ノート:食品

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記事「食材」との競合[編集]

「食材」と競合しているので、将来的にはどちらかに統合したほうが良いのかもしれない。とりあえずは記事の充実に力を入れたい。--(03.12.09 3:49 dick) --以上の署名のないコメントは、218.135.32.84会話/Whois)さんが 2003-12-08 18:50:15 (UTC) に投稿したものです。

食材の他にも、料理などとも被っているように見えます。記事が充実したら考えると言うことで。--Michey.M 01:04 2003年12月12日 (UTC)

「おたく」が動物性食品?[編集]

おたくが動物性食品となっていますが、なんでしょう? --210.79.164.64 2005年10月5日 (水) 11:33 (UTC)[返信]

…と思ったら入れ違いで無くなってましたね。イタズラだったのでしょうか…… --210.79.164.64 2005年10月5日 (水) 11:35 (UTC)[返信]

冒頭の文「栄養素の多くは食品から〜」「中華料理の薬食同源や沖縄料理の〜」について[編集]

栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。こういった考え方の延長には中華料理の薬食同源や沖縄料理の「ぬちぐすい」(「くすいむん」とも)のようなものがみられる。

この文章は、ちょっとおかしいと思います。「栄養素の多くは食品から摂取され」とありますが、栄養素が食品以外から摂取されることはあるのでしょうか? 点滴くらいしかありえないのでは。単に「栄養素は食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」と書くべきではないでしょうか。中華料理と沖縄料理を特別視することにも合理的な理由が見当たらないと思います。--Mimosa5 2009年11月26日 (木) 13:15 (UTC)[返信]

中華料理と沖縄料理を特記したことに関しては、その両者に似たような観念として明確に定義が与えられていることを個人的な知識としてたまたま知りえていたために、斯様に記述しました(もっとも、沖縄料理のうち宮廷料理の源流には中華料理の影響もあるとか聞いたこともあるので、ぬちぐすいやくすいむんも薬食同源と同じ根を持ってるかもしれませんが)。もちろん、同じような観念が別の料理文化のうちにあることは否定しませんし、それを明確に定義している食文化があったら、それを特記することにも反対するところではありません。なお「食品以外に栄養を摂取することがあるのか」というコトに関しては、飲料を果たして食品の枠で扱うべきか日本語の定義としても悩ましいこともありますが、その一方でビタミンKに代表される腸内細菌で合成されるが食品からも摂取される栄養素の存在、ビタミンDのように体内のコレステロールから合成される例など、元素やエネルギーとしてみればなるほど食物から得ていると言えるかもしれないが、栄養素として考えた場合には必ずしも該当栄養素の形で食物に含まれていた訳でもないものの扱いもありましたので、斯様にビミョーな表現となりました。まあこの辺りは「言葉の限界」だとも思いますけど、それらの意味においてはおかしな記述ではないと考えています。--夜飛/ 2009年11月27日 (金) 15:39 (UTC)[返信]
というか、ビタミンD合成の際のエネルギーは食品からだけじゃなかったな。--夜飛/ 2009年11月27日 (金) 15:44 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。ビタミンDの例から、「栄養素の多くは食品から摂取され」が正しいといえるということは、理解いたしました。
中華料理&沖縄料理については、「医食同源」の例などとしてあげるならわかりますが、「栄養素の多くは食品から摂取される」および「我々の健康を守る源となっている。」の例としてわざわざ言うのは変であると思います。すべての料理に当てはまることでは? --Mimosa5 2009年11月29日 (日) 06:57 (UTC) / --Mimosa5 2009年11月29日 (日) 07:15 (UTC)[返信]
あー…説明が足りませんでしたか? あくまでもそういう「食事をすることで体の健康を維持することを積極的に求める」という観念に明確に名前が付けられ食文化に織り込まれている例として中華料理と沖縄料理を例示したまでで、まあ極論からすれば「スーパーサイズ・ミー」のような例もあるだけに不摂生な食事をしようと思えば幾らでも食事内容によって健康を害せる面もあり、あくまでも伝統食などに則ってある地域で食べられていたものをバランスよく食べれば健康を維持できるとはいえ、やはりそこにも伝統食のうち単一食品だけによっては健康を維持できないところもあるし。いずれにしても「食事する(食品を摂取する)ことで生命を繋ぐ」という観念の先にあるものとして、食事をすることで「積極的に健康を維持する」という観念もあることを、中華料理屋沖縄料理を例に説明しているだけです(っていうか、文章の流れで判らんようなことか?)。--夜飛/ 2009年11月29日 (日) 12:41 (UTC)[返信]
「栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」に該当するのは、食品全般でしょう? 特定の文化圏のそれではなく。そもそも「食品」の冒頭の文なのですから、「食品とは何か」ということを説明することに意が尽くされているのです。それを、中華の薬膳思想(とその影響を受けている沖縄料理)だけを特筆する文章に改変する[1]のは、不適切だと思いました。中立的な観点からみても、駄目でしょう。中華料理と沖縄料理が健康な食品の代表であるかのように読めてしまいますよ? 中国語版「zh:食物」の冒頭文においても、中華料理を特筆する記述はありませんよ。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 08:57 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────(インデント戻し)なんだかな。所謂言葉としての「食品」はその含む範囲が余りに膨大で、また単一の食品によって過不足無く栄養を摂取することは出来ず、その意味では件の節は相当に端折った(不完全である故にどうとでも読め正確性に難も含む)記述ではあるんだが、それをひとまず置いといて、ひとつ(この場合は二つ)の例を述べて延長線上にある考え方に言及しているんだか、何処をどう短絡したら「中華料理や沖縄料理は健康食だと主張している」というコトに出来るのやら。Mimosa5さんにおかれては相変わらず理解の方向性が恣意的でお粗末ですね…そのような短絡思考で記事に関わることを、それも無自覚にやらかすことを続けている態度には呆れる他ありません。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 11:26 (UTC)[返信]

食品の冒頭文において、特定の文化圏の料理を挙げることに合理性がみられないと申し上げました。「栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」という文章の具体例として、なぜ中華料理と沖縄料理を挙げなければならないのでしょうか? 中華料理と沖縄料理が「栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」例に該当するのは明らかですが、それは、他の文化圏の料理においても同じことでしょう? イタリア料理、和食、韓国料理、など、他の文化圏の料理を挙げても文章が成立してしまう。中華料理と沖縄料理を挙げたのは、夜飛さんの「思いつき」に過ぎないではありませんか。夜飛さんは、抽象的に正しいことが書かれていた文章に蛇足な記述を付け足して、中立性を欠いた文章に改悪なさったのではありませんか。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 12:26 (UTC) / --Mimosa5 2009年11月30日 (月) 12:36 (UTC)[返信]
英語版「en:food」の冒頭文においては、特定の文化圏の料理を特筆する記述ありません。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 12:55 (UTC)[返信]
頼むから「文章を読んで其処に書いてあることを理解する」ことをして欲しい。あなたのしているのは「文章中に含まれる単語から勝手に短絡している」だけです。他の食文化において「食事を取ることで健康を(積極的に)維持する(ないし回復させる)」という観念を明確に定義した言葉があれば、それを例示することに吝かではありませんがね、果たしてそういう明示的観念が他の食文化に見られますか?と申し上げたい。少なくとも、食品を調理し摂取することは活動するためのエネルギーと体を構成し機能させる栄養素を体に取り入れることではありますが、食品を摂取することが須らく栄養素を摂取し健康を維持することを意味する訳でもなく(前述)、また中華料理と沖縄料理に言及したのは「健康を食生活を通して求める」という概念に対して明示された語を有しているがゆえの例示に過ぎません。他の料理文化を当てはめてもとおっしゃるが、ならばその料理文化圏において医食同源やぬちぐすいの同義語をそれらから抜粋して見せてください。いずれにしてもあなたの態度は無知・無理解を無自覚に振り回しているだけです。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 13:16 (UTC)[返信]
人様の書いた文章を批判ばかりしているは生産的ではないので、新しい版を作ってみました。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 13:46 (UTC)[返信]
「他の料理文化を当てはめてもとおっしゃるが、ならばその料理文化圏において医食同源やぬちぐすいの同義語をそれらから抜粋して見せてください。」とおっしゃいますが、そのような趣旨のことは、誰も主張しておりません。「栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」という文章にさまざまな文化圏の料理が該当すると申し上げただけでございます。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 13:49 (UTC)[返信]
他の食文化において「食事を取ることで健康を(積極的に)維持する(ないし回復させる)」という観念を明確に定義した言葉があれば、それを例示することに吝かではありませんがね、果たしてそういう明示的観念が他の食文化に見られますか?と申し上げたい。
「食事を取ることで健康を(積極的に)維持する(ないし回復させる)」ということに賛同しない食文化が地球上に存在するとは思えません。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 13:52 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────(インデント戻し)話を摩り替えてますね。お話にもなりません。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 14:12 (UTC)[返信]

医食同源とは、医薬と食事を峻別しないという考え方でしょう? 「栄養素の多くは食品から摂取され、我々の健康を守る源となっている。」とニュアンスがかなり違いませんか? 栄養を摂るために食べること、食べることで元気になること。これは、英国料理、フランス料理、トルコ料理、いずれにおいても真実ではありませんか。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 14:22 (UTC)[返信]
だーかーらー、その延長だと書いてありますでしょうに。あなたは文章の意味を理解していないで単語で短絡しているのか、それとも悪意を持って無視しているのかのどっちですか。前者ならお話にならないし、後者なら(以下略)。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 14:27 (UTC)[返信]
「その延長として」という文章の繋ぎ方も不自然では? いいですか、「栄養を摂るために食べる」「食べると元気になる」という意味の文章が書かれていたのですよ。これは、「食品」の定義として、どなたかが過去に書いたのでしょう。「食品全般」の定義として書かれたことですよ。特定の文化の料理に言及する必要がどこにありますか。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 14:35 (UTC)[返信]
「食べると元気になる」なんていうのは、本来食品の一側面であり、どんなものであれ食品をとっていれば必ず元気になるもんでもないし。なおも言えば、食品と調理や調理後の料理は不可分に連結しあった概念であり、そこから食品の観念だけを抜粋するならば、元より件の一節冒頭である「栄養素の(中略)源となっている」は既に述べたとおり不完全なために正確ではない記述に過ぎませんがね。それでも件の記述を生かす方向に持って行くと、その延長には医食同源やぬちぐすいなどのような観念もあると書いているのです。特定の食文化に言及する理由は、あなたの理解の及ばない範疇のようですがね、理解してください。既に書きました。理解せず単語レベルで食い下がっているようではお話になりません。理解できないのであれば、お引取りを。百科事典は文章をもって事物を説明しています。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 14:52 (UTC)[返信]
「食品」の現在の版では、医食同源についての言及を、より適切と思われる場所に置いています。他の利用者によるさらなる編集が必要かと思いますが。「それでも件の記述を生かす方向に持って行くと、」という部分が夜飛さんの改めた方が良い所であるように思えます。ひとりで文章を推敲するとき、なんども消したり書いたりしますでしょう? ウィキペディアは、大勢の人が一人の執筆者に該当する作業。無理に特定の文を存続させようとすると、文章全体がねじ曲がることになりますよ。特定の版において有用だった文が、版全体の更新に伴い使えなくなるのは避けられらないと思います。「我々の健康を守る源となっている。」が、使えないなと思ったら、消すしかないでしょう。無理に前後の文章となじませようとするから、「その延長として」などと苦しい接続詞を駆使して、「食品の定義を書く」という本来の趣旨から外れた方へ行ってしまうのですよ。--Mimosa5 2009年11月30日 (月) 15:28 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────既存記述は可能なら最大限生かす方向なんでね、あしからず。なお「何度も消したり書いたり」であなたの編集履歴に顕著なように、その都度書き込みボタンをクリックするのはどうかと思いますけどね。自分の作文ならローカルで心行くまで幾らでも弄り回すのも良かろうが、Wikipediaの記事では「違和感を醸し内容的にも拙いなど問題箇所を見つけたら、ざっと全体を読んで重複する箇所がないか検討し、次いで前後とあわせて通読してどう再構成すべきか考え、書き換えていったんプレビューで何度も何度も推敲、問題がなさそうなら書き込みボタンをクリックするが、どう弄っても駄目ならそのままブラウザを閉じるか問題箇所をコメントアウトするなりして問題提起をして対応」でしょうに? 含意として使えそうな記述なら残して後の版で成長を期待する方向で補正するならまだしも、自身でもよく解っておらずに的っぱずれな反論のための反論を弄してまでして否定するような真似など、小生としては自尊心と羞恥心と論理的美意識がそれをやらかすことを許しませんねえ。まあ現行版は文章が上滑って仰向けになっている風味ですが、小生としては「解釈としては的外れ過ぎもせず許容できる範囲」として放置いたしましょう。--夜飛/ 2009年11月30日 (月) 23:08 (UTC)[返信]