村瀬藤城

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村瀬藤城(むらせ とうじょう、寛政3年(1791年) - 嘉永6年9月3日1853年10月5日[1])は、江戸時代後期、美濃国出身の儒者漢詩人。名は褧、字は士錦。通称は平次郎。頼山陽門下の高弟で、郷里では私塾「梅花村舎」を開いて後進の育成に力を注ぎ、笑社(のちに真社と改名)[2]の社中であった江馬細香梁川星巌らと詩社「白鴎社」を結成した。次弟の立斎は尾張藩侍医(藩医)、末弟の秋水は頼山陽から詩文を学んだ文人画家として知られる。眷属に異色の文人・村瀬太乙がいる。

『二家対策』(嘉永5年(1852年)序刊)

略歴[編集]

寛政3年(1791年)、美濃国武儀郡上有知村(現在の岐阜県美濃市)の庄屋村瀬敬忠の長男として生まれる[3]

文化8年(1811年)2月、浪華へ遊学し、篠崎三島の梅花塾を訪れて、詩社「混沌社」に参加した。同年4月、上京して混沌社を訪れた頼山陽と邂逅して意気投合し、山陽の門人となる。『山陽藤城二家対策』は、この頃の師弟による学問的論策の結晶である[4]

文化10年(1813年)8月に上京。師の頼山陽に「観鳥鬼捕魚記」の一文を送って東遊を促した。同年10月、山陽が美濃へ遊歴し、善応寺に禅智和尚を訪ねた記事が『村瀬藤城日記』に記されている[5]

文政元年(1818年)、梁川星巖や江馬細香らと詩社「白鷗社」を結成。

文政2年(1819年)、藤城山麓一帯の地を購って一大梅林を造成し、その中に一草屋を建て、「梅花村舎」と名づける[6]。12月に妻もとが亡くなり、「悼亡絶句五首」を作る。

文政6年(1823年)、伊豆原麻谷が「白鴎社集会図」[7]を描く。画幅の本紙には柴山老山・梁川星巖・服部笙岳・塚原篁圃・石原東堤・村瀬藤城・梁川紅蘭・江馬細香・沢井樵歌・日比野草川・柏淵蛙亭の詩友11人が描かれ、本紙右肩には藤城によって「白鷗社集会図記」[8]が題された。

天保4年(1833年)3月に上京し、前年の9月に亡くなった頼山陽を弔い、その遺品「亦復一楽帖」を贈られる。

天保8年(1837年)6月、後妻せいが亡くなり、「亡妻墓碑銘文」を記して追慕した。この年、末弟の秋水が長崎に鉄翁祖門を訪ねている[9]

弘化2年(1845年)7月、梁川星巖が江戸より戻ってきたことを耳にし、曽根村に星巖を訪ね、その帰途、大垣の江馬細香・小原鉄心を訪ねた。この年、末弟の秋水が「古城山奉行」(山守り職)を命じられた。

嘉永2年(1849年)11月、前年に草した『宋詩合壁続篇』を出版。

嘉永3年(1850年)8月、大洪水が起こり、秋水とともに官倉および村瀬家の自倉を開いて難民を救済した。

嘉永4年(1851年)5月、次弟の立斎が亡くなり、7月、末弟の秋水と甥の雪峡を伴って比叡山へ出掛けた。8月24日に水西荘(頼山陽の旧居)にて梁川星巖・牧百峰・頼三樹三郎ら山陽旧知の社友を招き、山陽十七回忌追憶の宴を開いた。

嘉永6年(1853年)9月、城崎温泉へ赴く途次、病を得て、城崎の旅宿で没した。

書幅作品[編集]

  • 「清水寺七絶二首」詩書幅(文人画研究会蔵)
  • 「永観堂看荷」詩書幅(文人画研究会蔵)

詩稿[編集]

  • 以下の旧江馬家所蔵の詩稿が現存し、現在岐阜県歴史資料館に寄託されている[10]

「鴨岸酒間次韻」「軽陰微雪南邨路…」「戯客題五百羅漢」「鴨岸小集得詩字」「宿松森長徳院」「梦岳」「轎裏公然半日間…」「強捜百忙為一閑…」

著述[編集]

  • 村瀬耿・頼山陽撰・村瀬輗校『山陽藤城二家対策』2巻2冊(文人画研究会蔵)[11]
  • 戈守智撰・村瀬藤城校『漢渓書法通解』8巻6冊(文人画研究会蔵)[12]
  • 王漁洋・袁随園原撰/村瀬藤城校『宋詩合璧』2巻2冊(文人画研究会蔵)[13]
  • 王漁洋・袁随園原撰/村瀬藤城校『宋詩合璧続篇』2巻2冊(文人画研究会蔵)[14]
  • 頼襄子成評選/三野村瀬耿士錦校『古文典刑』巻上(文人画研究会蔵)[15]

参考文献[編集]

  • 林魁一編『藤城遺稿』(私家版 1927年)〔国会図書館蔵〕
  • 市原三三著『村瀬藤城と秋水』(美濃市教育委員会、昭和44年10月10日発行)
    • 村瀬藤城年譜
    • 村瀬家系譜
  • 美濃市編『美濃市史』通史篇(大洋社 昭和54年2月20日発行)
  • 岐阜県所在史料目録 第58集『江馬寿美子家文書目録』[16](岐阜県歴史資料館 2009)
  • 許永晝・森田聖子・小林詔子・市川尚編『笑社論集』(文人画研究会 2021年)

脚註[編集]

  1. ^ 村瀬藤城』 - コトバンク
  2. ^ 『笑社論集』(「笑社記」解説)参照。文人画研究会、2021年9月26日。
  3. ^ 翌年に次男の立斎、寛政6年(1794年)には三男の秋水が生まれている。
  4. ^ 『美濃市史』通史篇上巻603頁、『村瀬藤城と秋水』附録「村瀬藤城年譜」参照。
  5. ^ 『美濃市史』通史篇上巻604頁参照。
  6. ^ 『美濃市史』通史篇上巻608頁参照
  7. ^ 原画は水災で消失し、児玉石峰の摸写本が岐阜県大垣市の江馬家に現存する。
  8. ^ 「白鴎社集会図記」には「馬細香要雲林山人製白鷗社集会図 図成又徴余記之。蓋竪幅森列十有一人。居右者六人、其服古朴、其貌温偉、左顧而言、如有所計画将申約束、為菅太古。風神瀟灑、肆然而坐、髪黒如漆、双眸燭人、而如与太古相応答者、梁伯兎。長面而晢、簡静如無競者、為服生万。而豊、在人背後、如有所窺覧者、且喜揚眉者、冢士玉。疎眉朗目反膺高視、如雖和同而無阿附者、為石子周。右研墨、前書冊、手容太恭、如諄諄而談者、源士錦。与士錦対者三人、昂首而言于如相詰問者、為沢慎父。左袖拄頤、右手与左袖支持、立摺扇于膝上、如傾聴尋思者、為日士力。開巻注目、拳手打膝、如所発悟者為、柏純甫。並士錦少遠而坐者、両女子、不装珠翠、而有天然丰韻者、為梁氏室張月華、為女学士馬細香。而細較々清痩、細香求此図、要極肖其形。而山人亦為之苦思尽心、太古而下七人、皆袴摺短掛、唯子周不袴摺、伯兎被道衣、亦各描写本色也。雖然至十有一人之腹笥富有、口如懸河、文思詩情如江、如海者、則安悉之山人之筆哉。山人之筆不能悉者、吾文亦不能説也。文政六年、歳在癸未暮春之初、源絅士錦撰」と記される。
  9. ^ 『村瀬藤城と秋水』附録「村瀬藤城年譜」参照。
  10. ^ 岐阜県所在史料目録・第58集『江馬寿美子家文書目録』参照。
  11. ^ 文化8年(1811年)尺牘/嘉永5年(1852年)6巻月識後藤機序/明治4年(1871年)金邠序。原装和綴、寸法22.5×15.5cm。名古屋奎文閣慶雲堂版。
  12. ^ 文政6年(1823年)刊
  13. ^ 嘉永2年(1849年)刊本。菅茶山序・頼山陽序。
  14. ^ 嘉永2年(1849年)刊本。小坂観・村瀬立斎跋(村瀬秋水書)
  15. ^ 嘉永7年(1854年)刊本。『古文典刑三巻』のうち巻上のみ藤城が校閲している。
  16. ^ 但し、本目録には分類上の問題点が多く、書名や書誌にも誤記が散見するため、今後漢学研究者による実地踏査が必要と考えられる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]