磯部村清太夫

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磯部村 清太夫(いそべむら せいだゆう、生年不明 - 寛延3年2月2日1750年3月9日〉)は、江戸時代中期の一揆指導者[1]

経歴・人物[編集]

常陸国茨城郡笠間藩領磯部村(のち茨城県西茨城郡岩瀬町、現在の茨城県桜川市)の名主神主[2]。凶作に対する年貢減免や領主の定免制採用に反対し、亀岡村太郎左衛門と共に山外郷村々百姓に呼びかけ、寛延2年(1749年)11月13日に大岡原で集会を行い、翌日30ヵ村の農民約1000人と共に笠間城下へ押しかけた[2]。これを笠間藩山外郷一揆または山外郷一揆と呼ぶ。藩は一旦要求をのんだが、のちにこれを破棄して指導者らを逮捕した[2]。清太夫と太郎左衛門を獄門、富谷村佐太郎を死罪としたほか多数処罰された[2]。のち清太夫は義民地蔵としてまつられる[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『磯部村清太夫』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『磯部村清太夫』 - コトバンク