ベンヤミン・ネタニヤフ

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ベンヤミン・ネタニヤフ
בנימין נתניהו
生年月日 (1949-10-21) 1949年10月21日(74歳)
出生地 イスラエルの旗 イスラエル テル・アヴィヴ
出身校 マサチューセッツ工科大学(BS, MS)
ハーバード大学(自主退学)
現職 イスラエル国首相
所属政党 リクード
称号 大尉
配偶者 サラ・ネタニヤフ
親族 ネイサン・マイコウスキー(祖父)
ヨナタン・ネタニヤフ(兄)
イド・ネタニヤフ(兄弟)
エリシャ・ネタニヤフ(叔父)
ネイサン・ネタニヤフ(いとこ)
サイン

内閣 第6次ネタニヤフ内閣
イスラエル戦時内閣
在任期間 2022年12月29日 -
大統領 イツハク・ヘルツォグ

イスラエルの旗 第17代 イスラエル国首相
内閣 第2次ネタニヤフ内閣
第3次ネタニヤフ内閣
第4次ネタニヤフ内閣
第5次ネタニヤフ内閣
在任期間 2009年3月31日 - 2021年6月13日
大統領 シモン・ペレス(2009 - 2014)
ルーベン・リブリン(2014 - 2021)

イスラエルの旗 第13代 イスラエル国首相
内閣 第1次ネタニヤフ内閣
在任期間 1996年6月18日 - 1999年7月6日
大統領 エゼル・ワイツマン
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ベンヤミン・ネタニヤフ(בנימין נתניהו, Benjamin Netanyahu, またはBinyamin He-Benjamin Netanyahu.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], ビンヤミン・ネタニヤーフネタニヤウ、若しくはナタニヤウの方がより原音に近い、1949年10月21日 - )は、イスラエル政治家シオニストである。現在、同国首相(20代)。同国首相(13・17代)、外相(17代)、財務相(18・20・24代)を歴任した。2005年12月より右派政党であるリクードの党首に再登板した。ネタニヤフとはヘブライ語で「ヤハウェが与える」という意味。

イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者であり、歴代首相の中で最年少で首相に就任した人物でもある[1]。首相としての通算任期15年は歴代最長である。イスラエル国内や海外での同胞ユダヤ人たちの間などでは「ビビ」の愛称で呼ばれている。若い頃には、ベン・ニタイBen Nitay,בן ניתאי)という名でメディアに登場したことがある[2]。本人が気に入っている愛称は「ミスターセキュリティー(安全保障)」である。

略歴[編集]

家族及び個人の背景[編集]

1949年、ベン=シオン・ネタニヤフ英語版とジラ・ネタニヤフ夫妻の次男としてイスラエルで生まれた。父親のベン=シオンはロシアをミリコウスキー(Milikowsky)といい、1910年に、旧ロシア帝国ポーランドワルシャワで生まれた。彼の父(ベンヤミン・ネタニヤフの祖父)は、シオニスト運動家のネイサン・ミリコウスキーで、一家は1920年パレスチナへ移住し、エルサレムに入植した。ベン=シオンもまた父の思想を受け継いだシオニスト運動家で、コーネル大学で、ユダヤ史の教授をつとめた。及びヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であり、それが息子たちの思想に大きく影響している。兄のヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死したイスラエルの英雄。弟のイド・ネタニヤフ英語版は放射線技師作家。兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、「サイェレット・マトカル」に所属した。

ネタニヤフは家族と共に1956年から1958年、1963年から1967年にかけてアメリカに在住。ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した(兄も同高校を卒業している)。高校ではディベートクラブに所属していた(そのため英語に堪能であり、言葉にはフィラデルフィア訛りがあるという)。

高校卒業後にイスラエル国防軍に入隊し、上記のとおりサイェレット・マトカルに所属。1967年から1973年にかけて様々な軍務(第三次中東戦争消耗戦争サベナ航空572便ハイジャック事件の解決)に従事。1972年には肩を撃たれて負傷している。第四次中東戦争では部隊を率いてシリア領内に侵入した。1973年に除隊(最終階級は大尉)。

除隊後はアメリカに戻り、マサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を取得、ハーバード大学とMITで政治学を学んだ。三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。現在は、客室乗務員だった三番目の妻サラと共に暮らし、ヤイール、アヴナー[3] の2人の息子がいる。ヤイールは現在、軍務に就いている[4]

MITを優秀な成績で卒業後、1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループ経営コンサルタントとして勤務し(当時の同僚に後のマサチューセッツ州知事となるミット・ロムニーがいた)、イスラエルに帰国。

政界入り[編集]

政治の世界に身を投じたきっかけは、後に国防相、外相をつとめることになる政界の大御所・モーシェ・アレンスの勧めによるものである。1982年には、当時駐米大使をつとめていたアレンスの下で勤務。1984年から1988年までは、同国の国連大使を務める。同年にはリクードから総選挙に出馬し国会議員に初当選を果たす。イツハーク・シャミール政権下で外務次官をつとめ、1991年サッダーム・フセイン体制下にあった当時のイラク軍のクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争の際、外務次官という立場でありながら事実上のスポークスマンとして自国の大義を力説。それも、米国人と寸分違わぬ英語での話術は脚光を浴び、政界のホープとして嘱望され始める。

転機となったのは、翌・1992年の総選挙である。カリスマ的な人気を誇ったイツハク・ラビン率いる労働党の前に、シャミール政権は大敗し野に下る。大敗したリクードの再建の為、ネタニヤフは同年の党首選に出馬、当選2回でありながら、ベニー・ベギンダビッド・レビモシェ・カツァブを破り、政権奪回に必勝を期すこととなった。

首相職(1期目)[編集]

ネタニヤフはパレスチナ過激派のイスラエルに対する自爆攻撃が多発した1996年7月の総選挙で勝利し、首相に選出された。シモン・ペレスはパレスチナ過激派の自爆攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。1996年3月3日、4日のパレスチナによる二度の自爆攻撃では32人のイスラエル人が死亡した。この攻撃がきっかけとなり、ペレスはテロリズムに対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。ペレスと異なり、ネタニヤフはヤーセル・アラファートを信頼せず、和平プロセスはパレスチナ自治政府の義務であるとし、自国に対するあらゆる攻撃に対抗する姿勢を示した。

アラファート(左)と握手するネタニヤフ、1996年

首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ・リバー合意英語版を成立させた。しかし多数の者がネタニヤフはパレスチナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは強者としてのイスラエルをパレスチナ側に押しつけるものであった。

"彼らが与えるならば - 彼らは得ることができる。彼らが与えない場合 - 彼らの得る物は無い。"
"יתנו - יקבלו. לא יתנו - לא יקבלו"

このアプローチはうまくいくように思われた。前任者ペレスや後任者バラックと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆攻撃は少なく比較的平静であった。1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルト嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定した。この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、百人以上のパレスチナ人がイスラエル側によって殺害された。

対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む、97年には当時最側近だったツァヒ・ハネグビ法相に贈収賄疑惑が浮上するものの、最高検は嫌疑不十分で立件を断念している)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフは大衆の支持を失った。

1999年の総選挙でエフード・バラック率いる労働党に敗北した後、ネタニヤフは、一時的に政治から身を引いた。

2000年以降の政治活動[編集]

汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。

これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラック政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既にリクード党首の地位にあったアリエル・シャロンの方が役者が一枚上手で、翌日9月28日神殿の丘訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。進退窮まったバラックは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。 その後、首相の椅子をつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にあるリクード・中央委員会がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。

2002年10月イスラエル労働党が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」を掲げ、シャロンと激突する。

2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝した後、対立劇はいったん収束。2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは財務相に任命される。

しかし2004年2月、シャロンがガザからの全面撤退を掲げた一方的ガザ地区撤退計画を発表すると、両者の対立が再燃する。シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だったリモール・リブナット教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった大イスラエル主義(「約束の地」の範囲を元々イスラエルのものと捉える思想)の是非と言った、古い問題を顕在化させてしまったのである。 党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・カディーマ結党へつながっていった。一方的ガザ地区撤退計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。その際もリクードの40人の議員の内17人が造反。党は完全に分裂状態となる。

2005年8月7日、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「ガザテロリストの前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、8月30日には本格的に倒閣運動に乗り出す。しかし、これも同年11月21日にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策(倒閣運動の翌日には、マアレ・アドゥミームを訪問し、ユダヤ人入植地の拡大を明言している)を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた[5]

財務相として、ネタニヤフはアル・アクサ・インティファーダの間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。

リクード党首に再登板[編集]

2005年11月、シャロンやオルメルトが集団離党し、カディーマの結成に動くと、不在になった党首の座をめぐり、党首選が前倒しとなる。翌月・12月19日、ネタニヤフは47%の支持を得て党首に返り咲く。しかし、シャロンらの離党・カディーマの結成で中道票をこぞって奪われ、自身が掲げるサッチャー流の経済政策は、格差拡大を助長させると集中砲火を浴びる。2006年3月28日に行われた総選挙では、リクードは歴史的惨敗を喫する。わずか12議席に落ち込み、第4勢力にまで後退することとなった。そのため、リモール・リブナット元教育相などからは党首辞任を要求する声が出たが、大勢にはならず、ネタニヤフはその地位にとどまり、反撃の機会を窺っている。リクードの分裂は、党の弱体化を招いたものの、ネタニヤフの側近や党内強硬派は力を温存する純化路線を一方でもたらした。ただ、選挙後の支持率は挽回傾向にあり、2006年8月に行われた世論調査ではオルメルト首相を抑え、次期首相候補のトップに立った。これは、オルメルト政権によるレバノン侵攻の失敗と、そのレバノン侵攻の際、ネタニヤフは一切政局にすることなく黙々と政権支持を貫いたこと。このことに国民が好感を持ったためである。ガザ地区撤退計画の際のシャロンへの執拗な糾弾がたびたび非難を浴びていたため、ネタニヤフもそれを意識していたものと思われる。2007年1月に地元紙が行った世論調査によるとネタニヤフが率いるリクードは現在選挙が行われれば、29議席を獲得し、第1党になるとの結果が出た。一方のオルメルト首相カディーマはわずか12議席との予測が出ており、現在はリクードが12,カディーマが29の議席をそれぞれ得ているので、オルメルト政権は発足後1年もたたないうちに逆転を許したことになる。2007年11月の世論調査でもリクードの支持は落ちていない。

また、ここ数年脅威が高まるイラン核武装については、極めて強硬な立場で、メナヘム・ベギン首相1981年イラクのオシラク原子炉爆撃を断行したバビロン作戦を引き合いに出し、イスファハーンなど核関連施設への先制攻撃も辞さない考えを示している。

中東和平については、オルメルト政権が主張するヨルダン川西岸入植地解体、シリアとの和平交渉及びそれに伴うゴラン高原返還、エルサレム東西分割案に、いずれも「イスラエルを危険に晒す」として反対の姿勢を貫いている。

2007年8月14日に行われたリクードの前倒し党首選で、73%の得票で再選される。

2007年9月19日地元テレビのインタビューで同月6日のイスラエル空軍によるシリアへの限定空爆を暴露。オルメルト首相に支持する旨を伝えていたことを明らかにした。空爆施設は、シリアが北朝鮮の協力の下、核開発を進めていた疑いがもたれている。 2008年1月10日、イスラエルを訪問したジョージ・ブッシュ大統領会談し、イランの軍事的脅威に対する意見交換を行った。

復権・首相再登板へ[編集]

2009年2月10日に実施された、総選挙ではカディーマに第1党を譲ったものの、73万票弱を獲得、12議席から27議席へと大きく勢力を倍増させた。同選挙では、従来からの主張であるイランの核武装阻止、ガザ紛争後もハマースに対する攻勢強化を訴え人心を掴んだ。選挙戦の際にはゴラン高原を訪問、現地で植樹を行い入植地拡大を約束している[6]。また、同選挙ではかつて政策的に激しく対立していたベニー・ベギン元科学相[7]ダン・メリドール元財務相と関係を修復するとともに、国民的人気の高いモーシェ・ヤアロン元参謀総長を三顧の礼で迎えた(3氏ともリクード公認・当選を果たしている)。同選挙では、政策的に近い右派・宗教政党が大きく躍進したことから、同諸政党が何れもネタニヤフを首相として推挙。同月19日にはこれまで態度を明らかにしていなかったイスラエル我が家がネタニヤフ支持を鮮明にしたことから、翌・20日にシモン・ペレス大統領がネタニヤフを首班とした組閣を要請。ネタニヤフ自身は、右派・宗教政党主体では政局運営が困難なことからカディーマを加えた大連立を模索しており、同月22日・28日に党首会談を行うも決裂。カディーマとの大連立は半ば断念するものの、労働党との連立交渉は進んでおり、政権発足は3月中旬になると見られていたが、労働党内で反発が強く労働党との交渉は難航。3月15日にはイスラエル我が家と政策合意、党首のアヴィグドール・リーベルマンの外相就任が確認された。同月23日には宗教政党・シャスと政策合意を果たした[8]。31日には右派連立内閣が発足、ネタニヤフは10年振りに首相の座に返り咲く事になった。

首相職(第2次)[編集]

労働党、シャスなど6党から成るネタニヤフ政権は、同年6月14日、対パレスチナ政策で微修正の動きを見せた。同日、ネタニヤフはテル・アヴィヴバル=イラン大学での演説で、限定的なパレスチナ国家容認に言及[9]。具体的には、同国家は非武装で、制空権を有しないこと。エルサレムの分割は行わないこと、既存入植地は今後も拡大を続ける。第一次中東戦争で難民となったパレスチナ人の帰還権(帰還権に関してはアラブ系と共産党を除く左右両派とも反対である)は認めないことなどがその柱である[10]。これらの政策修正はシャロン政権の前半に近いといえる。また、新中東和平案発表後の調査では71%が同案を評価、支持率も44%に急回復した[11]。また、同年11月17日には東エルサレムのギロに900戸の新規入植地建設を承認しエルサレム市がそれを執行することになった。一方、同月25日にはその相殺案としてヨルダン川西岸(ユダヤ・サマリア地区)への新規入植を10ヶ月間凍結する案(ただし、着工済の住宅建設については除外)を発表した[12]。暫定凍結案については労働党やベニー・ベギン無任所相らが一定の理解を示す一方[13]、党内の強硬派や[14] 入植者組合などからは激しい反発の声が上がっている[15]。しかしながら、凍結期限となった翌年9月26日以降は、凍結延長は行わず入植再開を粛々と断行した>[16]。また、翌・12月には、政局運営を円滑にするため、一度は決裂したカディーマとの大連立協議を行った[17][18] が、交渉は物別れに終わっている。翌・2010年1月20日には、パレスチナ人国家が樹立した後も、国防軍が引き続き治安維持の観点から駐留を継続する考えを示す[19][20]。ネタニヤフは前述の新和平案の中でもパレスチナ国家はあくまで非武装であることを前提条件としており、これはほとんどのパレスチナ人に受け入れられるものではなかった。2010年11月22日には、リクード有志議員が国会に提出していた、東エルサレム及びゴラン高原からの撤退(西岸は対象外)が行われる際には国民投票を義務付ける法案(国会で3分の2の賛成議決があれば実施されない)を、賛成65、反対33、棄権22の賛成多数で可決させパレスチナ側を牽制している[21]。2012年11月29日、国連総会がパレスチナのオブザーバーとしての資格を「組織」から「ノンメンバー国家」に格上げする決議案を賛成多数で採択したことに反発し、ヨルダン西岸と東エルサレムでユダヤ人入植者向け住宅3000戸を建設する計画を発表[22]

ガザ支援船拿捕[編集]

2010年5月31日に発生した、トルコからガザ地区へ人道支援のため向かっていた客船をイスラエル軍が拿捕し、トルコ人の人道支援活動家9人を殺害、乗船していた数十人の人道支援活動家を負傷させた事件に関しては、「正当防衛」であり「ハマース」支援のための船舶であったから攻撃したと弁明した。この事件は国際社会、ならびに人権活動家らから大きな非難を浴びたが、ネタニヤフは「我々は決して謝罪しない」と強硬姿勢を貫いた[23]。しかし、この姿勢にトルコは憤慨し、7月に入って、「イスラエルはトルコに謝罪せよ。謝罪をしないならば国際調査を受け入れよ。両方とも拒否するならば、イスラエルとの国交を断つ」という姿勢を見せて、イスラエル・トルコ間の緊張が高まった[24]。同年6月13日にイスラエル国内に設置された調査委員会(オブザーバーとしてデービッド・トリンブル元北アイルランド主席閣僚も参加)は、調査の結果2011年1月23日に報告書を公表し支援船の急襲・拿捕は合法であり、ガザに対する軍の封鎖措置も合法であると結論付けた[25]。しかし、これはイスラエル人7人の識者によって構成された委員会であり、たんに政府の行動を正当化しただけの調査報告ともいえる。

首相職(第3次)[編集]

2013年1月22日のクネセト総選挙においてリクードは右派政党イスラエル我が家と連合して戦い、議席を減らし31議席となったが再びネタニヤフが組閣を行い、第3次政権が発足した。

アメリカ合衆国議会合同会議の演説[編集]

2015年3月3日、アメリカ合衆国議会合同会議で39分間にわたる演説をし、オバマ大統領を攻撃した[26]

首相職(第4次)[編集]

2015年5月6日、3月のクネセト総選挙の結果に基づいて第4次内閣の組閣が行われた。しかし、アヴィグドール・リーベルマン率いる世俗系極右「イスラエル我が家」が、閣僚ポストなどをめぐる対立から連立政権への参加を見送ったため、辛うじて議席の過半数を占めるにとどまり、かつてのように安定した政権運営はできないという見方が現地メディアを中心に広がった。また、アメリカとの関係改善も進まないとも予測された[27]

首相の他に、厚生相、外相、地域協力相、コミュニケーション相も兼務した。

第21、22、23回総選挙[編集]

2018年12月に国会解散を決断し、次回クネセト総選挙を翌2019年4月9日と設定した[28] が、2019年2月28日にイスラエル検察当局が総選挙後にネタニヤフを収賄などの容疑で起訴する方針を発表するなど、リクードは劣勢に立たされた[29]。総選挙1カ月前の世論調査でも中道野党連合青と白がリクードをリードする結果が出ていた。

このためネタニヤフは将来のパレスチナ国家との共存を否定するなど右傾化を強め、総選挙を乗り切ろうと画策[30]。またネタニヤフとの関係が良かったアメリカドナルド・トランプ大統領は3月25日、国際的にシリアの領土と認められているゴラン高原におけるイスラエルの主権を認め[31]、ネタニヤフを事実上アシストした[32]。こうしたかいあってか、4月9日の投開票では出口調査で与野党勢力は拮抗し、両者ともに勝利宣言を行ったが[33]、翌10日、右派連合で過半数を占める見通しとなり、野党連合・青と白の共同代表ベニー・ガンツ元軍参謀総長が敗北宣言を行った[34]

首相職(第5次)[編集]

選挙結果に基づき、4月18日にルーベン・リブリン大統領がネタニヤフに組閣を要請し、第5次政権が発足するはずであった[35]。しかし期限の5月29日までにイスラエル我が家との対立点が埋まらず、連立政権交渉が妥結しなかったためネタニヤフは国会の解散を決定。9月17日に再選挙が行われたものの過半数を得た勢力はなく、組閣を要請されたものの10月21日に再び組閣を断念した[36]。同年12月26日のリクード党首選挙で再選[37]

ネタニヤフは起訴を免れるための免責決議を議会に求めていたが否決される公算が大きく、2020年1月28日にこの申し立てを取り下げた。これにともない、検察はネタニヤフを収賄や背任などの疑いで即日起訴した[38][39]

混迷のなか2020年3月2日に再々選挙が行われ、ネタニヤフ、ガンツの双方が組閣に失敗し続けたがCOVID-19の対応が求められる事態となったため、両者は方針を転換し4月20日に3年間の連立政権の樹立で合意[40]。ネタニヤフが収賄罪で起訴されていることから首相への就任は違法だとする申し立てが行われたが5月6日に最高裁判所が棄却し[41]、翌7日にイスラエル議会の72人の議員がネタニヤフの首相就任支持を表明[42]。17日に議会が新政権を承認し、ネタニヤフを首相、ガンツを副首相兼国防大臣とする挙国一致内閣が発足。首相を2021年11月頃まで1年半務めた後、ガンツに首相職を譲ることとなった[43]。しかしネタニヤフの汚職疑惑などをめぐって両者の対立は深まり、12月23日の期限内に予算が成立しなかったため議会はまたも解散[44]。2020年末から2021年初にかけて、ユダヤ人ディアスポラを通じてファイザーから大量のCOVID-19ワクチンの優先的な提供を受け、国内でワクチンの大量接種を進め支持率の浮揚を図った[45][46]。2021年3月23日に執行された総選挙ではリクードが第1党となり4月6日に組閣を要請されたものの[47]、5月4日に組閣を断念[48]。6月3日、極右の新右翼英語版や中道のイェシュ・アティッドなど野党8党が連立政権樹立で合意し[49][50]、議会は6月13日にナフタリ・ベネット新内閣を賛成60、反対59票の僅差で承認、第1次内閣を含め15年に及んだネタニヤフ政権は終焉を迎えた[51]

首相職(第6次)[編集]

2022年11月1日に執行されたクネセト総選挙リクードは32議席で第1党を維持し、右派連合が過半数の64議席を獲得し勝利[52]。13日にイツハク・ヘルツォグ大統領より組閣を要請された[53]。12月21日、極右・宗教政党と連立政権樹立で合意したと表明した[54]。同月29日、国会でこの連立政権が賛成多数で承認され、ネタニヤフ政権が正式に発足した[55]

第6次内閣では裁判所が政府決定を覆すことを禁止するなど司法の権限を弱める改革を押し進め、全土で反対運動が起こる中2023年7月に司法改革法案を通した。しかし2024年1月1日、最高裁判所はこの司法改革法制は無効と判断した[56]

2023年10月7日にハマースがガザ地区より2,000発以上のロケット弾を発射したほか、武装組織がイスラエル領内に侵入。イスラエル側も報復としてハマース拠点を中心に空爆を行い、双方合計で200名以上が死亡した。ネタニヤフは戦争状態にあると宣言し、ハマース幹部に対し経験したことがない代償を払うことになると警告した[57]。直後にアメリカ合衆国のジョー・バイデン大統領と会談し、イスラエルによる自衛権行使に対する支持を取り付けたほか、あらゆる適切な支援を提供する用意があるとの言葉を引き出した[58]。10月8日、ネタニヤフ政権はハマースに対して宣戦布告を決定し、重大な軍事活動を解禁すると宣言した[59]

生い立ちと軍歴[編集]

1967年のベンヤミン・ネタニヤフの写真 (イスラエル国防軍が撮影)

ベンヤミン・ネタニヤフは1949年10月21日イスラエルの首都テルアビブにて生まれた[60][61]。彼の母親のツィラ・シーガル(1912年 - 2000年)は、オスマン帝国のエルサレム・ムタサリファテのペタク・チクヴァで生まれ、父親のワルシャワ生まれのベンジオン・ネタニヤフ(旧名ミライコウスキー、1910年 - 2012年)は、スペインのユダヤ人黄金時代を専門とする歴史家であった。彼の父方の祖父のネイサン・ミライコウスキーはラビでシオニストの作家であった。ベンヤミン・ネタニヤフの父親は委任統治領パレスチナに移住した際、自分の姓を「ミレイコフスキー」から「神が与えた」という意味の「ネタニヤフ」にヘブライ語化した。彼の家族は大部分がアシュケナージであるが、DNA検査の結果、セファラディ系の祖先を持っていることが判明したと彼は述べた。彼はビルナ・ガオンの子孫であると主張している[62][63]

ベンヤミン・ネタニヤフは3人兄弟の2番目として生まれた。彼は当初エルサレムで育ち、教育を受け、ヘンリエッタ・ソルド小学校に通った。6年生の教師ルース・ルーベンシュタインからの評価のコピーによる、ベンヤミン・ネタニヤフが礼儀正しく、礼儀正しく、親切であることが示されていた。彼は「責任感があり、時間厳守」だった。そして、彼は友好的で、規律正しく、陽気で、勇敢で、活動的で、従順だったという事の証明となった[64]

1956年から1958年そして再び1963年から1967年にかけて[65]、父親のベンジオン・ネタニヤフがドロップシー大学で教鞭を執る間、家族はアメリカ合衆国フィラデルフィア郊外のペンシルべニア州チェルトナム・タウンシップに住んでいた[66]。ベンジャミンはチェルトナム高校 に通い卒業し、ディベートクラブ、チェスクラブ、サッカーで活躍した[66]。ベンヤミンと弟のヨナタンは、蔓延する若者のカウンターカルチャー運動や、家族が参加していた改革シナゴーグ、フィラデルフィアの神殿ユダヤの自由主義など、この地域で遭遇した表面的な生活様式に不満を抱くようになった[66]

私はユニットをとても尊敬しています。これは、たとえその行動が秘密であっても、私たちの生活の現実を変えるユニットです。小規模な部隊ではありますが、軍のあらゆる部門に影響を与えています...部隊での勤務により、作戦承認の背後に含まれるリスクと戦闘員が引き受けているリスクについての理解が深まりました。それは私にとって理論的なものではなく、具体的なものです。 ベンヤミン・ネタニヤフ、サイェレット・マトカルについて(マーリブ2007)

1967年に高校を卒業した後、ベンヤミン・ネタニヤフはイスラエル国防軍に入隊するためにイスラエルに戻った。彼は戦闘兵士として訓練を受け、イスラエル国防軍の特殊部隊であるサイェレット・マトカルに5年間勤務した。彼は1967年から1970年消耗戦争中に数多くの国境を越えた襲撃に参加し、その中には1968年3月にイスラエル国防軍がパレスチナ解放機構(PLO)の最高指導者ヤーセル・アラファートを捕らえるためにヨルダンを攻撃したカラメの戦いも含まれるが、多大な死傷者を出して撃退された[67][68]。彼は戦闘で何度も負傷した。彼は1968年のイスラエルによるレバノン襲撃や、 1972年5月に肩を撃たれてハイジャックされたサベナ571便の救出など、他の多くの任務に携わった。彼は1972年に現役を退役したが、サイエレット・マトカル予備役に残った。除隊後、彼はアメリカに留学したが、1973年10月にイスラエルに戻り、第四次中東戦争に従軍した[69][70]。彼はシリア領土奥深くでイスラエル国防軍部隊による攻撃を指揮する前に、スエズ運河沿いでエジプト軍に対する特殊部隊の襲撃に参加したが、その詳細は現在も機密のままである[71]

教育[編集]

ベンヤミン・ネタニヤフは1972年から1976年までMITで学び、SBとSMの学位を取得した。

ベンヤミン・ネタニヤフはマサチューセッツ工科大学(MIT)で建築を学ぶため、1972年末にアメリカに帰国した。第四次中東戦争に参戦するためイスラエルに一時帰国した後、再びアメリカに戻り、ベン・ニタイという名で1975年2月に建築の学士号を取得し[72][73]、修士号を取得した[74]1976年6月にMITスローン経営大学院を卒業した。同時に、エンテベ襲撃で兄が死亡したことで学業が中断されるまで、政治学の博士号を目指して勉強していた[75][76][77]

ベンヤミン・ネタニヤフはマサチューセッツ工科大学でダブルロードを学び、同時にハーバード大学でコースを受講し、ヨム・キプール戦争で戦うために休暇を取ったにもかかわらず、2年半で修士号を取得した。MITのレオン・B・グロワッサー教授は、「彼は素晴らしい仕事をした。とても聡明だった。組織的で、力強く、力強かった。彼は自分が何をしたいのか、そしてそれをどうやって成し遂げるのかを知っていた。」と回想した[78]

その時、彼は名前をベンジャミン「ベン」ニタイに変更した(ニタイとは、ニタイ山とアルベラのユダヤ人の聖者ニッタイの名を冠したものであり、父親が記事によく使用したペンネームであった)[79]。数年後、ネタニヤフ首相はメディアとのインタビューで、アメリカ人が自分の名前を発音しやすくするためにそうすることにしたと明らかにした。この事実は、彼の政敵によって、イスラエルの国家的アイデンティティと忠誠心の欠如として間接的に彼を非難するために利用されてきた[80]

1976年にベンヤミン・ネタニヤフの兄ヨナタン・ネタニヤフが殺害された。ヨナタンはベンジャミンの元部隊であるサイェレット・マトカルの指揮官を務めていたが、テロ対策人質救出作戦「サンダーボルト作戦」中に死亡した。同作戦では、彼の部隊がテロリストにハイジャックされウガンダのエンテベ空港に運ばれた主にイスラエル人の人質100人以上を救出した。

1976年にベンヤミン・ネタニヤフはMITスローン経営大学院をほぼ首席で卒業した[81]

野党指導者 (1993–1996)[編集]

1988年のイスラエル議会選挙の前に、ベンヤミン・ネタニヤフはイスラエルに戻り、リクード党に入党した。リクードの党内選挙でネタニヤフ首相は党員名簿で5位となった。その後、彼は第12期国会の議員に選出され、モシェ・アーレンス外務大臣の代理に任命され、その後デビッド・レヴィ外務大臣に任命された。ベンヤミン・ネタニヤフとレヴィ外務大臣は協力せず、その後両者の対立は激化するばかりだった。1991年初頭の湾岸戦争中、英語が堪能なベンヤミン・ネタニヤフは、 CNNやその他の報道機関のインタビューでイスラエルの主要な報道官として登場した。1991年のマドリッド会議中、ネタニヤフはイツハク・シャミル首相率いるイスラエル代表団のメンバーだった。マドリード会談後、ベンヤミン・ネタニヤフはイスラエル首相府の副大臣に任命された[82]

1992年のイスラエル議会選挙でリクード党が敗北したことを受け、リクード党は1993年に党首選挙を実施し、ネタニヤフ首相が故メナヘム・ベギン首相の息子ベニー・ベギンと有力政治家デービッド・レヴィを破って勝利した[83]。(シャロンは当初リクード党の指導者にも就任しようとしたが、最小限の支持しか集めていないことが明らかになるやすぐに撤退した)。シャミールは1992年の選挙でリクードが敗北した直後に政界を引退した[84]

オスロ合意を支持する集会の末にイツハク・ラビン暗殺されたことを受け、ラビンの暫定後継者であるシモン・ペレスは、政府に和平プロセスを進める権限を与えるために早期選挙を実施することを決定した[85]。ベンヤミン・ネタニヤフは1996年5月29日に行われた1996年のイスラエル議会選挙におけるリクードの首相候補であり、イスラエル人が首相を直接選出した初のイスラエル選挙であった[86]。ベンヤミン・ネタニヤフは選挙運動を運営するためにアメリカ共和党の政治工作員アーサー・フィンケルスタインを雇い[87]、アメリカ流の激しい攻撃と鋭い攻撃は厳しい批判を引き起こしたが、ベンヤミン・ネタニヤフは1996年の選挙で勝利し、国会議員の中で最年少となった。この地位の歴史と、イスラエル国生まれの初のイスラエル首相である(イツハク・ラビンは、1948年のイスラエル建国に先立って、イギリスのパレスチナ委任統治下にあるエルサレムで生まれた)[88]

ネタニヤフ首相が選挙前の本命候補シモン・ペレス氏に勝利したことは多くの人を驚かせた。後者の崩壊の主なきっかけは、選挙直前の自爆テロの波であった。1996年3月3日と4日、パレスチナ人は2度の自爆テロを実行し、32人のイスラエル人を殺害したが、ペレスは攻撃を止めることができなかったようだ。選挙運動中、ネタニヤフ首相は、和平プロセスの進展はパレスチナ国家権力が主にテロとの戦いを中心とした義務を果たすことに基づくものであり、リクード選挙運動のスローガンは「ネタニヤフ首相 –安全な和平の実現」であると強調した。しかし、ネタニヤフは首相選挙に勝ったものの、クネセト選挙ではペレス率いるイスラエル労働党がより多くの議席を獲得した。ネタニヤフ首相は政権を樹立するために超正統派政党シャスとUTJとの連立に頼らなければならなかった。

首相 (1996–1999)[編集]

前期

ベンヤミン・ネタニヤフ首相とパレスチナのヤセル・アラファト大統領とエレズ交差点での初会談 (1996年9月4日撮影)

自爆テロが相次ぎ、ハマスは爆撃のほとんどについて犯行声明を出した。ベンヤミン・ネタニヤフは首相として、オスロ合意の多くの中心的前提について多くの疑問を提起した。ベンヤミン・ネタニヤフの主な論点の一つは、交渉は段階的に進められるべきであるというオスロの前提に同意できないことであり、これはエルサレムの地位パレスチナ国家規約の改正などの主要な問題について解決に至る前にパレスチナ人に譲歩すべきであることを意味している。オスロ合意の支持者らは、多段階アプローチがパレスチナ人の間に友好関係を築き、後の段階でこれらの重大な問題が提起された際にパレスチナ人が和解を求めるよう促すだろうと主張していた。ベンヤミン・ネタニヤフは、こうした譲歩は過激派分子を勇気づけただけで、具体的な見返りは得られなかったと述べた。同氏はイスラエルの譲歩と引き換えにパレスチナ人の善意を示す具体的な行動を求めた。オスロ合意との相違を述べたにもかかわらず、ネタニヤフ首相はその履行を続けたが、首相就任後、和平プロセスは著しく停滞した。

1996年にネタニヤフ首相とエルサレムのエフド・オルメルト市長は、シモン・ペレス前首相が平和のために保留するよう指示していた嘆きの壁トンネルのアラブ人街の出口を開けることを決定した。これをきっかけにパレスチナ人による3日間の暴動が発生し、イスラエル人とパレスチナ人の双方で数十人が殺害された[89][90]

ベンヤミン・ネタニヤフ首相は1996年9月4日にパレスチナのアラファト大統領と初めて会談した。会談に先立ち、両首脳は電話で会談した[91]。会談は 1996 年の秋まで継続されることになった。最初の会談でネタニヤフ首相は次のように述べた。「互恵性と両国間の保証に基づいて、双方のニーズと要求を考慮しなければならないことを強調したい。イスラエル人とパレスチナ人双方の安全と幸福を同様に守ります。」アラファト大統領は「われわれはネタニヤフ首相および同政権と協力する決意だ」と述べた[92]。交渉は1997年1月14日ヘブロン議定書の署名で最高潮に達した[93]パレスチナ自治政府とのヘブロン議定書の署名により、イスラエル軍がヘブロンに再配置され、地域の大部分で文民権限がパレスチナ自治政府の管理下に移管された。

ワイ川覚書でマデリーン・オルブライト米国務長官およびパレスチナのヤセル・アラファト大統領と座るネタニヤフ首相、1998年

結局、和平プロセスの進展が見られなかったため、新たな交渉が行われ、 1998年にワイ川覚書が作成された。この覚書には、1995年の初期の暫定合意を履行するためにイスラエル政府とパレスチナ自治政府がとるべき手順が詳述されている。この覚書にはネタニヤフ首相が署名した。そして1998年11月17日に120人の議員からなるイスラエル議会のクネセトは75対19の投票でワイ川覚書を承認した。1967年のハルツーム会談に敬意を表し、ネタニヤフ首相は「3つのノー」政策を強調した。それは、ゴラン高原からの撤退なし、エルサレム問題についての議論なし、いかなる前提条件のもとでも交渉なしである[94]

1997年に両国が平和条約に署名してからわずか3年後にベンヤミン・ネタニヤフはイスラエルの隣国ヨルダンハマスの指導者ハリド・マシャルを暗殺するモサドの作戦を承認した[95]。モサドチームはカナダ人観光客5名を援護し、1997年9月27日にヨルダンに入り、首都アンマンの路上でマシャルの耳に毒物を注射した。この陰謀は暴露され、2人の工作員がヨルダン警察に逮捕され、残りの3人はイスラエル大使館に隠れ、その後軍隊に包囲された[96]。怒ったフセイン王はイスラエルに解毒剤を渡すよう要求し、平和条約を破棄すると脅した[97] 。ネタニヤフ首相はビル・クリントン米大統領の圧力を受けて要求に折れ、シェイク・アハマド・ヤシンを含むヨルダン人とパレスチナ人の捕虜61人の釈放を命じた。この事件により、初期のイスラエルとヨルダンの関係は急落した[98]

ベンヤミン・ネタニヤフ首相は任期中、経済自由化のプロセスも開始し、自由市場経済に向けた一歩を踏み出した。同氏の監視の下、政府は銀行や大手国営企業の株式の売却を開始した。ネタニヤフ首相はまた、イスラエルの厳しい外国為替規制を大幅に緩和し、イスラエル人が無制限に資金を国外に持ち出し、外国の銀行口座を開設し、外貨を保有し、他国に自由に投資できるようにした[99][100]

ネタニヤフ首相と息子ヤイール、1998年嘆きの壁にて

ネタニヤフ首相は任期を通じてイスラエルの政治的左派の反対を受け、ヘブロンなどでのパレスチナ人への譲歩とアラファトとの交渉全般のせいで右派からの支持を失った。ネタニヤフ首相は結婚や汚職容疑などのスキャンダルが長く続き、イスラエル国民の支持を失った。1997年、警察はネタニヤフ首相に影響力を広めた汚職容疑で起訴するよう勧告した。同氏は罪状を軽減する司法長官を任命した疑いで告発されたが、検察は裁判にかける証拠が不十分であるとの判決を下した[101]。1999年にイスラエル警察が政府請負業者からの無料サービス10万ドルを受け取るためにネタニヤフ首相を汚職容疑で裁判にかけるよう勧告したとき、ネタニヤフ首相は新たなスキャンダルに直面した。イスラエルの司法長官は証拠の困難を理由に起訴しなかった[102]

選挙の敗北 [編集]

1999年のイスラエル首相選挙でエフード・バラクに敗れた後、ネタニヤフは一時的に政界から引退した。その後、イスラエルの通信機器メーカーBATM Advanced Communicationsで上級コンサルタントを2 年間務めた[103][104][105]

2000年末にバラク政権が崩壊すると、ベンヤミン・ネタニヤフは政界復帰への意欲を表明した。法律により、バラクの辞任は首相の座のみを対象とした選挙につながることになっていた。ネタニヤフ首相は総選挙の実施を主張し、そうしなければ安定した政権を維持することは不可能だと主張した。ネタニヤフは最終的に首相に立候補しないことを決定したが、これが当時ネタニヤフよりも人気がないと考えられていたアリエル・シャロンの驚くべき台頭を促進した。2002年、イスラエル労働党が連立政権を離脱し外相の座を空席にすると、アリエル・シャロン首相はベンヤミン・ネタニヤフを外務大臣に任命した[106]。ネタニヤフは、 2002年のリクード党指導部選挙でシャロンにリクード党指導部の座を争ったが、彼を追放することはできなかった[107]

2002年9月9日にカナダケベック州モントリオールコンコルディア大学で予定されていたベンヤミン・ネタニヤフの演説は、数百人の親パレスチナデモ参加者が警備員を制圧し、ガラス窓を突き破ったため中止された。ネタニヤフ首相は抗議活動には参加せず、期間中ずっとホテルに滞在していた。その後、同氏は活動家らがテロリズムと「狂気の熱狂」を支援していると非難した[108]。数週間後の2002年10月1日、約200人のデモ参加者がピッツバーグのハインツ・ホール出演の外でベンヤミン・ネタニヤフと面会したが、ピッツバーグ警察、イスラエル治安部隊、ピッツバーグSWAT部隊はダウンタウンのホールやデュケイン・クラブ、郊外のロバートで演説を続けることを許可した[109]

2002年9月12日にベンヤミン・ネタニヤフは米下院の監視・政府改革委員会で、イラク政権がもたらす核の脅威について(民間人としての宣誓のもと)次のように証言した。そして核兵器の開発に向けて前進していることには何の疑問もありません」と彼は語った。「そして、ひとたび彼がそれを手に入れると、歴史が即座に変わることに疑問の余地はありません。[110]」ネタニヤフ首相は証言の中で、「もしあなたがサダム、そしてサダムの政権を排除すれば、それがこの地域に多大なポジティブな影響を与えることを保証する」とも述べた[111]

財務大臣 (2003 ~ 2005年)[編集]

2003年のイスラエル議会選挙の後、多くの観察者が意外な動きとみなしたが、シャロン首相はシルバン・シャロームに外務大臣に任命し、ネタニヤフに財務大臣に任命した。一部の専門家は、シャロン首相が外相として示した有能性を考えるとベンヤミン・ネタニヤフを政治的脅威とみなしたためこのような動きをしたのではないか、経済が不安定な時期にネタニヤフを財務省に据えることでネタニヤフの人気を低下させることができるのではないかと推測している。ネタニヤフ首相は新たな任命を受け入れた。シャロンとネタニヤフは、シャロン首相によるイスラエルの軍事・外交管理に対するネタニヤフの沈黙と引き換えに、ネタニヤフが財務大臣として完全な自由を与え、シャロン首相の全ての改革を支持させるという合意に達した[112]

ベンヤミン・ネタニヤフは財務大臣として、イスラエル経済を第二次インティファーダの低迷期から回復させるための経済計画に着手した。ベンヤミン・ネタニヤフ財務大臣は、経済成長を抑制する主な原因は公共部門の肥大化と過剰な規制にあると主張した。彼の計画には、より自由化された市場への移行が含まれていましたが、批判がなかったわけではなかった。同氏は人々に仕事や訓練への応募を義務付けることで福祉依存をなくすプログラムを制定し、公共部門の規模を縮小し、政府支出を3年間凍結し、財政赤字の上限を1%に設定した。税制の合理化と減税が行われ、個人の最高税率は64%から44%に、法人税率は36%から18%に引き下げられた。銀行、石油精製所、エルアル国営航空会社、ジム統合海運サービスなど、数十億ドル相当の多数の国資産が民営化された。男女ともに退職年齢が引き上げられ、為替法もさらに自由化された。商業銀行は長期貯蓄を分離せざるを得なくなった。さらに、ネタニヤフ首相は競争を激化させるために独占企業やカルテルを攻撃した。イスラエル経済が急成長し始め、失業率が大幅に低下すると、ネタニヤフ財務大臣は任期終了までに「経済の奇跡」を起こしたと評論家らから広く認められた[113][114][115]

しかし、労働党の反対派(そして同氏のリクード内部の少数派も)は、ネタニヤフ首相の政策を、尊敬されるイスラエルの社会的セーフティネットに対する「サッチャライト」の攻撃とみなした[116]。最終的に、経済成長が急上昇する一方で失業率は減少し、債務対GDP比は世界最低水準に低下し、海外投資は記録的な高水準に達した[117]

ネタニヤフ財務大臣は、ガザ地区撤退計画が住民投票にかけられなければ、2004年に辞任すると脅した。その後、彼は最後通告を修正して国会でこの計画に賛成票を投じ、その直後に14日以内に国民投票が行われない限り辞任する意向を示した[118]。彼は2005年8月7日にイスラエル内閣がガザからの撤退の初期段階を17対5で承認する直前に辞任届を提出した[119]

野党指導者 (2006 〜 2009年)[編集]

シャロン首相のリクード離脱後、ネタニヤフ首相はリクード指導部を争う数人の候補者の一人となった。これに先立って彼が最近試みたのは2005年9月で、リクード党が首相の座にある間に同党党首の座を賭けた予備選を早期に実施しようとしたことで、事実上アリエル・シャロンを辞任させた。党はこの構想を拒否した。2005年12月20日、ネタニヤフは予備投票の47%を獲得し、シルヴァン・シャロームが32%、モーシェ・フェイグリンが15%となり、リーダーシップを取り戻した[120]。2006年3月のクネセト選挙ではリクードがカディマ、労働党に次ぐ第3位となり、ネタニヤフが野党指導者を務めた[121]。 2007年8月14日にネタニヤフは極右候補のモシェ・フェイグリンと世界リクード議長のダニー・ダノンに対し、投票の73%を獲得してリクード議長および首相候補に再選された[122]。彼は、クネセト反対派の他のメンバーと同様に、2008年のイスラエルとハマスの停戦に反対した。具体的にネタニヤフ首相は、「これは緩和ではない。ハマスの再軍備に対するイスラエルの合意だ…これで我々は何を得るのか?」と述べた[123]

2008年前半に医師らは良性であることが判明した小さな結腸ポリープを切除した[124]

ツィピ・リブニがカディマ首相に選出され、オルメルトが首相職を辞任した後、ネタニヤフはリブニが結成しようとしていた連立政権への参加を拒否し、2009年2月に行われた新たな選挙を支持した[125][126]。 2009年2月10日に行われた2009年イスラエル議会選挙においてリクード党の首相候補となったのは、オルメルト政権下で前首相代理に指名されたリブニが実行可能な連立政権を形成できなかったためである。世論調査ではリクードがリードしているものの、イスラエル有権者の3分の1もが決断を決めていない[127]

選挙そのものではリクードが2番目に多い議席を獲得し、リヴニ氏の党はリクードを1議席上回った。リクードの比較的不振の説明として考えられるのは、一部のリクード支持者がアヴィグドール・リーベルマン率いるイスラエル・ベイテヌ党に離反したことである。しかし、ネタニヤフは右翼政党が過半数の票を獲得したことを根拠に勝利を主張し、2009年2月20日にネタニヤフはイスラエル大統領シモン・ペレスによってエフド・オルメルトの後任首相に任命され、憲法制定交渉を開始した。

右派政党が国会で65議席の過半数を獲得したにもかかわらず、ネタニヤフ首相はより広範な中道連合を好み、ツィピ・リブニが議長を務めるカディマのライバル勢力に政権への参加を求めた。今回はリヴニが参加を辞退する番となり、和平プロセスの進め方をめぐる意見の相違が障害となった。ネタニヤフ首相は、エフド・バラクが党首を務める小規模なライバルである労働党を政権に参加させることに成功し、ある程度中道派の色合いを与えた。ネタニヤフ首相は2009年3月31日、クネセトの「信任投票」を内閣に提出した。その日、第32次政権は議員69名対45名(棄権5名)の過半数によって承認され、議員が就任宣誓した[128][129]

政策・主張[編集]

党内では右派に属しており、保守的な政策で知られる。その一方で、LGBTに対する権利については認めている。

司法[編集]

ネタニヤフは死刑存置論に属しており、入植地のハラミッシュで発生した凶悪事件では犯人の死刑を主張していた。

批判[編集]

ホロコーストに関する発言[編集]

第二次世界大戦中のホロコーストによるユダヤ人虐殺をアドルフ・ヒトラーに提案したのは当時のパレスチナ指導者アミーン・フサイニーであるという主張をしばしば行い、パレスチナ側はもとよりイスラエル国内からも批判を受けている[130]。ドイツのメルケル首相は「ナチスの責任だとドイツ人は、はっきり認識している」とネタ二ヤフに反論している[131]

マスコミによる批判[編集]

2010年12月26日付のイスラエル紙「ハアレツ」は、社説で「ネタニヤフは右翼とカハネ主義者を勇気付けている」と題し、ネタニヤフがエリトリアスーダンなどから戦火や抑圧、貧困から逃れるためにイスラエルにやって来た不法移民たちを「市民を脅かし、イスラエルの雇用を脅かし、ユダヤ人民主国家を脅かしている洪水である」と発言したことについて、「カハネ主義者や右翼のラビといった人種差別主義者たちによる攻撃の格好の標的を作った」と書き、ネタニヤフを厳しく批判した[132]

民衆による批判[編集]

2011年7月に、住宅価格や物価の高騰、激しい貧富の差などに抗議する大規模なデモがイスラエル国内で行われるようになり、ネタニヤフはイスラエル国民からこれまでにない激しい批判にさらされている[133]

国内政治家による批判[編集]

イスラエル諜報特務庁長官のタミル・パルド(英語版)は、ネタニヤフの司法改革や外交政策に対し厳しく批判しており「ネタニヤフはイスラエルをアパルトヘイト国家にしようとしている」と非難している[134]

ハダシュ党首のアイマン・オデフ(英語版)はネタニヤフのアラブ人に対する政策と、ガザ侵攻の代表される戦争に反対し、彼を人権侵害を行なっているシリアと比較していた。

危機管理への批判 [編集]

ネタニヤフは保守(右派)系の政治家にもかかわらず、ハマスの奇襲攻撃を事前に察知できなかった事、ハマスのテロリストがイスラエル国土に侵入した後も対応が遅れた事への批判が保守系のイスラエル国民の間で広がった。 イスラエル国防軍はアジアで最も実戦経験があり諜報機関も優秀だったにもかかわらず200人以上のイスラエル国民の拉致が発生したこともダメージコントロールが出来ていないという責任追及がなされている[135]

2023年の戦争に対する批判[編集]

2023年パレスチナ・イスラエル戦争において閣僚が「ガザに原爆を使うのも選択肢の一つ」と発言したことや[136]、ネタニヤフ自身が本戦争に対しヘブライ語聖書[注 1]申命記25章17節)を引用し、「アマレクがあなたにしたことを思い出さなければならない」[137]と発言したことに批判が集まった(申命記25章17節には「あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない」と、「サムエル記」(15章3節)では、「アマレクの民を亡ぼしなさい、彼らに関するもの全てを破壊しなさい。男も女も幼児も乳飲み子も、牛も羊もラクダもロバも殺しなさい」と記されている。アマレクはイスラエルの敵を指すため、実質的に「パレスチナ人を皆殺しにする」ようなニュアンスとなる)。12月29日、南アフリカがイスラエルを、ジェノサイド条約違反の被疑で国際司法裁判所に提訴した。南アフリカは、ジェノサイドの意図の証拠の一つとして、ネタニヤフの発言を提出した[138]。2024年1月16日、イスラエル首相官邸は、南アフリカの「誤った馬鹿げた告発」であり、「ハマースのジェノサイド・テロリストが行った邪悪な行為と対峙する必要性を述べた物」と反論した[139]

一方で、イスラエル国内では「アマレク」皆殺しへの支持もあった。ネスとスティラヘブライ語版によるデュオ曲"Harbu Darbu英語版"は、イスラエル国防軍が「アマレクの子ら」に地獄の雨を降らせるという内容で、ガザ地区などへの攻撃を鼓舞し、ハマースのイスマーイール・ハニーヤ、イランのハサン・ナスルッラーフ、そしてネスとスティラが「親ハマース」と見なしたベラ・ハディッドらを名指しで標的とした。"Harbu Darbu"はケシェット・インターナショナル英語版傘下の「mako」ヒットチャートで1位となるなど流行歌となり、IDF兵士にも流行したという[140][141][142][143]。"Harbu Darbu"もまた、「ジェノサイド的」と非難されたが[144]、ネスとスティラは「世界に我々が強国、強い軍隊を持つ国であり、悪い事ばかりではないことが知られて嬉しい[145]」との見解を示した。

また、2024年4月19日、アビ・ディヒター英語版農業・地方開発大臣は、ニル・オズのキブツからハマースらに拉致されたイスラエル人が、「(ハマースと)無関係とされる」ガザ住民に傷害を負ったと主張した。その上で、一人一人の住民を「テロリスト」と呼び、「アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。(「申命記」25章19節)」を引き、刑務所か墓の下に送らなければならないと主張した[146]

4月29日、ベザレル・スモトリッチ財務相兼国防省付大臣は、ハマースなどとの停戦に反対し、「中途半端な仕事など存在しない。ラファ、デリ・アル・バラ、ヌシラト――完全な殲滅だ。『アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい』――天の下に場所などない。」と、やはり「申命記」25章19節を引いて主張した[147]

その他[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ キリスト教の『旧約聖書』とほぼ同内容だが、『旧約聖書』はキリスト教での表現であり、ユダヤ教では『タナハ』(律法、預言書、諸書)と呼ばれる。詳細は当該記事参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
シモン・ペレス
エフード・オルメルト
ヤイル・ラピド
イスラエルの旗 イスラエル国首相
第13代:1996年 - 1999年
第17代:2009年 - 2021年
第20代:2022年 -
次代
エフード・バラック
ナフタリ・ベネット
現職
先代
シモン・ペレス
イスラエルの旗 イスラエル国外相
第17代:2002年 - 2003年
次代
シルバン・シャローム
先代
ダン・メリドール
Ya'akov Ne'eman (en)
シルバン・シャローム
イスラエルの旗 イスラエル国財務相
第18代:1997年
第20代:1998年 - 1999年
第24代:2003年 - 2005年
次代
Ya'akov Ne'eman (en)
Meir Sheetrit (en)
エフード・オルメルト
党職
先代
イツハク・シャミル
アリエル・シャロン
リクード党首
第3代:1993年 - 1999年
第5代:2005年 -
次代
アリエル・シャロン
現職