佐竹永稜

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佐竹 永稜(さたけ えいりょう、明治5年5月5日1872年6月10日) - 昭和12年(1937年1月8日)は明治期から昭和初期の日本画家谷文晁の鑑定では第一人者といわれる。

旧姓黒田。名は銀十郎。永稜は、別号に写山画房・巍々堂など。東京浅草の生まれ。

略歴[編集]

はじめ外祖父にあたる正木竜塘について書法を学ぶが、後に画に興味をもち佐竹永湖に師事する。谷文晁の南北合流の画法をよく学びその画力を認められ、明治20年(1887年)永湖の娘婿となり佐竹永海から続く佐竹家画系の3代目となった。各種展覧会・共進会で受賞多数。宮内庁に実績が認められ数十回も御用品となる。明治27年(1894年)、明治天皇御前揮毫の栄誉に浴し、その後も大正天皇の御前揮毫を三回行っている。

明治31年(1898年)、日本画会の結成に参画、明治39年(1906年)には松林桂月小坂芝田らと日本南宗画会を創設するなど活躍した。日本美術協会第一部委員・日本画家協会幹事・日本書道会幹事などの要職を歴任。享年66。谷中霊園に墓がある。

文晁の実子谷文二が夭折し、文晁門の粉本類・遺作などは佐竹家に伝わった。文晁の研究を熱心に行い、文晁の作品鑑定の第一人者といわれた。しかし、大正期の火災によりこれら粉本類や諸記録などはすべて焼失した。

作品[編集]

  • 「夏景山水図」・「冬景山水図」第6回文展 大正元年(1912年)
  • 「水墨山水図」第9回文展3等賞 大正4年(1915年)

参考文献[編集]