フレディ・バーソロミュー

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フレディ・バーソロミュー
Freddie Bartholomew
小公子英語版』(1936年)にて
生誕 Frederick Cecil Bartholomew[1][2]
(1924-03-28) 1924年3月28日
イングランドの旗 イングランド ロンドンハールズデン英語版[1]
死没 1992年1月23日(1992-01-23)(67歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州サラソータ
教育 イタリア・コンティ・アカデミー・オブ・シアター・アーツ英語版
職業 俳優
活動期間 1930年 - 1951年
配偶者
  • Maely Daniele
    (m. 1946; div. 1953)
  • Aileen Paul
    (m. 1953; div. 1977)
  • Elizabeth Grabill (m. 1976)
子供 2人
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フレディ・バーソロミュー(Freddie Bartholomew)ことフレデリック・セシル・バーソロミュー(Frederick Cecil Bartholomew、1924年3月28日 - 1992年1月23日)は、イギリス出身のアメリカ合衆国の俳優である。子役時代の活動が有名であり、1930年代のハリウッド映画で人気を博した。代表作は『小公子英語版』(1936年)と『我は海の子』(1937年)である。

1924年にロンドンで生まれ[1]、1934年、10歳のときにMGMの映画『孤児ダビド物語』に出演するために渡米し、以降、生涯アメリカで暮らした[3]第二次世界大戦中の兵役を経て、1943年にアメリカの市民権を取得した[4][5]

子役として成功し、高い評価を受けたにもかかわらず、その財産を巡る実の親との訴訟や、契約を巡るMGMとのトラブルによりキャリアが傷つけられた。成長してからは映画の出演オファーが減少し、テレビに転向した。

生涯[編集]

幼年期[編集]

バーソロミューは、1924年3月28日にロンドンのハールズデン英語版でフレデリック・セシル・バーソロミューとして生まれた[1][6][7]。父セシル・ルウェリン・バーソロミュー(Cecil Llewellyn Bartholomew)は第一次世界大戦で負傷した退役軍人で、戦後は公務員となった。母はリリアン・メイ・クラーク・バーソロミュー(Lilian May Clarke Bartholomew)である[2][8][9]。3歳のときには、サウス・ウェスト・イングランドウィルトシャー州ウォーミンスターの父方の祖父母の家に住み、叔母のシシー(ミリセント・メアリー・バーソロミュー(Millicent Mary Bartholomew))が母親代わりになってバーソロミューを育てた[6][10]。バーソロミューはウォーミンスターにあるウェイマス卿グラマー・スクール英語版で教育を受けた[11]

子役[編集]

孤児ダビド物語』(1935年)にて。左からハーバート・ムンディン英語版、バーソロミュー、ジェシー・ラルフ英語版
アンナ・カレニナ』(1935年)にて。左からベイジル・ラスボーングレタ・ガルボ、バーソロミュー。
小公子英語版』(1936年)にて。ドロレス・コステロとバーソロミュー。

イギリス時代と渡米[編集]

ウォーミンスターで、バーソロミューは3歳のときから演技や朗読をしていた[12]。5歳のときには、詩や散文、シェークスピアなどの様々な戯曲の抜粋を暗唱する「不思議な少年」としてウォーミンスター中で有名となり[13]、その他に歌や踊りも披露した[14]。1930年、6歳のときに初めて映画に出演した。

ロンドンの演劇学校であるイタリア・コンティ・アカデミー・オブ・シアター・アーツ英語版で演技を学び[15]、4本の映画に出演した。1934年、スカウトのためにロンドンを訪問中だったアメリカの映画監督ジョージ・キューカーデヴィッド・O・セルズニックがバーソロミューの映画を見かけ、MGMの映画『孤児ダビド物語』の主役デイヴィッドの少年時代の役に彼を抜擢した[16]。1934年8月、当時10歳のバーソロミューはシシーとともに渡米し、MGMと7年間の契約を結んだ[3][17][18]

ベイジル・ラスボーンモーリン・オサリヴァンW・C・フィールズ英語版ライオネル・バリモアらと共演した『孤児ダビド物語』は大ヒットし、バーソロミューは一夜にしてスター子役となった[19]。その後も、ハリウッドの当時の人気俳優たちと次々に共演した。1930年代のヒット作には、グレタ・ガルボフレドリック・マーチと共演した『アンナ・カレニナ』、ヴィクター・マクラグレングロリア・スチュアートと共演した"Professional Soldier"、ドロレス・コステロC・オーブリー・スミスと共演した『小公子英語版』、マデリーン・キャロル、タイロン・パワーと共演した『憂国の志士英語版』、ミッキー・ルーニージャッキー・クーパーと共演した『腕白時代英語版』、スペンサー・トレイシーと共演した『我は海の子』などがある。

『我は海の子』(Captains Courageous)は丸一年かけて撮影されたが、バーソロミューが最も楽しんで撮影に取り組んだ作品である。その大部分は、フロリダ沖やカリフォルニアのサンタカタリナ島で撮影された。バーソロミューは後に、次のように回想している。

子供にとって、それは長い遠足のようなものだった。スペンサー・トレイシー、ライオネル・バリモア、ミッキー・ルーニー、メルヴィン・ダグラス、そして私。我々はその12か月間でとても親しくなった。撮影が終わり、別れを告げるときに、我々は赤ん坊のように泣いた[20]

バーソロミューは映画興行界の人気者になり、シャーリー・テンプルに次ぐ史上2番目に稼いだ子役スターとなった。脚本家のリング・ラードナー・ジュニアはバーソロミューを高く評価し、『小公子』での演技について、「彼はほぼ常にスクリーンに登場し、その演技は正確な人物描写であり、これはほとんどの子役俳優に、いや、大人の映画スターでも4分の3には見られないことである」と述べている[21]フランク・ニュージェント英語版ニューヨーク・タイムズ紙のレヴューにて、『我は海の子』での主役のハーヴェイ役の演技について、「若きバーソロミューは、ハーヴェイを完璧に演じている」と書いている[22]

訴訟と契約トラブル[編集]

1936年4月、バーソロミューが子役スターとして有名になったことで、長らく疎遠だった実の両親が、バーソロミューの財産を得るために訴訟を起こした[23][24]。7年の裁判の末に、バーソロミューの財産の大半が両親と2人の姉妹のものとなり、訴訟費用の負担も含めてバーソロミューのもとにはほとんど残らなかった[2][25][26]

1937年7月、バーソロミューの叔母のシシーは、MGMに対し報酬の値上げを要求し、それに応じなければ他の映画会社に移籍すると脅しをかけた。この契約闘争のためにバーソロミューは1年間仕事を干され、ラドヤード・キップリングの『少年キム英語版』の映画化作品への出演が延期され、『サラブレッド・ドント・クライ』への主演の予定が取り消され、代わりにロナルド・シンクレアが出演した[27]

1938年に仕事に復帰した後は、MGMでは人気のない作品や重要ではない役ばかりとなり、全盛期よりも人気が落ちた。これは、MGMとの確執だけでなく、成長期を迎えたバーソロミューが身長180センチ近い長身となったことや、第二次世界大戦の深刻化に伴いバーソロミューが得意とした古典文学や歴史ドラマが流行らなくなったことも原因だった。

1938年、20世紀フォックスロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『誘拐されて英語版』の映画化作品『魔城脱走記英語版』の主役にバーソロミューを起用した。同年、MGMでは『海国魂英語版』と"A Yank at Eton"でミッキー・ルーニーと共演し、ミュージカル『リッスン、ダーリン英語版』でジュディ・ガーランドと共演した。

バーソロミューとウェンディ・バリー英語版(1940年)

1939年、ユニバーサルの"The Spirit of Culver"と"Two Bright Boys"でジャッキー・クーパーと共演した。RKOでは、1940年に『新ロビンソン漂流記英語版』と『トム・ブラウンの学生時代英語版』に出演した。コロンビアでは、"Naval Academy"、"Cadets on Parade"、"Junior Army"の3本の軍事関連映画に出演した。

第二次世界大戦と戦後[編集]

兵役とその後[編集]

第二次世界大戦へのアメリカの参戦に伴い、バーソロミューにも兵役が課せられ、俳優としてのキャリアが再び中断された。1943年1月13日、18歳でアメリカ陸軍航空軍に入隊し、航空機整備に従事した。訓練中に転倒して背中を痛め、7か月入院した後、1944年1月12日に除隊した[28]

1944年、低予算のコメディ映画"The Town Went Wild"でジミー・ライドン英語版と共演したが、これを最後に7年間続いた映画出演オファーは来なくなった。映画へ復帰しようと地方の劇場やヴォードヴィルへの出演も行ったが効果はなかった。

1946年、自動車事故やロサンゼルスでの舞台の失敗など悲惨な出来事もあったが、この年に広報担当のメイリー・ダニエル(Maely Daniele)と結婚した。メイリーは6歳年上で、2度の離婚歴があった。メイリーとの結婚により叔母シシーとの関係が悪化し、シシーはイギリスに戻った。しかし、メイリーとの結婚は幸せなものではなかった[29]

1946年にはラジオドラマ"Inner Sanctum Mystery"にゲスト出演した[30]。1947年、黒人だけが出演するミュージカル映画"Sepia Cinderella"に本人役で5分間カメオ出演し、映画に出演しなくなってからヴォードヴィルで成功するためにしてきたことを語り、ギャグを披露した。1948年の大半は各地の小劇場巡りに費やされ、11月にはオーストラリアに巡業に出たが、妻は同行しなかった[31]

テレビへの転向[編集]

1949年に帰国後、映画への復帰は絶望的な中で[29]テレビという急成長中の新しいメディアに活路を見出した。パフォーマーからテレビの司会者に転向し、更にはディレクター英語版プロデューサーとなり、最終的には番組制作会社の役員となった。テレビ業界では、子役のイメージのあるフレディ・バーソロミューではなく、フレッド・C・バーソロミュー(Fred C. Bartholomew)と呼ばれることを好んだ。1949年から1954年まで、ニューヨークの独立系テレビ局であるWPIXのディレクターを務めた[32]。俳優としての最後の出演作は、1951年の映画『スリの聖ベニー英語版』の司祭役だった。

1953年に最初の妻と離婚し、同年12月、WPIXで知合った料理人・作家のアイリーン・ポール(Aileen Paul)と結婚した[33]。アイリーンとの間に、1956年3月に娘のキャスリーン・ミリセント・バーソロミュー(Kathleen Millicent Bartholomew)[34]、1958年に息子のフレデリック・R・バーソロミュー(Frederick R. Bartholomew)が生まれた。このほかにアイリーンの連れ子のセリア・アン・ポール(Celia Ann Paul)がおり、一家はニュージャージー州レオニア英語版に住んでいた[32]

この時代のテレビやラジオは、広告代理店が番組を制作していた。1954年、バーソロミューはニューヨークの広告代理店ベントン&ボウルズ英語版(B&B)でテレビ番組のプロデューサー兼ディレクターとして働き始めた[32]。B&Bでは、『メイベリー110番』などのプロデューサーや[32]、『アズ・ザ・ワールド・ターンズ』、『エッジ・オブ・ナイト英語版』、『サーチ・フォー・トゥモロー英語版』などのソープオペラのプロデューサー、ディレクターを務めた[35][36][37]。1964年には同社のラジオ・テレビ部門のヴァイスプレジデントに就任した[32]

2人目の妻とは1977年初頭に離婚した[38]。1976年2月に3人目の妻エリザベス・グラビル(Elizabeth Grabill)と結婚した[39]

晩年と死去[編集]

肺気腫を患い、1980年代後半にはテレビ業界から引退した[40]。引退後は一家でフロリダ州ブレイデントンへ移り住んだ。1991年、MGMに関するドキュメンタリーシリーズ『ライオンが吼える時 MGM映画の歴史』(MGM: When the Lion Roars)が制作され、バーソロミューもそのためのインタビューに応じている。

1992年1月23日、フロリダ州サラソータにおいて心不全により死去した。67歳だった。

栄誉[編集]

1936年4月4日、グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭「フォーコート・オブ・ザ・スターズ」に、バーソロミューの手型・足型を刻んだセメントパネルが設置された。

1960年、映画産業への貢献を称えて、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド・ブールバード6663番地にバーソロミューの星が設置された[41]

1999年、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が映画スターベスト100選定の一環として選出した「偉大な男性映画レジェンド250人」の一人に選ばれた[42]

フィルモグラフィ[編集]

作品名 役名 備考
1930 Toyland 短編
1931 Fascination Child
1932 Lily Christine Child クレジットなし
Strip! Strip! Hooray!!! Boy 短編
クレジットなし
1935 孤児ダビド物語
David Copperfield
David Copperfield(少年時代)
アンナ・カレニナ
Anna Karenina
Sergei
Professional Soldier King Peter II
1936 小公子英語版
Little Lord Fauntleroy
Cedric "Ceddie" Errol, Lord Fauntleroy
腕白時代英語版
The Devil is a Sissy
Claude
憂国の志士英語版
Lloyd's of London
Jonathan Blake(少年時代)
1937 我は海の子
Captains Courageous
Harvey Cheyne
1938 魔城脱走記英語版
Kidnapped
David Balfour
海国魂英語版
Lord Jeff
Geoffrey Braemer
リッスン、ダーリン英語版
Listen, Darling
'Buzz' Mitchell
1939 The Spirit of Culver Bob Randolph
Two Bright Boys David Harrington
1940 新ロビンソン漂流記英語版
Swiss Family Robinson
Jack Robinson
トム・ブラウンの学生時代英語版
Tom Brown's School Days
Ned East
1941 Naval Academy Steve Kendall
1942 Cadets on Parade Austin Shannon
A Yank at Eton Peter Carlton
Junior Army Freddie Hewlett
1944 The Town Went Wild David Conway
1947 Sepia Cinderella 本人役 カメオ出演
1951 スリの聖ベニー英語版
St. Benny the Dip
Reverend Wilbur

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Birth Registry, Willesden Registration District, County of Middlesex, January–March 1924, Volume 3A, p. 439.
  2. ^ a b Behlmer, Rudy (ed). Memo from David O. Selznick. Viking Press, 1972. p. 176.
  3. ^ "Fred Bartholomew Becomes American." Los Angeles Times. June 11, 1943.
  4. ^ "People: Fortunes of War". Time. June 21, 1943.
  5. ^ a b Hoerle, Chapter 1.
  6. ^ A 1992 New York Times obituary, which in addition lacked precise data regarding Bartholomew's birth date or age, erroneously gave his birthplace as Dublin, perhaps somehow confusing Freddie with his uncle, Frederick Head Bartholomew, who was born in Dublin in 1885 when Freddie's grandfather was garrisoned there.
  7. ^ Cecil Llewellyn Bartholomew and Lilian May Clarke. Genes Renunited.
  8. ^ Soldiers of the First World War - CEF: Cecil Llewellyn Bartholomew
  9. ^ Aunt Cissie's full birth name is listed as Millicent Emily Mary Bartholomew here: [1]; she was born in Bangalore, India on October 27, 1888 (her father was a British Army man on service there).
  10. ^ Howell, Danny. Yesterday's Warminster. Barracuda Books, 1987. p. 97.
  11. ^ Hoerle, Chapter 2.
  12. ^ Freddie's Warminster appearances included the Palace Cinema and Theatre, and St. John's Church Parish Hall. (Howell, Danny. Yesterday's Warminster. Barracuda Books, 1987.)
  13. ^ Hoerle, Chapter 3.
  14. ^ Orme, Michael. "The World of the Kinema". Illustrated London News. March 23, 1935. Issue 5005. p. 486.
  15. ^ Haver, Ronald. David O. Selznick's Hollywood. Bonanza Books, 1985. pp. 156-158.
  16. ^ Holmstrom, John. The Moving Picture Boy: An International Encyclopaedia from 1895 to 1995. Michael Russell, 1996. p. 127.
  17. ^ Parish, James Robert and Ronald L. Bowers. The MGM Stock Company: The Golden Era. Allan, 1974. p. 75.
  18. ^ Fricke, John. "From 'Ben-Hur' To 'Gone With the Wind,' 'Wizard of Oz' To 'Thelma and Louise,' MGM Has A Long Line Of Legendary Films." Billboard. July 30, 1994. p. 57.
  19. ^ "'30s Child Actor Freddie Bartholomew." Chicago Tribune. January 26, 1992.
  20. ^ Lardner, Jr., Ring W. "Will Hollywood Spoil Freddie Bartholomew?" Liberty. April 11, 1936. pp. 82–83.
  21. ^ Nugent, Frank S. "Movie Review: Captains Courageous." New York Times. May 12, 1937.
  22. ^ "Boy Star of Films Object of Lawsuit." Montreal Gazette. April 6, 1936.
  23. ^ "Police Unexcited Over Disappearance of Boy Film Actor's Mother." Berkeley Daily Gazette. April 7, 1936.
  24. ^ "Bartholomew Parents Win Suit." Associated Press, The Deseret News. February 16, 1943.
  25. ^ Graham, Sheilah. "All Around Hollywood Town." Milwaukee Journal. September 30, 1945.
  26. ^ "Freddie's Strike Loses Him Place in New Picture." Associated Press. July 31, 1937.
  27. ^ "Freddie Bartholomew Returned to Civilian Life: Injured in Service". United Press. January 13, 1944.
  28. ^ a b LeBow, Guy. "Station Break: Freddie B." In Watch Your Cleavage, Check Your Zipper! Everything You Were Never Supposed to Know About TV. SP Books, 1994. p 248.
  29. ^ “Freddie Bartholomew In Nephew Shocker on 'Inner Sanctum'-WHP”. Harrisburg Telegraph. Harrisburg Telegraph: p. 17. (1946年10月5日). https://www.newspapers.com/clip/3335342/harrisburg_telegraph/ 2015年10月1日閲覧。  オープンアクセス
  30. ^ "Freddie once had a million". The Mail. November 20, 1948.
  31. ^ a b c d e Nuccio, Sal. "Advertising: Role for Freddie Bartholomew", The New York Times, November 6, 1964. Accessed March 30, 2011.
  32. ^ "Video Romance Culminates Today." Pittsburgh Post-Gazette. December 12, 1953.
  33. ^ "Aileen Paul Has Daughter." New York Times. March 8, 1956.
  34. ^ Poll, Julie (1996). "As The World Turns - 40th Anniversary Special", p 290. General Publishing Group, Los Angeles. ISBN 1-881649-91-1.
  35. ^ The Edge of Night: Full cast and crew at the Internet Movie Database
  36. ^ Search for Tomorrow credits. New York Times.
  37. ^ AILEEN PAUL, AUTHOR AND EX-BROADCASTER”. Sun Sentinel (1997年8月4日). 2023年1月20日閲覧。
  38. ^ Staff Writer (2015年9月11日). “Elizabeth G. Bartholomew” (英語). LancasterOnline. 2023年1月20日閲覧。
  39. ^ Lamparski, Richard. Whatever Became of ... ?. Crown Publishers, 1989. p. 207.
  40. ^ Hollywood Walk of Fame. Retrieved November 14, 2017
  41. ^ America's Greatest Legends. American Film Institute. 1999.

参考文献[編集]

  • Hoerle, Helen. The Story of Freddie Bartholomew. Akron, Ohio: Saalfield Publishing Company, 1935.

外部リンク[編集]