居然亭

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居然亭(きょぜんてい)は、かつて京都岡崎に存在した第4代中井三郎兵衛により設けられた広大な別邸[1]

紙業(のちの、日本紙パルプ商事)で財を成した第4代中井三郎兵衛(慈眼)は、1906年(明治39年)に京都岡崎に居然亭と称する別邸を設けた[2]

もともと居然亭は、江戸時代後期の画家豪商で、和歌連歌茶道にもすぐれた世継寂窓(よつぎじゃくそう、不明 - 1843年[3]寛政年間頃に築いた別荘であった[2]。その後、この土地は、明治維新後の一時期に医者・漢学者であり桂宮令・宮内省官吏を勤めた宇田淵(うだえん)[4]の居宅となった[2]

中井家の所有地となったのは、明治30年代(1897年-1906年)である。世継寂窓から宇田淵に引き継がれた居然亭は、慈眼の取得後、どの程度残されたのか明らかではない。いわゆる中井氏居然亭については、建築を明治時代大正時代に活躍した数寄屋大工の上坂浅次郎[5]、庭を川崎熊三郎と7代小川治兵衛が手がけたと伝わる[2]。慈眼の伝記である『かたばみ草』には、1903年(明治39年)3月7日当該岡崎別荘の上棟式があり、同年の9月18日には「山縣公外八名岡崎別荘に御招待」したと記されている[2]。慈眼は政財界に留まらず、文化人仏僧など幅広い交友関係を築き、それらの人々を居然亭に招いて、茶事宴会法要などを催した[2]

居然亭は、1966年(昭和41年)に実業家らへ譲渡される際、分解され一部は除却された。その過程で、中根金作の助言などがあったことにより、部分的に現存しているという[2][1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 新指定・登録文化財 第32回京都市文化財”. www.city.kyoto.lg.jp. 2021年9月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 今江秀史「京都市指定名勝中井家の庭の築造過程と地割構造の解明」京都市文化財保護課研究紀要 第3号(2020年3月) 2021年9月閲覧
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「世継寂窓」の解説 2021年9月閲覧
  4. ^ 【年表】宇田淵の事績 2020.03.08 百瀬ちどりの楓宸百景 2021年9月閲覧
  5. ^ 紫織庵(しおりあん)京都通百科事典 2021年9月閲覧

関連項目[編集]