倭彦命

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倭彦命(やまとひこのみこと[1]、生年不詳 - 垂仁天皇28年10月5日)は、記紀等に伝わる古代日本皇族(王族)。

日本書紀』では「倭彦命」、『古事記』では「倭日子命」、他文献では「倭彦王子[2]とも表記される。

第10代崇神天皇皇子で、第11代垂仁天皇の同母弟である。『日本書紀』・『古事記』とも事績の記載はない。

記録[編集]

日本書紀』・『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、皇后御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄として活目入彦五十狹茅尊(第11代垂仁天皇)がいる。

『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られた。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが(日本書紀に記される初にして唯一の殉葬の記録である)、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという[1]

また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、野見宿禰が人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とすることを進言し、天皇は大いによろこび、以後これが慣例になったとする(人物埴輪・形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる[1]

『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の分注として、倭日子命の時に初めて「陵に人垣を立てた(殉葬した)」としている[1]

また、『続日本紀天応元年(781年)条[2]にも同様の伝承が記されている。

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は、宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある身狭桃花鳥坂墓(身狹桃花鳥坂墓:むさのつきさかのはか、北緯34度28分29.47秒 東経135度46分42.24秒)に治定されている[3][4][5]。宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「桝山古墳(ますやまこふん)」。

『日本書紀』では倭彦命は上記のように「身狭桃花鳥坂」に葬られた旨が記されているが、『延喜式諸陵寮では記載を欠いている[5]江戸時代には鬼の俎・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった[5]明治10年(1877年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、明治19年(1886年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、明治23年(1890年)から修営された[5]。しかし現在では治定に否定的な見解も強い。

考証[編集]

上記のように『日本書紀』『古事記』において、倭彦命には殉死との関わりが記されている。日本における殉死習俗を知る他の記事としては、『魏志倭人伝卑弥呼死去の際に「奴婢百余人」の殉葬が見えるほか、『日本書紀大化2年(646年)3月25日条に殉死禁止の詔がある[1]

なお、『日本書紀』の伝承はあくまで「人物埴輪・形象埴輪の起源譚」であって、「埴輪全般(円筒埴輪含む)の起源譚」とはならない点が注意される[6]。考古学的にも、円筒埴輪は弥生時代の吉備地方で見られる特殊器台・特殊壺に淵源を持つ古い風習であるが、人物埴輪・形象埴輪は古墳時代中期から見られる風習になる(ただし前期にも人形土製品・石製品を墓に置く風習が稀に存在する)[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 倭彦命(古代氏族) & 2010年.
  2. ^ a b 『続日本紀』天応元年(781年)6月壬子(25日)条。
  3. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  4. ^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
  5. ^ a b c d 身狭桃花鳥坂墓(国史).
  6. ^ a b 森浩一 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 77-78。

参考文献[編集]

  • 石井茂輔「身狭桃花鳥坂墓」『国史大辞典吉川弘文館 
  • 「倭彦命」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]