友野霞舟

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友野 霞舟(ともの かしゅう、寛政3年(1791年) - 嘉永2年6月24日1849年8月12日))は、江戸時代後期の漢詩人。名は瑍、通称は雄助、字は子玉。霞舟または霞洲と号す。

経歴[編集]

寛政3年(1791年)に江戸で生まれる。井川東海ついで野村篁園に学び、昌平黌教授や甲府徽典館学頭を歴任する。嘉永2年(1849年)に没する。享年59。

逸話・交遊・作風[編集]

井川東海に教えを受けていた幼い時から英敏をもって知られ、詩文を口ずさむとたちまち章を為すというくらいだった[1]天然痘を患い高熱を出した時に文選の賦を譫言した逸話もある。博覧強記であり、質問されるとその答えはどの書物の何巻のどこにあるとまで指示できた。

林述斎古賀侗庵・野村篁園など昌平黌の関係者とともに官学派ともいうべき詩社をつくっていたらしく[2]、これらの詩人たちは貴族的で端正な詩風と生活態度で共通していた。

門人に川路聖謨浅野梅堂久貝蓼湾向山誠斎森田桂園などを数える。

無題
鴛衾暖透更怡融 鴛衾に暖透りて 更に怡融し,
墜枕銀釵慢髻鬆 枕より墜つる銀釵に 慢髻 鬆(ゆる)む。
睡裡依稀傳密語 睡裡 依稀(いき)として 密語を傳へ,
歡餘困頓坐春慵 歡餘 困頓として 春慵に坐す。
殘燈影暗宵分帳 殘燈 影は暗し 宵分の帳,
滴漏聲和月午鐘 滴漏 聲は和す 月午の鐘。
堪笑楚襄無福分 笑ふに堪へん 楚頃襄王の福分無く,
朝雲徒向夢中逢 朝雲に 徒らに 夢中に 向(お)いて逢ふ。

著書・編著[編集]

  • 『霞舟先生詩集』
  • 『錦天山房詩話』
  • 『煕朝詩薈』

参考文献[編集]

  • 川路聖謨『寧府紀事』
  • 浅野梅堂『寒檠璅綴』
  • 木村芥舟『黄粱一夢』

脚注[編集]

  1. ^ 浅野長祚『寒檠璅綴 巻之四』芸苑叢書、1919年、83p頁。 
  2. ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、117p頁。