茨城・徳宿村精米業一家殺害事件

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茨城・徳宿村精米業一家殺害事件
場所 日本の旗 日本茨城県鹿島郡徳宿村(現・鉾田市
日付 1954年昭和29年)10月10日
20時前後(被害者9人の死亡推定時刻)[1] (UTC+9)
攻撃側人数 1人
武器 青酸性毒物[1]
死亡者 9人
被害者 農業兼精米業者の男性(当時42歳)ら9人[2]
損害 茅葺屋根の居宅(82.5 m2)を全焼、牛小屋を半焼[3]
犯人 男M
対処 犯人Mを逮捕(Mは直後に自殺
刑事訴訟 被疑者死亡のため不起訴処分
管轄 茨城県警察刑事部鉾田警察署[4]
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茨城・徳宿村精米業一家殺害事件(いばらき・とくしゅくむらせいまいぎょういっかさつがいじけん)は、1954年昭和29年)10月10日茨城県鹿島郡徳宿村(現:鉾田市)で起きた強盗殺人事件である。犯人は最終的に自殺した。

事件当時、地元集落には「帝銀事件の蒸し返し」として衝撃が走った[5]

概要[編集]

事件現場は茨城県鹿島郡徳宿村舟地にあった農業兼精米業の男性A1(当時42歳)宅で、死亡した被害者はA1と妻A2(当時40歳)、A1の父親A3(同70歳)、A1・A2夫婦の長男A4(同20歳)・次男A5(同17歳)・長女A6(同12歳)・三男A7(同7歳)・四男A8(同8歳)、そして女中B(同18歳)の9人家族である[6]。1954年10月11日3時ごろに現場の住宅から出火し、住宅や勝手場32坪が全焼、牛小屋4坪も半焼した[6]。焼け跡から被害者9人の死体が発見されたが、茨城県警察本部と鉾田警察署は雨戸が閉まっていた点や避難した様子がないことから、放火による一家心中もしくは何者かが一家を皆殺しにした上で放火したものと見て捜査した[6]。9人の死体は司法解剖に付され[6]、BとA1の遺体の胃の内容物からそれぞれ青酸反応が検出された[7][8]。捜査の結果、「白衣の怪人」の関与が疑われ、毒殺放火容疑に切り替える。その中である男(以下M)が浮かび上がった。

最終的にMは2重底の仁丹ケースに入れていた青酸カリで自殺した。

関連書籍[編集]

  • 毎日新聞社メディア編成本部「殺人 > 大量殺人事件」『毎日新聞戦後の重大事件早見表』(改訂新版)毎日新聞社、1991年6月10日(原著1987年5月10日)、197頁。ISBN 978-4620307947NCID BN06312555国立国会図書館書誌ID:000002362473全国書誌番号:95008094。"29・10・11 茨城の一家9人殺害事件"。 

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 茨城県警察史 1976, p. 1008.
  2. ^ 茨城県警察史 1976, pp. 1006–1007.
  3. ^ 茨城県警察史 1976, p. 1006.
  4. ^ 茨城県警察史 1976, p. 1007.
  5. ^ 斎藤充功 2014, p. 84.
  6. ^ a b c d 朝日新聞』1954年10月11日東京夕刊第3版3頁「【水戸発】茨城県で富農の不審火 焼跡から七死体 一家九人焼死か」(朝日新聞東京本社
  7. ^ 読売新聞』1954年10月13日東京夕刊第4版3頁「【水戸発】茨城の一家九人焼死 毒殺と断定」(読売新聞東京本社
  8. ^ 『読売新聞』1954年10月14日東京朝刊第14版7頁「【水戸発】茨城の一家九人殺し 父親からも青酸検出」(読売新聞東京本社)

参考文献[編集]

関連項目[編集]