騎馬民族
騎馬民族(きばみんぞく)は、馬を移動手段として用いる民族であり、遊牧民の騎馬民族、狩猟民の騎馬民族、農耕民の騎馬民族など、その生業はさまざまである[1]。馬を多数飼養し、騎乗による機動力を自分たちの日常的な生産活動から交易を含む対外活動に至るまで利用し[2]、騎馬戦術を用いて農耕地帯に進出、略奪ないし征服をおこない、また、そこに移住した民族をまとめた呼称である[3]。本来的にはユーラシア大陸中央部のステップの遊牧騎馬民族または騎馬遊牧民族のことを称し[2]、かれらは草原(ステップ)に適応した生活を送っていた。
概略[編集]
騎馬民族には、ユーラシア内陸部の乾燥地帯を中心に活躍した遊牧民系の騎馬民族と、元来は乾燥地帯と森林地帯もしくは農耕地帯とが隣接する一帯で牧畜、農耕、狩猟にたずさわっていた非遊牧民系の騎馬民族がある[3]。
遊牧民系の騎馬民族には、西方においてはスキタイ、サルマタイ、パルティア、アヴァール、ハザールなどの諸民族、東方にあっては、匈奴、柔然、突厥、ウイグル、契丹、モンゴル、ジュンガルといった民族がある[3]。一方、非遊牧民系は、東方の烏桓、鮮卑、夫余、女真、満洲族などである[3]。非遊牧民系の騎馬民族も、多くの場合、隣接した遊牧民系騎馬民族の影響を受けて騎馬民族化したものと考えられる[3]。
騎馬民族は必然的に馬術に優れ、騎兵としての軍事能力が高かったため、かつて中央ユーラシアを席巻したが、現在では純粋な騎馬民族はほとんどいない。人種はスキタイ系などがコーカソイド、モンゴル高原(アルタイ山脈付近)からカザフステップ(ウラル山脈付近)を原郷とするウラル・アルタイ語族がモンゴロイド(新モンゴロイド)とするのがおおよその定義である。彼らは農業と遊牧を両立した民族であり、現在の中国には遊牧民の数が少ないが、歴史的に遊牧や農業を両立した民族の人口は農業をやってきた民族と人口の差はなかった。
なお、三品彰英は、馬を知らなかった北アメリカの先住民が、やがてスペイン人のもたらした馬を受容して有力な騎馬民族になった事例を紹介している[4]。
騎馬民族の例[編集]
- インド・ヨーロッパ系民族 - クルガン文化を担い、東欧・ウクライナ草原が原郷。
- アルタイ系民族
- ウラル系民族
- シナ・チベット系民族
学説[編集]
- 騎馬民族征服王朝説 - 江上波夫が唱えた説。東北ユーラシア系の騎馬民族が南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという仮説。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡内三眞「「騎馬民族征服王朝説」の問題点」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 哲学・史学編』第40巻、早稲田大学大学院文学研究科、1994年、41-58頁。
- 佐原真『考古学千夜一夜』小学館、1993年7月。ISBN 4-09-626054-1。