしくはしないというのであれば、話は難しくなってきます。--ikedat76 2010年6月5日 (土) 07:06 (UTC)[返信]

ですので既に何度か書きましたが、両論併記という形で『日本戦史』の内容を書くことを考えています。それ以外の各説をすべて網羅する気はありませんが。--HI 2010年6月6日 (日) 08:44 (UTC)[返信]

一つ目。両論の片方は『日本戦史』だとして、もう一方は何を指すのでしょうか。私が求めているのは独自研究の解消であって、中立的な観点に関わる問題ではありません。したがって、あくまで江戸時代の史書やそれをHIさんが解釈した結果が「もう一方」であるならば、問題は何一つ解決しません。
二つ目。両論併記が問題になる前提として、『日本戦史』の所説に議論の余地があるという状況があるはずです。その状況があるという点は、何にもとづいて書かれる予定ですか。
三つ目。『日本戦史』の内容に疑問を抱かれるのは、個人的になされる分には結構です。「『日本戦史』とは別の可能性があることを 示」すために、史料をHIさんが独自に解釈して(言い換えれば、検証可能な信頼できる文献に基づくことなく)今後も記事を書かれるおつもりでしょうか。--ikedat76 2010年6月6日 (日) 09:24 (UTC)[返信]

一つ目、『朝野』の内容を書くことを独自研究とする解釈には一切賛同できません。それは独自研究ではありません。 二つ目、問題があるとは一切書きません。『日本戦史』の内容を書くのみです。それが正しいかどうかは閲覧者が判断することです。 三つ目、『日本戦史』以外の史料を提示するのが目的です。『朝野』を記述内容を書くことをあなたは「独自に解釈して(言い換えれば、検証可能な信頼できる文献に基づくことなく)」と言いますが、それは勝手な思いこみでありそれを人に押し付けないで下さい。--HI 2010年6月6日 (日) 12:46 (UTC)[返信]

二ヶ月ほど新たな書き込みがありませんので、議論終了として独自研究タグを除去します。--HI 2010年8月9日 (月) 11:35 (UTC)[返信]

独自研究タグの除去を確認しました。議論は終わっているみたいなので所感のみ。ランケ以前であるから史料批判が皆無であったり、ランケ以後であるからと言って史料批判が担保されているものではありません。また、ウィキペディアでは両論並記が許されている為、必要と出典に応じて本記事に『日本戦史 関ヶ原の役』版配置を書くことも許されている一方で『朝野旧聞裒藁』版配置の記載も許容されるべきでしょう。そして、いずれにしろ『朝野旧聞裒藁』版配置を削除する理由はないと考えます。また、画像についても作成過程が客観的に説明できれば、記載されている方が記事を理解しやすくするように思います。--Yasumi 2010年8月9日 (月) 12:17 (UTC)[返信]