マルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前264年の執政官)

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マルクス・フルウィウス・フラックス
Marcus Fulvius Flaccus
(M. Fulvius Q. f. M. n. Flaccus)
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 フルウィウス氏族
官職 護民官(紀元前270年)
水道二人官(紀元前270年)
執政官(紀元前264年)
マギステル・エクィトゥム(紀元前246年)
指揮した戦争 ウォルシニ包囲戦(紀元前264年)
後継者 クィントゥス・フルウィウス・フラックス
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マルクス・フルウィウス・フラックスラテン語: Marcus Fulvius Flaccus)は共和政ローマ中期の政治家・将軍で、紀元前264年執政官である。ティトゥス・リウィウスは、プラエノーメン(個人名)はクイントゥスであるとしている[1]

経歴[編集]

初期のキャリア[編集]

紀元前270年には護民官を務め、更にマニウス・クリウス・デンタトゥスが死去すると水道二人官として旧アニオ水道建設事業を受け継ぎ完成させた[2]

コンスルシップ[編集]

紀元前264年に執政官に選出されると、前年の執政官であるクィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスが開始したウォルシニ英語版(現在のボルセーナ)包囲戦を完了させた[3]。ゲルゲスは包囲戦中の負傷が元となって死亡し、補充執政官のプブリウス・デキウス・ムスが引き継いでいた[4]。ウォルシニの陥落後、フルウィウス・フラックスは都市を略奪した後に破壊するよう命令し、住民は移住させた。ローマの凱旋式記録には、紀元前264年11月1日に、フルウィウス・フラックスが凱旋式を挙行したことが記されている。

1960年代になって、ローマのサン・オモボノ教会から彼の「ドナリウム」(神殿の奉納品保管庫)が発見された。モニュメントの上部には多くの傷があり、彼がウォルシニからローマへ運んだ多くの像が確認された[5]。ウォルシニはローマが最後に陥落させたエトルリア都市であった。

その後[編集]

紀元前246年ティベリウス・コルンカニウス独裁官となると、その副官に指名されている[6]

一族[編集]

フルウィウス・フラックスはフルウィウス氏族のフラックス家の創始者であると考えられている。紀元前237年から幾度も執政官を務めたクィントゥス・フルウィウス・フラックスは恐らく彼の息子である。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目[編集]

公職
先代
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス(在任中戦死)、
プブリウス・デキウス・ムス(補充)、
ルキウス・マミリウス・ウィトゥルス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前264年
同僚
アッピウス・クラウディウス・カウデクス
次代
マニウス・オタキリウス・クラッスス
マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ