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毛利宮吉丸

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毛利宮吉丸
時代 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正17年5月26日1589年7月8日[1][2]
戒名 清巌院浄巌幻了大居士[1][2]
墓所 洞雲寺広島県廿日市市佐方)
大乗寺山口県下関市長府金屋町
主君 毛利輝元
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:穂井田元清[1]
母:松渓妙寿村上通康の娘)[1]
兄弟 宮鶴丸[1]雪庭妙青細川元通室)[1]秀元宮吉丸天遊以貞熊谷直貞室)[1]生和順長阿曽沼元郷室、毛利元鎮室)[1]久嶽貞昌宍戸広匡室)[1]
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毛利 宮吉丸(もうり みやよしまる)は、安土桃山時代の人物。安芸国戦国大名毛利元就の四男である穂井田元清の三男[1]。母は来島村上氏当主・村上通康の娘である松渓妙寿[1]。兄に毛利宮鶴丸毛利秀元がいる[1]

生涯[編集]

穂井田元清の三男として生まれる[1]

天正17年(1589年5月26日安芸桜尾城において死去[1][3]。法名は「清巌院浄巌幻了大居士」[1][2][3]。宮吉丸は洞雲寺に葬られたが[1][3]、現在は墓の所在が不明となっている[3]

元和3年(1617年[注釈 1]、兄の毛利秀元長門国長府にあった浄土宗寺院である専称寺に宮吉丸の位牌を安置して菩提寺とし、24石6斗5升の寺領を寄進すると共に、宮吉丸の法名から寺名を「浄巌寺[注釈 2]と改称した[2][5][6][7]。なお、同寺の境内には宮吉丸のも建てられていた[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『山口縣風土誌』によると、宮吉丸の菩提寺として「浄巌寺」に改称されたのは寛永4年(1627年)とされる[4]
  2. ^ 浄巌寺は元々は開山の忠誉一得摂津国から下向して浄土宗の総本山である知恩院末寺の専称寺として永禄元年(1558年)に創建された寺院。明治3年(1870年)2月または明治5年(1872年)に「願海山不退院大乗寺」と改称されている[4][5]

出典[編集]

参考文献[編集]