蕭文妃

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蕭文妃(しょうぶんひ、? - 1121年)は、天祚帝(耶律延禧)の。小字は瑟瑟

経歴[編集]

国舅大父房の末裔にあたる。乾統初年、天祚帝が耶律撻葛里(文妃の姉の夫)の屋敷に行幸したときに見出されて、宮中に数カ月のあいだ隠された。皇太叔の耶律和魯斡が天祚帝に婚姻を勧めたため、正式に宮中に入った。乾統3年(1103年)冬、文妃に冊立された。蜀国公主耶律余里衍[1]と晋王耶律敖盧斡を生み、天祚帝に最も寵愛された。柴冊の礼において、承翼の号を加えられた。

文妃は歌や詩を得意とした。遼はの圧迫を受けるようになったが、天祚帝は狩猟にうつつを抜かし、忠臣の多くが排斥された。文妃は歌を作って風刺し、皇帝を諫めてその怒りを買った。

文妃の子の晋王敖盧斡は賢明で知られ、人望も厚かった。保大元年(1121年)、蕭元妃の兄の蕭奉先は、敖盧斡の人望が秦王耶律定擁立のための障害になるとみなして、「南軍都統耶律余睹(文妃の妹の夫)が晋王敖盧斡の擁立を謀っている」と誣告した。文妃は敖盧斡擁立の共謀者とされ、謀逆罪で賜死となった。

伝記資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 金の皇族斡離不の側室になった。