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アメリカン航空191便墜落事故

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アメリカン航空 191便
事故現場
出来事の概要
日付 1979年5月25日
概要 不適切な整備によるエンジンの脱落
現場 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴオヘア国際空港
乗客数 258
乗員数 13
負傷者数 6(地上)
死者数 273(全員、地上2名を含む)
生存者数 0
機種 マクドネル・ダグラスDC-10-10
運用者 アメリカン航空(AA)
機体記号 N110AA
出発地 オヘア国際空港
目的地 ロサンゼルス国際空港
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アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくうひゃくきゅういちびんついらくじこ、英語: American Airlines Flight 191)とは、1979年5月25日アメリカ合衆国の航空会社であるアメリカン航空所属のDC-10が墜落した航空事故である。

事故当日のアメリカン航空191便

事故の概要

1974年に撮影された事故機

この日は金曜日で、晴天で視界もよく、航空機が飛行するには理想的な天候であった。アメリカン航空191便はオヘア国際空港の32R滑走路からアメリカ中部夏時間午後3時2分に離陸を開始した。

しかし離陸してすぐに左翼の第1エンジンがパイロンもろとも脱落、主翼の上を通過して滑走路上に転がった。191便は高度600フィート(約200メートル)まで上昇したが左翼から燃料の白煙を引きながら左に112度傾いた。コックピットから翼は見えないため、おそらく左エンジンの脱落を乗員は最期まで把握することはできなかったが、右に舵をとりつつエンジンパワー喪失時の緊急マニュアルに従い操作してこの状況から脱しようとした。一方、エンジン脱落の瞬間を目の当たりにした管制官は慌てた様子で、「あれを見ろ、あれを!(191便の)エンジンが吹き飛んだ! 手配だ、緊急着陸の手配だ! (Look at this! Look at this! He blew up an engine! Equipment! We need Equipment!)」と叫び、「アメリカン航空191便ヘビー[1]、引き返したいか、どの滑走路に着陸したいか? (American Air 191 Heavy, you wanna come back and to what runway?)」と尋ねたが応答はなかった。

通常エンジンを1機失った際、左右の推力差で機体がロールするのを防ぐため、ほかのエンジン推力を80%前後まで落とす。また、高度に余裕を持たせるため通常より早く上昇させる必要がある。しかし191便は左に傾き下降しはじめ、水平飛行ができなくなった。この時にアマチュア写真家が撮った写真には、左翼エンジンが外れた191便がほぼ直角に傾き墜落していく様子が写されていた[2]。この時の機体の高度はわずか高度325フィート(およそ107メートル)で、急速に降下し始めた。

離陸を始めてから34秒後の午後3時4分に4,600フィート離れた格納庫付近に墜落し、大爆発を起こした。機体は原形をとどめないほど破壊され、現場には犠牲者の遺体の一部が散乱していた。この事故で191便に搭乗していた271名全員と地上にいた2名(整備士)が死亡、2名が重傷を負った。本件事故での死者数は1978年9月に起きたパシフィックサウスウエスト航空182便墜落事故の数字を上回り、2001年アメリカ同時多発テロに伴う旅客機による自爆テロを除けば、アメリカ民間航空史上最悪の数字である。

事故原因

191便の残骸を調査する事故調査官

本件事故以前にDC-10には貨物ドアの設計ミスから墜落する事故を起こした前例があった(詳細はトルコ航空DC-10パリ墜落事故を参照)。

事故発生の直後に行われたパイロン(継ぎ手)の緊急検査で複数の機体に亀裂が生じていることが判明した。そのため、機体の欠陥によって再びこのような大惨事を起こしたと見なされ、アメリカ連邦航空局はDC-10の耐空証明(自動車の車検に相当)の効力を一時停止したことから、アメリカ国籍の全てのDC-10は地上待機を余儀なくされた。また、他の国の航空当局も追随して同様の処置を執ったため全世界のDC-10が運航停止となり、日本航空をはじめとするDC-10を運用している他国の航空会社にも影響が波及し、大きな経済的損失を与えた。

パイロンの亀裂

事故の引きがねになったDC-10のエンジンとパイロン構造

事故機から外れて滑走路上に遺された第一エンジンを調査した結果、パイロンのバルクヘッドに通常では起こりえない亀裂が生じ、離陸時のわずかな衝撃でバルクヘッドが破損し、エンジンが脱落したことが判明した。そして、バルクヘッドの亀裂は、マニュアルから逸脱した整備方法に起因していたことが明らかになった。このマニュアルから逸脱した整備方法は経済性向上のために導入されたもので、緊急点検の際に事故調査官がその作業手順を目の当たりにしたことで発覚した。

マニュアルに記載されたエンジンの正しいオーバーホール手順では、専用の整備器具を用意した上でエンジンと主翼を連結している給油ホースや電気系統ケーブルをパイロン附近で分離し、エンジンを外してからパイロンを取り外さなければならない。191便を整備していた航空会社では、この過程を省略することで作業効率の向上を狙い、フォークリフトで下からエンジンを支え、パイロンとエンジンを分離せぬままに両者を翼から外していた。パイロンからエンジンをはずすためには200箇所近い固定部分をはずさなくてはならなかったが、パイロンはボルト3本だけで翼に固定されているため、パイロンごと取り外すと大幅に時間が削減できた。

取り外し作業こそ問題がなかったものの、取り付ける際にはエンジンとパイロンで合計7トンもあるためフォークリフトで持ち上げるしかなかった。しかしフォークリフトは1センチメートル程度の操作が限界であり、運転手からは見えないため別の作業者が位置や高さを指示していた。また、クレバスと呼ばれる翼側の固定部の間にパイロンのバルクヘッドを入れる際、上昇させすぎてクレバスの先端がバルクヘッドに接触することがあった。

事故機も墜落の8週間前にエンジンの取り付けを行っており、このときに亀裂が生じたと推測された。エンジンは前後に推進力とその反作用を生み出すだけではなく左右にも揺れるため、亀裂が徐々に広がり、191便として離陸した瞬間に限界に達した。その後の調査でこのような亀裂は、同様の整備方法を採っていたアメリカン航空と他の航空会社1社の複数のDC-10にもあったことが判明した。また、同じ方法で整備を行っていた別の航空会社(コンチネンタル航空)でも同様の事象が見られ、本件事故発生前の時期にマニュアルに則った方法で修理がなされていた。この整備方法を考案したオヘア空港の整備担当主任は事故調査委員会での証言直前に自宅で自殺している[3]

エンジン喪失に伴う機能停止

事故機は墜落のおよそ50秒前に2つのブラックボックスの記録が終わっていた。これはブラックボックスの電力が第一エンジンから供給されていたからである。コックピットボイスレコーダーに最後に記録されていたのは大きな音(エンジンが脱落した際の音と思われる)と、副操縦士の発した「クソッ! ("Damn!")」という言葉だった。管制官はエンジン脱落の際、パイロットに無線で空港に引き返すかどうかを尋ねているが、応答はなかった。その後の調査で無線システムにも機能不全が起こった可能性が示唆されている。

電力が絶たれ、機能を停止したのはブラックボックスと無線システムだけではなかった。第一エンジンから電力を得ていた失速警報装置スラット不一致センサーも機能停止した。パイロットはエンジン停止時のマニュアルに従い機体を上昇させ、まず高度を確保しようとした。これは通常通りの操作だったが、事故機はエンジン脱落の際に左翼の油圧配管が損傷し油圧が抜けたため、右側のスラットはすべて出ていたが、左主翼のスラットはエンジンから外側のスラットが格納されてしまった。このため左翼の揚力が急減少し、機体は左にロールした。さらに揚力が減ったため通常の上昇速度でも失速する状態になっていた。

しかし失速警報装置とスラット不一致センサーが止まっていたため、パイロットはエンジンパワーをあげることなく操縦桿を必死に右に傾け、機体を上昇させようとした。

後のフライトシミュレーションによる検証では、このような状況下であっても失速警報が機能していれば、パイロットは警報が鳴った時点で失速からの回復動作を行い上昇すれば安全に離陸でき、そのうえ無事に緊急着陸できたことが判明した。しかし、これは本件事故の事例分析から導き出された結論であり、事故に関して191便の操縦乗員に一切の責任は無い[4]

事故への対策

この事故を招いた原因は、経済効率第一主義の航空会社の不適切な整備方法(本件事故発生以降はマニュアル通りの整備作業手順に戻された)であったが、それを見逃した航空当局と製造メーカーも非難された。また、DC-10の翼前面の高揚力装置が再び離陸中に格納されないようにするため、油圧配管にバルブを設置し油圧が抜けないような処置がとられた。そして、失速警報やブラックボックスなどの重要な装置の電源は、必ず複数の電力系統から得ることを義務付けられた。

備考

  • 前述の耐空証明の効力停止は7月11日には解除されたが、事故を理由にこのような措置を取られたのは西側ではデハビランド コメット(原因は胴体の強度不足)以来の事態であった。世界各国のDC-10の運航乗員の多くは地上待機を強いられた。
  • 日本の運輸省(当時)もアメリカの措置の翌日の6月7日に耐空証明を取り消したが、当時ニューヨークから東京に向かっていた日本航空のDC-10(機体記号:JA8534)は経由地のアンカレッジで飛行停止に追い込まれた。そのため、日本航空は運航基地の成田国際空港へ回送するため、アメリカの航空当局から既に航空機とは見なされていないDC-10の片道回送飛行の許可を超法規的措置で受け、6月10日に日本へ帰国した。

脚注

  1. ^ 後方乱気流の影響を避けるため、最大離陸重量が30万ポンド以上の航空機においてコールサインの後に必ずつける専門用語
  2. ^ en:American_Airlines_Flight_191
  3. ^ アメリカ人の引責自殺は極めて稀である。
  4. ^ 実際、シミュレーターで事故機と同じ状況(失速警報不作動)でパイロットに操縦させたところ、事故機と同じように墜落した。

関連項目

外部リンク