Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140528

利用者:みしまるもも会話 / 投稿記録 / 記録さんの議論姿勢について、みなさんにコメントを依頼します。--Nazox会話2014年5月28日 (水) 11:51 (UTC)[返信]

これまでの経緯[編集]

まずはじめに、みしまるももさんは、私の過去の編集を「中立的でなく正当性に疑問がある」と批判しました[1]。私は、自分の編集が正当であると信じていますので、この批判に対して、どの部分が不当であると思われるのかと質問を返しました[2]

以降、パチンコのノートにて、みしまるももさんと私とのほぼ2人だけの間で議論が交わされるようになります。詳細はそちらを通してご覧いただくのが最も良いのですが、かなり長引いていますので、以下に(かなり大雑把に)ダイジェストいたします。

  • 当初、みしまるももさんは、私が削除した部分を、「出典が付いており削除の必要はなかったのではないか」と述べられます。しかし、そこで問題となっているテーマを正しく論じるには、特定の法律に関する知見を要するのですが、みしまるももさんのその時の主張は、その知見を殆ど持たない人に頻繁に見られる誤った認識に基づくものだったので、私は、それらの「出典」は内容に正当性がなく出典として不適切なものであることを説明したのですが、みしまるももさんは素直に聞き入れてくれません。ここから、問題が拡大して行きます。
  • 次にみしまるももさんは、反論の根拠を「共産党の議員が国会でパチンコ問題を追及している」と言う事実に移して来ます[3]。そしてみしまるももさんは、その国会で行われたやり取りの内容をおそらく良く読まずに、「これも『パチンコの合法性の疑問』の根拠になり得る」と主張します。これに対し私は、提示された国会の記録を読んでもパチンコの合法性に関する追及はどこにもされておらず、「合法性の疑問」の論拠になる部分はないと説明しました[4]
  • しかし、みしまるももさんは私の説明に納得せず、強引なこじつけを展開して出典になると言い続け[5]、更に「批判的な見方が社会的にあること自体まで、早急に削除してしまうのは『中立的観点』から違反したことだと思います」と主張されます。
  • これに対して私は、あなたの牽強付会な論理立ての誤謬は既に指摘済みである。ただし、「批判的な見方を記述する」ことについては、誰かが中立的な内容に適正に修正するなら、譲歩して削除にはこだわらない」とお答えしました[6]
  • その後もみしまるももさんは、新たな根拠を出さずに同じ主張を言い続ける、「いつまでも納得しない利用者」の態度を続け、それに対して私が反論するということが繰り返されます[7][8]
  • その挙句、「いつまで続けていても平行線である」として、議論途中でいきなり「終結へ」というサブセクションを作り、殆ど合意らしい合意もない状態で強引に議論を収束させようとしているのが現在の状況です。

依頼者コメント[編集]

私は、今回のみしまるももさんの議論姿勢に、以下の問題を感じました。

  1. 客観的な根拠を提示せず、主観だけを根拠に自分は間違っていないと言い張る。
  2. そのテーマに知見のある者の説明でも、意に沿わないものは頑として受け入れようとしない。
  3. ソースに書かれていないことでも、三段論法的な飛躍で都合の良い解釈をする。
  4. 反論を受けても、新しい根拠を提示することなく同じ主張を繰り返す。
  5. 説明を受けてもいつまでも納得せず、同じ主張を繰り返す。
  6. 自分の正当性の主張は激しいが、自分から歩み寄る様子は全くない。
  7. 誤りを指摘されても決して非を認めない。
  8. 文章を冷静に読解することができず、支離滅裂な主張や反論をすることがある。
  9. 「ちょっと思ったことを言っただけ」として、他人の編集を批判する事の重大性を認識していない。
  10. 他人の編集を牽強付会と中傷し、その根拠を質問されても無視して答えない。
  11. 主張が通らないと見ると、「平行線を辿るだけ(つまり、自分の主張は絶対に変えないと言っている)」と言って一方的に議論の終結を宣言し、これを対話の拒否であると批判すると、ルールの悪用であると責任を転嫁する。

しかし、みしまるももさん本人に、これらが問題のある態度であるとの認識はありません。

実は、今回の衝突以前に、みしまるももさんとは半年ほど前に多少やり取りがあり、私はその時点で既に、みしまるももさんの、(しばしば長文を以て)自分の正当性を言い募り、殆ど非を認めないその議論姿勢には問題を感じておりました。しかし、その時の私はみしまるももさんと直接対立していたわけではなかったので、「みしまるももさんの議論姿勢では第三者の理解を得ることは難しいと思う」と数回忠告するに留めていたのですが、それでもみしまるももさんの態度は改まるどころかむしろ悪化しているようにも見えたので、あるとき、「私はそろそろあなたがコミュニティを疲弊させるユーザーに見えてきている」と最後の忠告をして、以降は接触を断っていました。しかし今回、みしまるももさんは、無期限ブロックされた他の利用者を擁護するという目的のために、自身はろくに知見を持たないテーマの問題について私の編集を難じてきたため、私としては自身を守るために応じざるを得なくなり、そして現在、私がかねてより危惧していた通り、みしまるももさんの議論態度が他者を著しく消耗疲弊させるものであることを身を以て実感しているところです。そこで、自分の非を一切認めようとしないみしまるももさんに、自身の問題点を認識していただくために、広く皆さんのコメントを求めるものです。どうか皆さん、よろしくお願いいたします。

みしまるももさんのコメント[編集]

頭痛さんへ[編集]

まず鍵括弧の件で、私が、「客観的に検証できるような根拠」を示していないと頭痛さんは言っていますが、私は何度も具体例(新潮文庫、別冊太陽、その他多くの事例)を示して、その中身についても具体的に言及しています。頭痛さんが、このように私の主張を第三者に伝える際に、なぜそのような嘘を言うのか、私はいつも不思議に思います。ご自分の主張に対して、「客観的に検証できるような根拠」を示すことができなかったのは、頭痛さんの方ではないですか? 頭痛さんが示した凡例も、「単行本書籍なったか否かの基準」であり、「長短基準で区別」ではありません。

そして頭痛さんは、ガイドライン改訂に向けての話し合いを、仲介の方や私の意向を無視して勝手に終了宣言してしまいました。頭痛さんは、自分が短編を一貫して「」なるのが自然だと主張していたのは、「単行本書籍なったか否かの収録関係」を踏まえての主張であったと、「今ごろになって」、最後のまとめをしていますが、それは明白な嘘です。頭痛さんは井戸端で以下のように明言していました。

  • 「現状のガイドラインの文言が収録関係に限らないことはすでに説明したとおりです」

頭痛さんが、収録関係に限らずに、「長短で区別する」という考えを優先し、雑誌収録の関係上でも、(「短編小説」『連載(掲載)雑誌』、『長編小説』『連載(掲載)雑誌』)と並べてしまうことを独り決めしていたことは、「単行本書籍なったか否かの収録関係」を踏まえていないことの証明になっています。なぜなら、雑誌掲載時に「単行本書籍刊行」されているはずがないからです。

他にも、私やuaaさんが出した改訂案に対して、「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」以外にメリットがないと頭痛さんは発言していましたが、これも「単に長短で区別するという意味」でなかったならば、「中間的なものだけ」に特別に迷うはずはなく、「中編小説はどうなるのだ」という問いにも、すぐに答えられたはずです。井戸端のノートで、頭痛さんはようやく中編小説『二流の人』に触れましたが、その返答内容は、初刊刊行で単行本であっても、その後の二次刊行ではほとんど、複数収録を伴っているから、「」表記だと言い、そのような「予備知識」がなくても、「文庫本で100ページ程」の長さは、作品集で刊行されることが多いから、「単に作品としてなら普通は作品集にはいる長さのものとして「」でくくると考えることができる」という、発想でした。

私はこれを聞いて、頭痛さんが結局のところは、「文庫本で100ページ程」の長さを基準にして考えているにすぎないことが解って驚きました。なぜなら、「単行本書籍なったか否かの収録関係」で表記分けを、常に念頭において行なっている稀なケースでも、二次出版(文庫)など念頭においていませんし、ましてや「作品の長短(文庫本で100ページ)」など基準にしていないからです。このような表記方法の事例では、長編の「十日の菊」は初刊単行本刊行されていないため、「」表記でした。これはある意味、刊行の歴史的事実を表わす表記になっていますので、頭痛さんのように「なりうる長さ」などと勝手な「想定」すること自体が、刊行事実と反するので、この表記を常にする場合でも、その意義さえなくなってしまうため、頭痛さんの考えはおかしいのです。

この表記問題に関しては、私の分野ですので、私も多く頭痛さんの議論姿勢について多いに疑問がありますから、以下の内容も第三者の方はよく参照お願いいたします。 [9]Wikipedia‐ノート:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について#改定案の具体例Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも#頭痛さんのコメントを受けて

次に、作品解説者の文言を記述する際のことですが、私には、その人の言葉をなるべく、その意味することを壊さないように伝えたいという思いがありますので、なるべく省いたりしたくないという思いと、簡潔にすると称しながら意味が変ってしまったり、独自研究になるようなことはしたくないという思いが強いので、頭痛さんのご指摘のように、あまり自分の言葉で言い換えができていないところもまだあり、至らない点もありますので、その記述が違反に抵触するというのならば直します。ただ、私なりにきちんと纏めて自信があるものも多くありますので、改善されているところにも目を向けていただきたいと思います。

ゼーロンのあらすじに関しては、元の記述をなるべく生かした部分があり、そこを生かしつつも、一応全体的には私のまとめ方で十分検討して書いていますので、特に問題のないものと自負しています。それと「作品の長さ」と「あらすじ」は必ずしも正比例しません。短い作品でも場面転換が多く、主題に関する重要ポイントが多ければ、おのずからあらすじに書いておいた方がいい場面も増えますので、短絡的に、短編だからあらすじを削っていいというものではありません。あとで後述する作品評価のところとも関連して、おさえておいた方がいい場面もありますので、私はそういうことを考慮してあらすじを書いています。

解説の引用のことについては、Wikipedia:コメント依頼/みしまるももでも、いろいろと頭痛さんに指摘されましたが、頭痛さんにも多く批判がなされています。私はそこでも言いましたが、私には、そのように人に「完璧性」を求める頭痛さんの姿勢そのものや、私よりもずっと長く活動されていて、他者には様々なクレームをつけるのに、なぜ日本文学の作品はほとんど立項なさらず、大幅加筆もしないのかよく分からないということです。また、私はその評論家の名前も付け、出典明記していますので、頭痛さんが私に対して、「剽窃」呼ばわりしたことは法律的に間違いですので、そのことで何の謝罪もなかったのはとても残念でした。

そして、そのコメント内で、頭痛さんがお手本として示したまとめ方も、元の意味と違ってしまう致命的な「誤読」がありましたので、失礼ながら見本にはなりませんでした。その直後に頭痛さんが立項された夜長姫と耳男についても、疑問的がありました。このことはノートその他で詳細に言及したので、改めてはここでは多く言いませんが、私には複数の評論家の解説を「自分の言葉でまとめる」と称しながら、合成して混ぜるのは、「独自研究」に傾きつつあると思いました。なので、坂口安吾は私の好きな作家でもあるので、頭痛さんにもそういったことを注意してもらいたいと思います。

ここで何人かの方に指摘された点など、私にも悪いことは多くありますが、こと頭痛さんに関しては、私が直接これまで何度も接してきて思うことも多くあります。頭痛さんは「論理」と自負しながらも、表記のことで顕著なように、一般的に通用しないような根拠の薄い「独自見解」に拘り続けるところがあると思います。もちろん私の議論姿勢も、正当性を主張しすぎる悪いところもあり反省すべきものもあります。そしてそのせいで、頭痛さんが頑なになり、私への憎しみになってしまったこともあるかと思いますので、その点は謝罪いたします。ここは私へのコメント依頼ですが、やはり頭痛さんの議論に関しては、かなりおかしな矛盾点があるので、気分を害されることもあるかもしれませんが、私も頭痛さんへのコメントをさせていただきました。--みしまるもも会話) 2014年7月1日 (火) 04:42 (UTC)--みしまるもも会話2014年7月1日 (火) 09:04 (UTC)[返信]


あともう一点言いたいのですが、私は確かに議論や依頼系では、皆さんにご迷惑をおかけしたことも多かったとは思いますが、こと日本文学の記事執筆に関しては、いままで貢献したことはあっても、頭痛さんにそこまで言われるほど、断罪されるような品質の悪いものは書いたことはありません。頭痛さんが指摘されるように引用部分が多かったりした部分もありますが、虚偽記載も独自研究もしたことはありませんし、初出情報も正確に調べており、その作品の基本的なことは十分に網羅したものを作成しています。こんなことは自分ではあまり言いたくはありませんが、頭痛さんがそこまで私に対して酷い言葉を投げつけ、Wikipediaの執筆から追い出したいと考えているというのであれば、私もきちんと自分のこれまでの貢献を主張したいと思います。

私がここに来るまでの日本文学分野の荒廃ぶりは、それは酷いもので、私が大幅改稿して、あらすじなどにも自信を持っている「金閣寺 (小説)」などは、三島由紀夫の代表作なのに、主人公の名前さえもでたらめで(溝口が、実際の放火犯の養賢となっていた)、独自研究もありました([10])。他にも、堀辰雄の作品は一作もなく(風立ちぬ (小説)もない)、川端康成の伊豆の踊子でさえも酷い有様でした([11])。私は誰も日本文学記事を書く人がいないのかと思い、微力ながらも日本版Wikipediaの最低限のラインのために頑張ってきたつもりです。

頭痛さんは、このように酷い過疎地帯であった日本文学分野を長年放っておいたままで、ほとんど何も日本近代文学の記事立項にはタッチしてはいませんでした。なので、それらの記事を最低限でも充実してきた私の貢献度には全く目を向けずに、なぜ私をそこまで追い出したいのか、私にはよく分かりません。たしかに引用のことは私にも落ち度はありますが、私のこれまで2年間弱の努力をすべて無にするような、出て行けとばかりの、このような扱いは、ちょっと個人攻撃で酷いと思います。議論系や依頼系から手を引けという話ならば、まだ分かりますが、こと日本文学記事の執筆に関しては、頭痛さんにそこまで言われたくはありません。--みしまるもも会話2014年7月1日 (火) 11:22 (UTC)[返信]

頭痛さんへ2[編集]

ゼーロンの登場人物の節まで、「消せ」というのはいくらなんでも、おかしいのではないですか。私は一応私なりに、それぞれ短く整理してブラッシュアップしました。方針を見ても、「節」までなくさなければいけないという「拘束力」のある厳格なルールなどないと思いますが。なぜ、そのような強制をするのでしょうか? --みしまるもも会話2014年7月2日 (水) 12:33 (UTC)[返信]

みっちさんへ[編集]

表記の件は、私は「主観的な感覚」や、差し戻された反発で言ったわけではありません。多くの解説文や年譜や全集書誌などが行っている表記の「客観的な」事実として言っています。何故、みっちさんはいつもそういうふうに、頭痛さんに「肩入れ」したコメントをするのか私にはよく分かりません。きちんと中立的な判断をお願いします。

小説の表記を「作品の長短基準」で表記分けすることがないことは、私以外にも書誌の分野に詳しい方が、小説の表記分けが「作品の長さとは何の関係もない」ことを、「表記ガイドの過去ログ」の話し合いの中で、はっきりと指摘しています(『 』と「 」の使い分けに関して、短編か長編か、ということは何ら意味がありません。)。そして、他の過去ログでも、「作品の長短基準」の区別など、誰も想定していません。

私はきちんと小説の表記上の客観的根拠や文献の事実を踏まえて議論していましたので、私が単なる「感覚」で言っていたなどというのであれば、きちんと小説の表記のことを調べた上での、コメントをお願いいたします。

解説文の引用の件については、私もみっちさんと同じようなジレンマがありますので、利用者:みっち/記事の書き方を是非参考にさせていただきます。親切なアドバイスどうもありがとうございました。--みしまるもも会話) 2014年7月2日 (水) 01:13 (UTC)--みしまるもも会話2014年7月2日 (水) 01:24 (UTC)[返信]

頭痛さん、みっちさんらに対するこれらのような、本依頼とは直接関係ない議論はここでは控えてください。どうしても何か言いたいのであれば、私がKs aka 98さんのコメントに対して行ったように、ノートでやってください。みしまるももさんは、以前より不適切な場所で論を展開するという問題を指摘されているはずなのに、全然改善されてませんね。--Nazox会話2014年7月2日 (水) 16:13 (UTC)[返信]

Nazoxさん、ikedat76さん、はじめ皆さんへのコメント[編集]

まず、パチンコについてですが、第三者の意見を求める「議題」へのコメント依頼を出すことを、私は二度(Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも# Nazoxさんへのコメント利用者‐会話:みしまるもも#コメント依頼提出のお知らせ)、Nazoxさんに伝えて、できればそうしたかったのですが、その前にここが解除される事態となってしまったことが残念でした。それも私にも原因がありますので、仕方がありませんが、パチンコについての第三者的ご意見は、Ks aka 98さんから寄せられたので、一安心しましたので感謝いたします。

その中で、「見解の余地のあるもの」とされ、合法性と併記して載せれば、サイゾーや産経新聞は情報源になりうる余地がある、ということでした。ただし、そこで指摘されたように、私が『パチンコ無間道』が出典になるうることを強弁したことなど反省すべき点であり、NazoxさんはNazoxさんのご判断でその時に対処したことも、編集範囲内のことだと、私なりに思い至りました。そして、私よりもお詳しいNazoxさんへの敬意や、お考えへの尊重が欠けていた点も悪かったと思います。申し訳ありませんでした。こちらでのコメントも撤回することにいたします([12])。

万能細胞の件では、私は自分の複数の出典に自信を持っていたので、相手の方(私へのコメント依頼を出したT6n8さん)の解釈の仕方や、誤読や間違いを強く非難しすぎて、感情的もつれを生んでしまい、それに伴って相互不信となり、議論の相互理解がスムーズにいかなくなったこと、私の方にも専門的な基本知識不足もあったことなど反省すべき点でした。今読み返すと、感情的な自分のコメントも見られ、Ksさんにも失礼なことを言っていたことも謝罪いたします。

また依頼系でのことについてですが、「ikedat76のことが気に入らないから」、反対票を入れていたということはありません。私自身はikedat76さんには何の他意もありません。これは本当のことです。確かに私はChichiiiさんやShigeru-a24さんに好感を持っていますので、その方たちが苦境に立たされていた時、なんとか援護してあげたかった気持ちがあり、それが上のパチンコや万能細胞への発端になったことも否めません。Shigeru-a24さんはS.Noueさんから執拗に絡まれていたため、万能細胞の編集に行った経緯があります。この点はバイアスがあったと思います。

ただし、その方たちのブロック反対票が「ikedat76さんへの反発」が元にあったということは全くありません。私はむしろikedat76さんは好きな利用者さんでした。それはなぜかというと、ikedat76さんは、以前にWikipedia:コメント依頼/みしまるももの中で、とても温かい親切なコメントを寄せてくださったからです([13])。私は本当にそのことを感謝していました。だから私がikedat76さんを嫌う理由など全くなく、ikedat76さんへの反発で、Chichiiiさんたちの反対票を投じたわけではないです。そのことはご理解していただきたいと思います。HASIDATEさんについては、あまりよく知らない方だったのですが、Chichiiiさん関連でお名前を知りました。どなたかの、「未来永劫」お引き取り願う、みたいなブロック賛成票を見て、つい反対票を入れに出向いてしまいました。

私の方針への理解の不足も、Shigeru-a24さんを擁護した時にあったことも、このコメント内のAshtrayさんのご指摘で気が付きました。よく「統合」の意味を把握していなかったことをお詫びいたします。私に、このように早合点や感情的なところがあることは否めませんし、依頼系の方針などはまだ認識不足があったと思います。今後は、自分自身が何か関係する以外には、極力その方面の参加はしないよう、見ないようにいたします。

そして、私の立項記事の引用や著作権侵害の件ですが、これは、以前私がやっていたように、その評論家の創作的な表現を含むものは、ある程度まとめて全文「」でくくるという安全なやり方に戻したいと思います。あらすじやあらましも、権利侵害に気をつけていきます。解説部も、今のようなおぼつかない状態で直したところは、以前のものに徐々に戻していきますので、一気には戻せませんが、必ずやっていきますので、長い目で見守っていただきたいと思います。Ks aka 98さんにも、頭痛さんにもお手間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。--みしまるもも会話2014年7月7日 (月) 12:59 (UTC)[返信]

第三者コメント[編集]

既に二日前にWikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももが出されています。こちらは閉じて先行する依頼の方に統合すべきでしょう。--Kojidoi会話2014年5月28日 (水) 11:56 (UTC)[返信]

(質問)先の依頼とは経緯も意図も全く異なるものですが、それでも並立はできないものですか? もしそうであるなら、一旦取り下げて、先の議論が終了してから再提出しようと思いますが。--Nazox会話2014年5月28日 (水) 12:03 (UTC)[返信]
経緯が違うと言っても、むこうでも「その他、おふたかたの議論姿勢に対する各位のコメント」が求められており、あなたが問題にしているパチンコの件を含めて幅広い事案があちらで俎上に上るはずです。完全に内容がかぶっています。ご当人に物申したい他の利用者に、わざわざ二つのコメント依頼に別々にコメントをつけさせるのですか? --Kojidoi会話2014年5月28日 (水) 12:20 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。私としては、頭痛さんについてのコメントは必要がなく、また、そのコメント依頼で主に語られている問題については、私は何が何だか全く状況を理解していないため、それらと一緒に語られると、私のコメント依頼に対する回答であるのか、そうでないのかがわからず、私の目的を果たすことが困難です。ただし、ルール、またはガイドラインとして並立が望ましくないということであれば一旦取り下げるつもりはあります。ただ、許されるなら並立させていただきたいのですが。--Nazox会話2014年5月28日 (水) 12:27 (UTC)[返信]

(Kojidoiさんへ) この件も私の議論姿勢についてですが、頭痛さんとの件は、頭痛さんに対するコメント依頼でもあり、小説の表記を巡る問題は私の専門の執筆分野の問題でもあり、頭痛さんとのお互いの関係上の問題です。なので、このパチンコの件はこの件でやらないと、議論が拡散すると思いますし、Nazoxさんもやりにくいでしょうし、実務的にも無理があると思います。私としても、いくら議論上の問題でも、私にも言い分がありますので、二つの案件を混同されて、雪だるま式に一緒にされたくはありません。依頼を出される側にも、それなりの権利がありますので、別件は別件できちんと分けていただきたいと思います。--みしまるもも会話2014年5月28日 (水) 12:49 (UTC)[返信]

議論の拡散を防ぐためにWikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももに統合するべきです。あちらで問題になっている被依頼者の議論姿勢とこっちの問題は陸続きです。論点を拡散させ、問題をうやむやにさせることになるのは望ましくありません。--ikedat76会話2014年5月28日 (水) 13:30 (UTC)[返信]

*わかりました。では本依頼は一旦コメントの受付を停止することといたします。 なお、周知のために、およそ24時間、このままにしておきますが、各位におかれましてはこの後にコメントはつけないようお願い申し上げます。--Nazox会話) 2014年5月28日 (水) 13:42 (UTC) *本依頼の必要性を認める第三者がいらしたため、コメント受付の凍結を解除させていただきます。以降、ご意見のある方はどうぞご発言いただけますようお願い申し上げます。--Nazox会話2014年6月17日 (火) 16:10 (UTC)[返信]

コメント Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも と統合する必要性は感じられないのですが。そちらは、頭痛氏 対 みしまるもも氏、お二人のやり取りにが度が過ぎているのでは?という案件です。あくまで、「頭痛氏とみしまるもも氏のお互いの議論」について対象としています。それに対し、本件は「パチンコ」という項目の編集における議論についての依頼です。頭痛氏は出てきません。私が本件の依頼者の立場なら、「私の案件はパチンコの編集についてであり、頭痛氏とは関係ない。混ぜないでくれ」となります。この「パチンコ」での案件は、みしまるもも氏が被依頼者となっておりますが、形の上では、みしまるもも氏が依頼者になることだって出来ました。
一応、前者の依頼の論点として「・その他、おふたかたの議論姿勢に対する各位のコメント」とありますが、かえって論点を拡散させる付け足しと感じました。私が本件の依頼者の立場ならば「一生懸命に議論している案件を、勝手に『その他』に押し込めないでくれ」となります。

依頼者によりコメント受付停止とのことですが、被依頼者に対するコメントではないのであえて意見しました。私は、統合の必要なないと思いますので、頃合いを見計らってコメント受付を再開されることは何の問題もないと考えます。--118.6.71.92 2014年5月29日 (木) 03:48 (UTC)[返信]

:みしまるももさん、IPユーザーさん、ご意見をありがとうございます。依頼者である私も、指摘を受けた当初はお二人がおっしゃることと同じように考えておりました。しかし、以下の二つの理由により、ここは譲歩する事に致しました。

  1. 先行する議論の参加者を戸惑わせ、そちらの進行を妨げる恐れがある。
  2. みしまるももさんの議論姿勢を問うという本依頼の目的は、先行する議論に場を移しても、ある程度は満たせると思われる。
私としても釈然としない部分は残りますが、ここで私が頑張っても単にもめ事が一つ増えるだけなので、また、本依頼のコメントの受付を再開することまで妨げられているわけでもないので、まずはもう一つの方に参加して、こちらについては適切な時期が来るのを待とうと思います。以上、どうぞご理解いただけますようお願いいたします。--Nazox会話) 2014年5月29日 (木) 15:14 (UTC)コメント受付の凍結解除のため、前段を取り消します。--Nazox会話2014年6月17日 (火) 16:10 (UTC)[返信]

コメント受け付けの凍結を解除いたします[編集]

  • コメント受付の凍結を解除させていただきます。以降、ご意見のある方は、どうぞこちらの段からご発言いただけますようお願い申し上げます。--Nazox会話2014年6月17日 (火) 16:10 (UTC)[返信]


コメント みしまるももさんについて、目に余る発言や行動がありました。先行議論のためにこちらは凍結中とのことですが、頭痛さんとは直接関係ないうえ、先行議論で指摘されている問題点そのものがなんの改善もされずに再発している現状を鑑み、場合によってはWP:BLも視野に入れなければならないと考えたため、こちらにコメントをさせていただきます。
さて、みしまるももさんとは直接無関係のことがらですが、現在Wikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月が進行中です。私はみしまるももさんが利用者:Shigeru-a24会話 / 投稿記録 / 記録さんに対して特別な感情をお持ちなのかはご本人に確認しないとわかりかねる部分ですが、はっきりと言えることは、Shigeru-a24さんの身に関わることが発生すると親衛隊のごとく現れては独自の理論を開陳しています。一歩譲ってこれが全員でなくとも過半数が正論だと見る内容であれば私も問題視することはありません。ですが、見渡す限りではこれが原因で議論の撹乱に直結していると私は考えております。
その一例として前述のShigeru-a24さんのコメント依頼でつい昨日にあったことですが、みしまるももさんの発言の中身はこちらやWikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももで指摘されている三段論法が顕著で、誰も書いてもいないことをあたかも真実であるかのごとく垂れ流したために私から猛反論に遭い、発言を取り消したり謝罪したりする一方で、相手の誤解が原因であるという受け取られても仕方のないコメントをお寄せになりました。確かに相手が誤解している可能性もあります。けれど、みしまるももさんの発言は事実無根で名指しされた私の名誉を著しく傷つけるものであったし、私の要求はあくまでもガセネタの垂れ流しによる風評被害を防ぐための撤回要求であり、誰がどう見てもみしまるももさんに100%の非があったにもかかわらず、その責任の在処をなすり付けていると受け取られても仕方のない発言は道義的に外れています。そういった発言に対する苦言(「あたかも事実であるかのように」)に対してはシラを切って見せたうえ、具体的に提示しろとまで仰せました。直前の自分の発言すらお忘れになっているのかと私は目を疑いました。「誤解させてしまい申し訳ない」や「私の意図した内容で伝わってない」ではなく、なぜ「私のことばの使い方・選び方が的確ではなかった」と自らの落ち度を詫びることが言えないのでしょう。正しい日本語を丁寧に解説してくださる方の論法とは思えず、とても残念です。
さらに、コメント依頼には各々どういったコメントを寄せて欲しいか依頼者が明記しており、被依頼者はそれに従ってコメントし、多少外れることがあっても本題と直接関係のないことはノートを利用するのが通例だったかと思いますが、みしまるももさんの場合は依頼者や第三者の行動や言動を引き合いに出して被依頼者の行動や言動に対する見方・考え方を加減させようと、流れをぶった切ってまでも長文を投下します。利用者に対するコメント依頼の場は、依頼内容が不適切でない限りは被依頼者に対する依頼者や第三者の行為を断罪する場でもないし、あくまでも依頼者・被依頼者・第三者は切り離して個別に対応すべきことですから、“東軍だってこんなことしてるんだから西軍がこんなことしても大目に見るべき”という理論で議論に望むこと自体がナンセンスです。まあ、すべて直接関連しているとしてノートへの転記を頑に拒否していますが、最低でもこういうコメントがノートに転記すべき余計なことだとお解りいただけず、議論においてすぐにヒートアップし、ひとたびヒートアップしてしまうと正常な判断が難しくなってしまう方なのかなという強い印象を受けました。
長くなりましたが最後にひとこと申し上げます。みしまるももさんは「具体的に」や「根拠」と他人に要求されますが、あなたの将来を案じてコメントをお寄せくださった第三者の労苦を少しでも労う心があるのであれば、コメント依頼やノートなどをいちから“冷静に”読み返してください。ちゃんとそうしていればShigeru-a24さんのコメント依頼であのような失態を犯すことはなかったでしょうし、こんなにコメント依頼で問題点を指摘するコメントが大量に寄せられません。なお、私はみしまるももさんの親でも先生でもありませんし、第一みしまるももさんのためにもなりませんから、具体的に説明してあげることは差し控えさせていただきます。--みちまん会話2014年6月17日 (火) 14:57 (UTC)[返信]
コメントあえて、ここに書きます。
みちまん様は、「私はみしまるももさんの親でも先生でもありませんし、第一みしまるももさんのためにもなりませんから、具体的に説明してあげることは差し控えさせていただきます」と仰せですが、それは良くないことだと思います。例えば[14]などはいかにも婉曲的であり、正直私も一目見てみちまん様が何を問題視されているのかさっぱりわかりませんでした。
そして、「誰も書いていないことをあたかも真実であるかのごとく垂れ流したために」までは正しいと思いますが、「私から猛反論に会い」と仰っていますが、経緯の当事者である一人である私からは、みちまん様は猛反論というよりは、みしまるもも様の「発言の捏造」(あえて、こう言います。)拡大解釈に不快感を表しながらも、それに対する指摘は婉曲的で、私が会話ページで指摘してそれに代弁感謝しますとみちまん様が申しあげている通り、ここで初めて具体的に露わになったのではないでしょうか。--ShellSquid/履歴 2014年6月18日 (水) 00:25 (UTC)[返信]
「捏造」という表現について、みしまるもも様から「悪意にとった見解」と御指摘をいただきました。御指摘を考慮し、私の不適切な表現「捏造」については撤回し、この表現を「拡大解釈」に改めます。その後のみしまるももさんの弁明を見て、「拡大解釈」という表現が妥当であると考えた次第です。なお、みしまるももさんはその後、暗黙の了解があると思い込み、そういう前提の元発言してしまったと、詫びのメッセージを出しています。--ShellSquid/履歴 2014年6月24日 (火) 05:08 (UTC)[返信]
それで、みしまるももさんについてのコメントです。上でNazox様がいくつか問題点を箇条書きで指摘しています。その内、
  • 2.そのテーマに知見のある者の説明でも、意に沿わないものは頑として受け入れようとしない。
  • 3.ソースに書かれていないことでも、三段論法的な飛躍で都合の良い解釈をする。
  • 4.反論を受けても、新しい根拠を提示することなく同じ主張を繰り返す。
  • 5.説明を受けてもいつまでも納得せず、同じ主張を繰り返す。
  • 8.文章を冷静に読解することができず、支離滅裂な主張や反論をすることがある。
  • 9.「ちょっと思ったことを言っただけ」として、他人の編集を批判する事の重大性を認識していない。
については、かなり該当する部分が多いと私は考えます(特に太字で強調した部分は顕著と考えます)。特に「3」は、上でみちまん様の仰せの、「言ってもいない自分達のメッセージを勝手に捏造」した、というものがまさしく該当します。「4」と「9」については、これは結局のところは主観以上のものになり得ないのですが、Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月におけるみしまるももさんの議論姿勢から、顕在化していると感じた次第です。「8」については、茨城県への加筆に対する評価にそれが表れていると思います。Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月では、他者の指摘ばかり引用してそれを根拠に批判した私にも瑕疵はありましたが、あの加筆を冷静に読解すればみしまるももさんのようなコメントが出てくるのは考えづらい、と、差分を読んで思った次第です。--ShellSquid/履歴 2014年6月18日 (水) 00:34 (UTC)[返信]

(みちまんさんとShellSquidさんへ)私のコメントが言葉足らずで、至らなかったことを改めて謝罪いたします。そしてそのことは、きちんとその時点でも「言葉足らず」で、私の方に非があったことを、みちまんさんにきちんと謝罪しました。そして私がこれに気づいたのは、ShellSquidさんの指摘があったからで、それも最初私は、誤解されていたような意図など全くなく、「みちまんさんやClaw of Slimeさん」が、いすかさんの「外部サイト」を問題視しないと言ったということも、私は書いてはいませんので、ShellSquidさんが何をそんなに騒いでいるのかが、ちょっと正直よく解りませんでした。

そして、夕飯後の片づけが終り、二度目のShellSquidさんの説明で、私の言葉足らずから誤解が生じているらしいことが解り(その時まだ私は、みちまんさんが「猛反発」しているのは見てませんでした)、言葉が足りなかったことを付加して訂正したわけなのです。そして私が悪かったことは、私の会話ページでも言及していますので、みちまんさんももう一度よくご覧になって、ご了承願いたいと思います。ただ私は「捏造」など全くしてませんので、ShellSquidさんが何故そのようにレッテル貼りなさって私を中傷するのは、とても心外ですし、悲しく思います。

重ねて言いますが、私は、先の頭痛さんと私のコメント依頼の中、暗黙の了解の「総意」で「外部サイト」を問題視しないという流れになっていたことは、皆さんが承知だと思っていたので、あの時ShellSquidさんが何をそこまで問題視しているのかが、さっぱり見当がつかなかったので放置していましたし、ましてや「捏造」などの意図など全くありませんでした。ShellSquidさんは私に対して、親切なアドバイスを下さったり、感謝することも多いですが、その一方で、何かを短絡的に決めつけてしまわれることもあるので、もう少しきちんと見ていただけるようお願いいたいと思います。--みしまるもも会話2014年6月18日 (水) 02:11 (UTC)[返信]

コメント そう何度も謝罪の言葉を並べるのであれば、本気を見せてください。私がアカウント参加直後に直面した事案以降、どなたにも同じことを申し上げてきましたが、私は何よりも「論より証拠」を求めてきましたし、みしまるももさんにも求めます。はっきり申し上げて、みしまるももさんの弁解や文字だけの謝罪は見飽きました。言葉はもう結構ですから態度で示してください。それと、ここも含めて至る所で「きちんと謝罪したのだからさらに追及しないで欲しい」というニュアンスの言葉を発していますが、それはあなたのご都合でしかなく、最終的な判断は被害を受けた側がするものであり、第三者はその後の行動や言動を公正な目で総合的に判断くださるでしょう。Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももでも申し上げましたが、耳を傾け、咀嚼し、血肉とする。どこかで申し上げましたが、第三者は冷静にものを見ていますから、説明が求められない限りは事細かく反論する必要はありません。
さらに申し上げますが、口よりものを言う目や間合いや息遣いといった距離感の感覚を用いるリアルなコミュニケーションと違い、文字だけのコミュニケーションは相手に正しく伝えるために普段とは違う慎重さが求められるし、特に議論では高いリテラシーを要します。次々と長文を投下されている背景には、そのとき思ったことを感情的に書きなぐっているだけで、こう書くとこう捉えられるであろうという想像を巡らせた推敲という作業を飛ばしてはいませんか?何度も付け足し付け足ししている点から私はそう疑っておりますし、それでも推敲なさっているというのであれば、それは多くの方と認識にズレがあることを理解し、これまでとは違う対策をとっていただかなければなりません。
最後に、みしまるももさんの会話ページで申し上げたとおり、仏の顔も三度です。もうあなたはチケット使い切ってますから次はないと思っていただかなければならないし、みしまるももさんがまずすべきことはShigeru-a24さんのコメント依頼の不適切な部分を改めることです。--みちまん会話2014年6月18日 (水) 03:49 (UTC)[返信]
コメント Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月よりこちらに参りました、Otherdeと申します。みしまるももさんの発言傾向に関して2点申し上げたいと存じます。上記ノートでの、みしまるももさんから私(Otherde)に対してのコメントですが、「私は中村獅童のコメントを「美辞麗句」とは思いませんでしたし」と、遠まわしに「私(Otherde)が中村獅童のコメントを「美辞麗句」と言った」と誤認させるような文章から始まっております。「それを茨城県に載せるのが適切であるなら」の「それ」が、その後に初めて出てくる「美辞麗句」を差している訳ではないことは、明確であると思料します。もう一つ、「茨城大使のコメントを載せたからと言って、千葉県の江戸川台に市長のコメントを載せる必要などないでしょう。全部の県記事を同じように扱わなければいけないという法則などありませんから、」ともみしまるももさんは仰っていますが、そもそも、茨城県(都道府県記事)と江戸川台(町丁記事)から「全部の県記事を同じように扱わなければいけないという~」との主張が出てくることがおかしいですし、「江戸川台に流山市長」ではなく「千葉県の江戸川台に市長の」のご発言も不自然です。みしまるももさんの発言は、あらかじめ自分の中で決めた答えがあり、そこへ導く為には相手の発言を曲解する傾向(第三者から見て自己の主張が有利になるよう解釈する傾向)、第三者に議論の内容を分かり辛くする傾向が見られると思料します(巧みさに程度の差はあれ、現在コメント依頼が行われ、みしまるももさんも議論に参加しているWikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月のShigeru-a24さんと手法は同じです)。また、論理的思考より感情的思考が極めて強く先行する傾向が見られ、百科事典を作るというWikipediaには不向きであると思料します。--Otherde会話2014年6月23日 (月) 11:09 (UTC)[返信]

(Otherdeさんへ) Otherdeさんは、「それ(中村獅童のコメント)を茨城県に載せるのが適切であるなら、井崎義治現流山市長の発言を引用(Hello!まつどの江戸川台関連)し、江戸川台の項目に実態と異なる美辞麗句を並べたてなければなりません」([15])と言ってましたので、これを普通に、前後関係の流れから読解すれば、中村獅童のコメントをOtherdeさんが「美辞麗句」と捉えていると判断されても少しもおかしくはない日本語の文章形態となっております。それから、江戸川台(町丁記事)は県ではないので、「県記事」としたのは私のうっかりした間違いですので失礼しました。私が言いたい「主旨」は、「他の町丁記事あるいは県記事」にあるからと言って、「他の町丁記事あるいは県記事」にも、同じように扱わなければいけないということもないのでは? というものですのでご了承お願いします。--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 12:47 (UTC)[返信]

  • コメントWikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月」で、反対意見[16]を述べるのはかまわないのですが、そこで引き合いに出した利用者名を間違うのはいただけません。その後コメントに修正を入れた際[17]にも直さないところを見ると、既に他の方が指摘した事項について、その指摘は妥当であり、本人に改善しようとする意思はないと結論づける他ないと考えます。ちなみに、相手の名を間違える行為は、決して些細な間違いではないとだけ言っておきます。--森藍亭会話2014年6月23日 (月) 11:19 (UTC)[返信]

お名前は修正いたしました。ご指摘ありがとうございました。--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 12:47 (UTC)[返信]

みしまるもも様、Otherde様ご指摘の、「あらかじめ自分の中で決めた答えがあり、そこへ導く為には相手の発言を曲解する傾向(第三者から見て自己の主張が有利になるよう解釈する傾向)」第三者に議論の内容を分かり辛くする傾向」「論理的思考より感情的思考が極めて強く先行する傾向」というコメントに、思い当たる節はありませんか。御自身のこれまでの履歴を見て再考をお願いします。
また他の方々にお願いなのですが、指摘するにしてもみだりに煽ったり糾弾したりするような発言は控えていただければ幸いです。Otherde様の御指摘が、分かりやすく、煽ることもなく、淡々と問題点を指摘しているものと私は考えます。--ShellSquid/履歴 2014年6月23日 (月) 13:02 (UTC)[返信]

(ShellSquidさんへ) 先に私の言葉足らずを、あなたが「捏造」というふうにしたのは、私から見れば「曲解」ですので、私もうっかりミスや言葉足らずがあり反省すべきものは多々ありますが、そのように悪意にとるような方向に持っていかれるのは何故でしょうか? とても心外に思います。--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 13:25 (UTC)[返信]

捏造 : 事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと — 広辞苑
曲解、そう仰るあなたが曲解なさっているようです。--みちまん会話2014年6月23日 (月) 13:32 (UTC)[返信]
(追記)こちらにお越しの方と、みしまるももさんに分かりやすくご説明させていただきます。事実事実でないことを事実のようにこしらえて言うことです。--みちまん会話2014年6月23日 (月) 13:37 (UTC)[返信]
ここでは直接関係ないのかもしれませんが、みちまんさんは基本的にWikipedia外部での発言に目くじらを立てない方が良いというご姿勢だと思いました。ですから、Wikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月では、2014年6月16日 (月) 03:46のコメントで、「目くじらを立て」ておられた頭痛さんに対し「他所でどうぞ」とコメントされたのだと思います。しかし、その直後の2014年6月16日 (月) 03:46のコメントにて、ブログ内の発言を引き合いにだされてコメントされたので、みしまるももさんはこのコメントに対して「外部サイト発言は関係ないものとされたので、それをここで問題視することは、整合性の観点から外れたことだと思われます」と仰ったのではないでかと思いました。--MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 13:48 (UTC)[返信]
コメント (MEGEVENDさんへ)「他所でどうぞ」について、あの場はあくまでも被依頼者さんに対するコメントを並べる場であると考えており、第三者があの場で多少の議論をすることは構わないのかもしれませんが、頭痛さんが持ち出した話の方向は依頼者の頭痛さんに対する行動への非難で、それに対するShellSquidさんの苦言を遮って依頼者に対する非難の姿勢をより強めているようでしたので、これ以上の被依頼者の行動と全く関係ない話題はノートなど適切な場でやっていただくべきであるという意図で申し上げました。改めて読み返してみるとちょっと雑で、もう少し丁寧な表現でご案内申し上げればよかったとは思います。なお、私の発言の一部分のみが一人歩きしているようですが、正確には「ウィキペディア上も含めていちいち目くじらを立てていてはキリがありません」と申し上げておりまして、相手の一挙手一投足をいちいちガミガミ言ってもしゃあないでしょ?と言うことですから、外部サイトを持ち込むなという意味は一切含んでおりませんし言った覚えもありません。そもそも、私はその方の本心を見極めるためにTwitterやブログを実際に持ち込んでいますから当然問題視してはならないなどと言える立場にはありません。言っていませんから整合性の観点から外れているというのは失当です。--みちまん会話2014年6月24日 (火) 14:15 (UTC)[返信]
  • みちまんさん、丁寧なご説明ありがとうございました。「外部サイトを持ち込むなという意味は一切含んでいない」ということを、確認させて頂きました。誤認してしまい、申し訳ございませんでした。なお、みしまるももさんが、「みちまんさんやClaw of Slimeさんが、いすかさんの「外部サイト」を問題視しないと言ったということも、全く書いてはいません」(2014年6月23日 (月) 14:26)と仰っていますが、このコメントをご覧になっても「みしまるももさんの曲解」という認識をまだ持っておられますでしょうか。いずれにせよ、私の誤認を指摘して頂き、説明をして下さったことに対して、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。--MEGEVAND (会話) 2014年6月24日 (火) 18:28 (UTC)[返信]
返信 このことですか?問題外なので最後に回させていただきます。
さて、事実として、みしまるももさんは私みちまんとShellSquidさんClaw of Slimeさんを名指しして「整合性が取れてない」と言いきったけど実際はそうではなかった。言葉足らずというのは表現のあやを補完することであって、誤認識を訂正することには使わないほうがいいというか、通常は使用しないと思います。その証拠に、このような釈明をしていますが、読み解けば「言葉足らず」ではなかったことは明らかです。
私が勝手に思うことですが、この方どこかで「反論しなければ黙認したと見なされる」ような発言をしていた気がするのですが、そういうものの考え方でなければ今回の事故は発生しないし、であるからこそ事細かく長文でそこらじゅう反論して回る行動につながっておられるのかなと。
また、自らの無謬を過信されているのか、他者の「捏造」に対しては国語辞典に書かれていることとは違う意味に捉えて過剰反応する反面、自分の誤った認識による発言に対しては「言葉足らず」で済ませちゃうわけでしょ?それじゃあ誰も着いてきませんよね。
あ、そうそう。以前「事実」として提示した私の発言ではTwitterのツイートを擁護しているんですよ。この時点で外部サイトの持ち込みを問題視していると捉えてはいけないかと思います。それで、冒頭の差分ですが、自分に出されたコメント依頼すべてに目を通してませんと言ってるも同然で、他人の言葉に耳を傾け、咀嚼し、血肉とする気はないのだと、私は改めてそう認識しました。「言ってもらえるうちが花」なんですけど、私だってまだ帰宅できてないくらい忙しい仕事をしていますから、多くの方に批判されましたけど、みしまるももさんのために心血注いで教えてさしあげることは何もないのかなというのが正直な気持ちです。--みちまん会話) 2014年6月25日 (水) 13:05 (UTC) 一部訂正。--みちまん会話2014年6月26日 (木) 03:49 (UTC)[返信]
「捏造」という表現を使ったことについて、みしまるもも様に謝罪します。私の言葉選びが極めて不適切でした。申し訳ございませんでした。
再度、説明します。みちまん様は「外部サイトなどで放言なさってる方は少なからず居られるようですね。けれど、ウィキペディア上も含めていちいち目くじらを立てていてはキリがありませんし」と仰せです。一方でみしまるももさんは「みちまんさんやClaw of SlimeさんがShigeru-a24さん「外部サイト」を持ち出して問題化するのは、先に私と頭痛さんへの依頼で、いすかさんの「外部サイト」発言は関係ないものとされたので、それをここで問題視することは、整合性の観点から外れたことだと思われます。」と仰せです。その後のコメントも拝見しました。私がノートページで外部サイトは関係ないと主張したため、それがコミュニティの総意であるかのように誤解されたという点については私にも責任があるとみしまるももさんの御指摘で思った次第です。
一方で、みちまん様はみしまるもも様のコメントについて、「極端に飛躍させたものの見方や考え方をあたかも事実であるかのように口に出して宣伝」と指摘しています。その後の「厚顔無恥」という表現は明らかに不適切だと思いますがこの部分については事実だと考えます。みしまるもも様は訂正後のコメントで、「ShellSquidさんの意見に積極的に異議を唱える第三者意見が見られなかったので、いすかさんの「外部サイト」発言は問題視しないという「暗黙の了解」があったと私は思ってました」と仰せですが、そんな暗黙の了解はありませんし、撤回するにしても撤回の仕方が不味いと思いました。ただ取り消し線を引いて、この発言は間違いでした、撤回しますとだけ言った方が良いと思います。私も現実世界で良く似たようなことをするのですが、押しなべて相手からは弁明の体裁を取り繕った自己正当化と解釈される傾向にあります。--ShellSquid/履歴 2014年6月24日 (火) 05:04 (UTC)[返信]

(MEGEVANDさんへ) その発言のことは、私は上で述べているように、みちまんさんやClaw of Slimeさんが、いすかさんの「外部サイト」を問題視しないと言ったということも、全く書いてはいませんし、そのような意図も全くありません。そして私は、みちまんさんのそこでの発言のことも全く念頭に置いてなかったので、個人が言ったとかの主旨ではないんです。なので、どうしてそうなっているのか、とても心外に思っています。私の言葉足らずからこうなってしまいましたが、そのことは上の私の説明([18])を読んでいただきたいと思います。--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 14:26 (UTC)[返信]

  • いや、特にみしまるももさんに、何か苦言を申したわけでもなく、みちまんさんと貴方のやりとりを見て思ったことを述べたまでです。それ以上でも以下でもありません。--MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 14:36 (UTC)[返信]
(1)「統合なしの削除」「削除(統合を含む)」「存続」「統合」 と細かく分けるべきだった、というのは被依頼者による一意見に過ぎません。
(2)削除依頼においては、「削除」か「存続」しかありません。統合するならば「存続」であり、統合元の履歴は残さねばなりません。Stealth3327さんの手により、中山駅 (神奈川県)への加筆がなされ[19]、実質的な統合がなされましたが、これはウィキペディアで言うところの「統合」とは異なります。
の2点を指摘しておきます。
そもそも利用者:Stealth3327会話 / 投稿記録さんや利用者:Jkr2255会話 / 投稿記録さんが当時どのように考えていたかなど、他者が知る由もなく、削除依頼の審議中に、必要であればお2人方が説明すればよかっただけの話です。事実としてあるのは、お2人方が「存続」を撤回して「即時削除」票を投じ、その後になって4人の方が「存続」票を投じたものの、結局は「即時削除」票を維持した、ということです。
一方で、9人の方が新たに「削除」票を投じましたが、みしまるももさんが言うところの「削除(統合を含む)」を意図しての票かもしれませんよ。ただ私はそれを判断するつもりはございません。「統合不要」とハッキリと述べているのはお1人だけでしたので。
要するに(1)の「みしまるもも流」細分化法は、それ自体が空想的かつ恣意的なものでしかないのです。そのようなモノを他者に押し付けるべきではありません。--Ashtray (talk) 2014年6月23日 (月) 14:10 (UTC)[返信]

(Ashtrayさんへ) Jkr2255さんが、中山駅に統合する旨だったことは、ノートを読めば解ることです。履歴を見ても、Jkr2255さんは中山駅 (神奈川県)の記事へ統合し加筆する方の議論へ移行して行ったことが解るはずですが。そしてJkr2255さんは、そこでまた反対されたために、記事名を変更して独立記事立項を新たに望んで、「独立記事にするとしても、記事名の付け方から考える必要があるので、中山駅 (神奈川県)から再分割という形で問題ないと考えます」とノートの中で発言しています。これを見れば、Jkr2255さんは記事の統合を望んでいたのは自明です。それに、私はそういう票分けを押しつけているわけではなくて、そういう票分けの段階を踏めば、ああいうふうに双方で揉めずに済んだのではないかなと思ったので、そういう意見を当時の依頼でも述べさせていただきました。--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 14:51 (UTC)[返信]

コメント みしまるももさんへ。繰り返すようですが、WPにおける「統合」と、一般的・辞書的な意味での「統合」を混ぜないでください。でないと、話が成り立ちません。--Ashtray (talk) 2014年6月23日 (月) 15:23 (UTC)[返信]

コメント 「当時の依頼でも述べさせていただきました」 とのことですが、件の削除依頼および同ノートに、みしまるももさんの履歴は確認できませんでした。さて、どの依頼のことでしょうか?。いずれにしましても、私も貴方も削除依頼の当事者ではないのですから、「ああすれば良かった」の類の意見は、ご無用に願います。--Ashtray (talk) 2014年6月24日 (火) 13:45 (UTC)[返信]

(Ashtray様へ)[20][21][22][23]のことのようです。、件の削除依頼および同ノートとは関係のない場所ですがみしまるももさんは説明しています。またこれらの差分を見るにみしまるももさんが主張していたのは「ああすれば良かった」の類の意見ではないと思います。--ShellSquid/履歴 2014年6月25日 (水) 00:34 (UTC)[返信]
ShellSquidさん、こんばんは。差分をありがとうございます。みしまるももさんの言うところの「当時の依頼」は、やはりそっちの事なんでしょうか。とすれば、やはり「削除依頼の当事者」じゃぁないですよね。
みしまるももさんの「説明」を繰り返し受けたShellSquidさんとしては、その「説明」をどう評価しますか?
私は、上方にて既に「空想的かつ恣意的なもの」と評しています。詳しいことは、追々。--Ashtray (talk) 2014年6月25日 (水) 13:29 (UTC)[返信]
  • Ashtrayさん、こんにちは。差分を確認しましたが、みしまるももさんは「呼び捨て」をしておられないようです。「タバコはマーダー」さんと、ちゃんとさん付けされてますし、他の方もさん付けされておられます一応、この利用者のページのリンク[25]を貼っておきますね。--MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 14:36 (UTC)(リンク追加 --MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 14:45 (UTC)[返信]
  • あぁ、須磨寺横行さんのところですね。おそらく「うっかりミス」でしょう。いくらなんでも、故意で呼び捨てされる方ではないと思いますので、、、。みしまるももさん、そういうことでご指摘がありましたので、お時間のある時に訂正なさって下さいね。--MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 14:45 (UTC)[返信]

MEGEVANDさん、Ashtrayさんへ、ご指摘ありがとうございました。直しておきます(汗 --みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 14:51 (UTC)[返信]

コメント 確認しました。ご対処ありがとうございます。--Ashtray (talk) 2014年6月23日 (月) 15:23 (UTC)[返信]

Ks aka 98氏のコメント以降[編集]

コメントみちまんさんの 2014年6月18日 (水) 03:49 (UTC)の書き込みまでをベースに書いたんですが、なんか進んでしまったような。
依頼対象者のみしまるももさん、および議論の当事者となったNazoxさん、みちまんさんの三者ともが、自分の正当性ばかり主張しているように見えます。
  • まず、基本的に利用者のコメント依頼は、特定のやりとりの是非を問うものではなく、「本件は「パチンコ」という項目の編集における議論についての依頼」ということであれば、それを主題としてコメント依頼をだすべきでした。コメント依頼は、論争を当事者間で解決できないときに、第三者が客観的に判断したり、新たな意見を述べたりすることで、解決を促すものです。論争の当事者が、主観的に経緯を書き、意見を述べて、それに賛同するコメントを集めるものではありません。
  • パチンコのノートでのNazoxさんの説明は、十分なものではなかったと感じますし、「見解の余地のあるもの」だと考えます。示されていた過去の議論は、主に水平線80さんが示す根拠が否定されているに留まります。情報源の取捨選択については、WP:NORやWP:NPOVから、ただちに正当化される編集ではないでしょう。おそらくその記述を編集する上では当然知っておくべき周辺知識だったり、いちいち説明していては面倒なものなのだろうとも思いますが、その時の主張が、その知見を殆ど持たない人に頻繁に見られる誤った認識に基づくものであるなら、ノートでたびたび論点となっているものなのですし、「特定の法律に関する知見」などを説明しておかなければならない。換金システムの不自然さや適法性が問われることもあるが、「風適法第19条で認められており、公安委員会の同法の解釈運用基準においても、特殊景品は風適法で禁じる有価証券類にはあたらない」とされる。それに対して誰其は天下りや癒着を指摘する、などなどと書けばいいんじゃないでしょか。それなら、『パチンコ無間道』はともかく、サイゾーや産経新聞は情報源になりうる(無批判になるとはいってない)。
  • Wikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月でのやりとりについて、みちまんさんが指摘している部分については、「目に余る発言や行動」とは感じませんでした。みちまんさんのほうにも、ShellSquidさんが指摘しているように、分かりにくさがあったと思います。相手の問題点を指摘する場合には、きちんとそれを指摘し、理解してもらうことが必要です。また、Claw of SlimeさんやHusaさんは外部サイトに言及しているのですから、外部サイトについての整合性の扱いについての発言[26]は、明らかに「ノートに転記すべき余計なことだ」というほどのものでもないと思いますよ。親でも先生でもないのですから、主張を明らかにして、第三者の目から、その批判が正しく、的を射ていることを示したほうが良いです。なお、ShellSquidさんは言及していないようにも見えますが、とされていますが、Claw of Slimeさんは2014年6月15日 (日) 17:35 (UTC)で外部サイトでの行為に言及があります。
  • 利用者のコメント依頼としてのコメントも残しておきます。Nazoxさんやみちまんさんにも非はあったと思うのですが、それは、みしまるももさんの態度を正当化するわけではありません。みしまるさんには議論姿勢について問題があると考えます。パチンコのノートやShigeru-a24さんのコメント依頼でも見られますが、それらに限らず、他の記事やコメント依頼にも共通します。
  • 自分が得た情報源だけを元にした知識・記事の修正・意見などを、過度に正当化するところ、ではないかと。自分が得た情報についてのみ書くことは守るべき重要なことではありますし、そうした作業の蓄積によってウィキペディアの記事は成長します。しかし、自分が得意としない、知らないこともたくさんある内容に関しては、自分が部分的な、局所的な知識しかないということを自覚し、弁えを持って作業に臨まなければなりません。この点、表現は変えていますが、Nazoxさん、ShellSquidさんが指摘しているものと共通します。「三段論法的な飛躍」「支離滅裂な主張や反論」は、局所的な知識で自分の意見を正当化しようとするために生じていることのように思われます。パチンコ、STAP細胞、方針関連などは、そうです。また、他人が、正しい情報を、万全の情報源と共に示すのでなければ、自分の意見は尊重されると思っているように見えます。
  • ShellSquidさん、みちまんさんのやりとりでは、他者に対して、まとめた表現が実際のことに比べて不正確である、ということは受け入れて頂けますか。「捏造」は「デジタル大辞泉」では「事実でないことを事実のようにこしらえること」とされています。「でっちあげ」ともありますから、しばしば、意図的な、悪意に基づくというニュアンスを含むとは思いますが、「事実でないことを事実のようにこしらえること」を行ったという意味では捏造です。
>ただ私は「捏造」など全くしてませんので、ShellSquidさんが何故そのようにレッテル貼りなさって私を中傷するのは、とても心外ですし、悲しく思います。
と言ってしまうのは、正確ではありませんよね。言葉足らずだったために、あるいは表現が適切ではなかったために、結果として「事実でないことを事実のようにこしらえること」と受け取られるような文章になっていたのは確かで、当事者であるみちまんさんにとって「言ってもいない自分達のメッセージを勝手に捏造」と受け取られている。ShellSquidさんは、みしまるももさんの行為を「捏造」と断じているのではなく、みちまんさんいうところの、みちまんさんにとっての「捏造」なのだと書いています。これは、レッテル貼りでも、中傷でもありませんし、短絡的でもありません。その後、みしまるももさんも「「捏造」などの意図など全くありませんでした」という表現も使われていますが、せめて、たとえば「捏造するつもりはなかった」とか、意図や悪意は無かった、というふうに、結果として事実ないことを事実のように書いたけれども、意図したものではないという弁明と、事実でないことを書かれてしまったみちまんさんに対して、事実でないことを書いてしまったことについて謝罪をされていれば、無駄な軋轢は避けられました。「暗黙の了解の「総意」で「外部サイト」を問題視しないという流れになっていたことは、皆さんが承知だと思っていた」というのは、「ソースに書かれていないことでも、三段論法的な飛躍で都合の良い解釈をする」にあてはまります。これも、捏造という批判的な表現のみに反応し、指摘されている事柄について省みることができていないため、強い反発をしてしまっている例でしょう。
  • また、たとえば、『パチンコ無間道』について、「フィクションのマンガ作品」であるなら、一般に事実や主張の根拠となる情報源とは認められないのですから、「本当に中身をよく読んでもいない」うちは、除去は妥当な行為であり、除去の後に、フィクションのマンガ作品ではあるが、本当に中身をよく読んだ上で、たとえばマンガとは別立てのコラムが情報源であったとか、キャラクターや筋書きにおいてはフィクションではあるが業界その他の部分では事実に即していると第三者的情報源によって高い評価を受けた作品であるなど有用な情報源とみなせる理由があるなら、それを示して復帰するべきです。「私なら決めつけて即削除はしない」かもしれませんが、他者の削除を咎める理由はとても弱いものです。
こうした場合は、指摘を受け、部分的にでも、自分の意見を改めることが必要です。
  • そして、以上の指摘、およびShellSquidさんやみちまんの指摘を冷静に読めば、みしまるももさんの問題は「言葉足らず」だけにあったわけではないことが、ご理解いただけると思います。
ここで改めてほしいことは、
  • できるだけ知らないことには首を突っ込まないこと、
  • 意見の対立があったときには敵対せず、論争ではなく対話であり、記事の改善が目的であることを見失わず、相手のどこと対立しているのか、冷静に分析する習慣をつけるよう努力すること、
  • 複数の人が口をそろえて指摘していることは、納得行かないとしても、他の人は理解しているけれども自分が理解していない何かがあるのではないかと考えること、
  • 相手の主張で反対しない部分には同意を示し、間違いと指摘されたことで間違いと理解したことは間違いを認めること、
でしょうか。他の人もできていないでしょうし、対話の相手ができてないこともあるでしょうけれど、それは関係なく(相手がそうだからと言って自分がそうであっていいわけではありません)、自分は、そうしたことを心がけるよう、お願いしたいです。--Ks aka 98会話2014年6月23日 (月) 16:19 (UTC)[返信]

Ks aka 98さん、ShellSquidさん、コメントどうもありがとうございました。もう一度よく自分の反省点を考えてみます。--みしまるもも会話2014年6月24日 (火) 06:23 (UTC)[返信]

Ks aka 98さんには誤解があるようですので申し上げます。私のこのコメント依頼は、「特定のやり取りの是非を問う」、つまり、ノート:パチンコにおける私とみしまるももさんの主張のどちらが合理であるかを皆さんに判断していただくために提出したものではありません。それは、私の「依頼者コメント」をご覧いただければ明らかだと思うのですが、ご理解いただけなかったようで残念です。パチンコのノートでの一件は本依頼を行う引き金とはなりましたが、問うているのはあくまでも、みしまるももさんの以前から現在までの参加姿勢、議論姿勢に見られる相当に深刻な問題点を、ご本人に気付いていただくことです。従って、パチンコ記事の編集内容についての言及は議論の拡散となってしまいますので、以降はお控えいただけますとありがたいです。しかしながら、せっかくご意見をいただいているので、その件についてはノートの方で私の見解を回答させていただきますので、ご参照いただければ幸いです。--Nazox会話2014年6月25日 (水) 14:27 (UTC)[返信]

コメント 本ノートでの、みしまるももさんの私(Otherde)へのご発言について。「これを普通に、前後関係の流れから読解すれば、中村獅童のコメントをOtherdeさんが「美辞麗句」と捉えていると判断されても少しもおかしくはない日本語の文章形態となっております。」と仰っていますが、繰り返しになりますが、「それを茨城県に載せるのが適切であるなら」の「それ」が、後に出てくる語(美辞麗句)を指すことはありません。前後関係の流れ(この場合、「前後の流れ」が適切ではないでしょうか)から中村獅童のコメントを美辞麗句と読解したのであれば、明確におかしい(誤り)と言えます。また、「それから、江戸川台(町丁記事)は県ではないので、「県記事」としたのは私のうっかりした間違いですので失礼しました。私が言いたい「主旨」は、「他の町丁記事あるいは県記事」にあるからと言って、「他の町丁記事あるいは県記事」にも、同じように扱わなければいけないということもないのでは? というものですのでご了承お願いします。」とも仰っています。率直に申し上げて、これは「うっかり」間違えるレベルではないと思料します。理由は、ここでは「千葉県」という語が全く必要のないものであり、出てくること自体おかしな話であるからです。そもそも、私は千葉県という語を出しておらず、「私は中村獅童のコメントを「美辞麗句」とは思いませんでしたし、茨城大使のコメントを載せたからと言って、千葉県の江戸川台に市長のコメントを載せる必要などないでしょう。」という文にうっかりなるはずがありません。また、私が「そもそも、茨城県(都道府県記事)と江戸川台(町丁記事)から「全部の県記事を同じように扱わなければいけないという~」との主張が出てくることがおかしいですし」と言ったことを受けてでしょうか、「全部の町丁記事や県記事を同じように扱わなければいけないという法則などありませんから、」とWikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月 2014年6月23日 (月) 21:55時点における最新版において修正しております。そもそも、この場合「全部の○○を同じように扱わなければいけないという~」と述べるのであれば、「全部の町丁記事や県記事」となるのは不自然です。このように細かく述べるおつもりであれば、町丁記事と同義と言える大字記事、町丁・大字記事と県記事の間の位置づけと言える市区町村記事(一言で言えば、「地域関連記事全般」)が入っていないことに、嫌でも気付かざるを得ません。つまり、他者の文章をきちんと読まず、「理由を付けて正当化が困難だったので謝っただけ。茨城県(都道府県記事)と江戸川台(町丁記事)という言葉が出たから、町丁記事と県記事に修正すればいいや」としたとしか捉えようがありません。「それ」が指し示すものをその後に初めて出てくる言葉に求めたり、「全部の町丁記事や県記事」と書きながら「大字」、「市区町村」が抜けていることを疑問に思わなかったり、これが意図的でなければ日本語の読解力、理解能力に難がある(書かれている通りに読まず、自分の中での想像や願望を混ぜてしまう。自己の文の初歩的な矛盾すら気付くことができない)ことが明確で、Wikipediaの活動が不可能であることは決定的であると考えます。--Otherde会話) 2014年6月24日 (火) 11:45 (UTC)文章を入れる場所を間違えた為、場所を入れ替え。--Otherde会話2014年6月24日 (火) 11:57 (UTC)[返信]

コメント「もう一度よく自分の反省点を考えてみます」(2014年6月24日 (火) 06:23 (UTC))と言っているそばから、なぜこの発言(2014年6月25日 (水) 01:37 (UTC))なのでしょうか。とりわけ3つ目の段落の「「冒頭や目次を眺めるだけも一目で不適切だと分かるほどの、およそ肯定のしようのない荒らしじみたもの」と氷鷺さんは言っていますが、…」のくだりは、ここまで指摘されてきた「問題点」のまったくの反復であり、みしまるももさんの言われる「よく自分の反省点を考えて」がまったく実のないもの、もしくは何の問題もないと結論付けられたのかと、目を疑うばかりです。

  1. 「冒頭や目次を眺めるだけも一目で不適切だと分かるほどの、およそ肯定のしようのない荒らしじみたもの」について初めて具体的な指摘をしたのは2014年6月14日 (土) 10:31 (UTC)の私のコメントです。
  2. このコメントは2014年6月14日 (土) 04:27 (UTC)のShigeru-a24さんご自身の「推薦の際は記事の構成の変化や書かれている内容などを検討しており、正確性に関して出典と照らし合わせるなどして査読確認しているわけではありません」という発言を踏まえてのことです。構成(構成は目次として反映されます)が改善したという主張はShigeru-a24さんご自身が言い出しされたことです。
  3. Shigeru-a24さんの上記発言まではWikipedia‐ノート:メインページ強化記事投票所/項目候補2014年6月13日 (金) 15:11 (UTC))でもノート:茨城県2014年6月13日 (金) 08:46 (UTC))でも構成についてのコメントはありません。それは構成について問題ないからではありません。構成がなくとも問題点が多々あったからです。さらには、かつ私の示した差分にあるように、変化は些少であり改善を読み取ることは難しいばかりか、むしろ(荒らしとまでは言わずとも)劣化が見られたといって差し支えないでしょう。
  4. 内容は見ていない、構成の改善を評価した(Shigeru-a24)→構成は改善するどころか劣化している(ikedat76)→構成がおかしくなったことだけを取り上げて加筆内容を批判するのはおかしい(Shigeru-a24)→「おかしくなった」ところ以外に本質的にかわったところはありません。何かが変わったのだから推薦する、するとおかしくなったところをもって「改善した」ものと判断したという以外に導ける論理的な帰結はありません。あるのであれば、具体的にご指摘ください。これは記事の品質の問題であって悪意や善意の問題ではなく、したがって客観的かつ外形的に確認できる仕方で、です。

内容ではなく、構成を評価した、といったのはいったいどなただったのでしょうか。おかしいのは、矛盾しているのはどなたであるのか、みしまるももさんには把握できておられないようです。Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももでも指摘したことですが、Shigeru-a24さんに対する肩入れか、あるいはShigeru-a24さんに批判的な立場の人間への反発か、いずれにしてもコメント依頼なりブロック依頼なりで取り上げられた事象への客観的取り組みとは異なるものです。言うなれば、Shigeru-a24さんと同断のことがらでしょう。情報をインプットし・理解し・アウトプットする、その前2段に問題があると申し上げておきます。念のため言うならば、これは方針がどうのという以前の問題として、情報をまとめて文章を書くことを求められている場に参加するに当たって、大前提を欠いているものと見受けられます。--ikedat76会話2014年6月25日 (水) 11:59 (UTC)[返信]

別コメント依頼を進行している都合上、あまり口出しできる立場ではないと思ってはいるのですが、ikedat76さんによってShigeru-a24さんに対する投稿ブロック依頼でのみしまるももさんの発言に言及があったので、便乗します。どうしても一点だけ気になったところがあり、ちょっと看過できませんでした。
みしまるももさんは、ブロック依頼について「弁明や釈明が気に入らないからブロックというのも何かロジックとしておかしな流れだと思います。」というようなコメントをされておいでですが、誰もそんなことは言っていないと思うんですよね。まずいことをやって、謝罪しはするものの、それを正当化しようとしてしまって、しかもそれがダメ押しになってしまってるから、もうブロックしかないですね、ということを誰もがおっしゃっているように私は思います(念のため確認しておきますが、私はShigeru-a24さん関連の動向にはほぼ関わっていません。誰に肩入れすると言うこともないですし、これからも件のブロック依頼に参加しようとは思っていません)。他の方の動向を「弁明や釈明が気に入らない」とまとめるのはあまりに乱暴ですし、みしまるももさんが反対票を投じていることも含めて、「事態をことさら小さくみせようとし、自らの主張を補強している」と私は見ます。そしてこの「自分の都合のいいようにする」という指摘は、既に他の方によってもおこなわれているものです。というかそもそも、ブロック依頼では「票を投じる」のですから「主張」をするという時点でおかしいのですけど。内心で「ノートでやれよ」と真っ先に思いました。「ノートへ移動してください」という、要するに「あなたは場所の判断を誤っている」という指摘も、あったと思います。
この点を含めて、すぐ上の、ikedat76さんによる2014年6月25日 (水) 11:59 (UTC)のコメントには同意したいと思いますし、みしまるももさんに対する(少なくとも、私の)印象がより悪いものになったと言うことは述べておきたいと思います。なお、返答は不要ですし、納得できないとされても何かをご説明するつもりはありません。私は結局のところ「みしまるももさんの行動についてこれこれこういう印象を抱いた」と述べただけで、「印象は与えたが最後、受け取り方を相手に転嫁すべきではない」と考えているからです。以上です。--いすか (/) 2014年6月25日 (水) 16:44 (UTC)[返信]

(ikedat76さんへ)私はikedat76さんが目次の齟齬に初めに気づいた人だということは十分知っています。その上で、それ以前はしばらく誰も気づかなかったので、「目次を眺めるだけも一目で不適切だと分かる」と氷鷺さんが言うのはおかしいのでは? という意味でコメントしたのです。

それと先ず、ikedat76さんにまずお願いしたいことがあります。ikedat76さんはそういう履歴のリンクを貼るときに、そこに乗せる言葉を「その発言者が言った通りの引用」を「一字一句そのまま」を貼るようにしてください。そうしないと、微妙に意味合いが歪曲されてきますので、ikedat76さん自身の言葉に変えないでください。

ikedat76さんは4番でShigeru-a24さんの発言を、

  • 「構成がおかしくなったことだけを取り上げて加筆内容を批判するのはおかしい」(Shigeru-a24)→「おかしくなった」ところ以外に本質的にかわったところはありません。

とまとめてしまっていますが、実際にShigeru-a24さんが言った発言は、以下のものです。

  • 「茨城県」の改稿における節組み記号のミス(書式としては「=」の過多)はそれほど珍しいミスではなく、私も他所で何度か遭遇しておりますが、節組みのミスで県議会の下に国会議員の記述があってもただちに荒らしとは断定できないと考えます。「冒頭や目次を眺めるだけも一目で不適切」との指摘がありますが、目次つまり節組みの適切さによって荒らし判定を行う手法は不適切であり、「安易に荒らしと呼ばない」にも抵触しかねないと考えます。

Shigeru-a24さんは、4では「構成」とは言っていません。「構成」と「目次」は意味合いが違います。そして1ではShigeru-a24さんは「目次」とは言っていません。ikedat76さんがそこで突然と「構成は目次として反映されます」と独り決めしていますが、そういうふうにして自分の方向へ導いていくのがikedat76さんの悪い癖だと私は思います。そして後からまとめる時の言葉も、発言者の本来の言葉をそのまま引用もしないで、「微妙に歪曲していく」のも止めていただきたいです。私から見たら、こういった最低限のマナーをしていないikedat76さんの方が、「情報をまとめて文章を書くことを求められている場に参加するに当たって、大前提を欠いているもの」と思いますが、違いますか? 

そして私はあそこのコメントでShigeru-a24さんの「コメントの中身」について具体的には何も言及はしていませんし、私のコメント主旨はそんなことではないので、ikedat76さんは具体的に何を私に言いたいのか、私の発言のどこがおかしいのかを示してください。そうしていただかないと、論点がよく分かりません。--みしまるもも会話2014年6月25日 (水) 13:41 (UTC)[返信]

何がおかしいのかといえば時系列も論理もまちがっています。氷鷺さんはそんなことを言ってないじゃないかと抗弁していますが、当たり前です。Shigeru-a24さんが自分で持ち出して自分で自爆したのですから。それを氷鷺さんに押し付けて、Shigeru-a24さんを弁護しようとしても事実に反している以上、無意味です。さて、私がいろいろなことを勝手に決め付けていると仰せなのであれば、次の2点にご回答ください。

  1. 大殿様さんの加筆で「構成」の何がどう変わり、それがどのように記事の質の向上に寄与しているのかご教示ください。
  2. 構成が目次に反映されないのであ れば、では構成とは具体的になんであるのか、私には分かりません。構成とは何を指し、どこを見れば分かるのでしょうか。

--ikedat76会話) 2014年6月25日 (水) 13:50 (UTC) それから、反省点をじっくり考えるのはどこにいったのですか?自分に都合のいいように物事を判断して事実に反した発言する、というのも問題点にあがっていましたし、それは反省点ではないということなのでしょうか。--ikedat76会話2014年6月25日 (水) 14:00 (UTC)[返信]

(ikedat76さんへ) 「構成」というのは、例えば小説では、最初にどういう世界観やテーマにするかを大体考えてから、状況説明、人物・心理描写をどこに組み込み、ストーリー展開をより効果的にする上で大事なものです。そこではどこの部分を膨らますかとか、関係性をどう絡めるかなど複雑な作業です。同じような題材やあらすじでも、作家の構成技術によって、かなり出来が変化するものです。あらすじがよくても、構成でだめになることもあります。
多少ニュアンスが変るかもしれませんが、Wikipediaの「茨城県」記事などの場合も、それを解説するにあたり、地理的事実や歴史等の要素をより解りやすく、上手く組み入れて仕上げていく作業全般のことだと思います。私は大殿様さんの加筆の「冒頭部」から「特徴」あたりまでを見て投票しましたが、冒頭部に県名の由来があったり、「概要」でも前の版より、観光スポットに言及する要素が盛り込まれてましたので、構成が変っていたと思います。そこの「目次」自体が変っていなくても、このように中身の要素の組み入れや膨らみがあるので、必ずしも目次として反映されるとは限りません。私は、「特徴」あたりまで見て、分かりやすく読み進みやすくなったと、その時に感じたので、後は執筆者の方を信頼して投票しました。
Shigeru-a24さん自身は、何を構成の変化として、良いと思ったのかは分かりませんが、「大幅に情報量が増えて、全体とは言わないものの部分的には読みやすくなった部分も多々あります」とも発言していますので、歴史のところなどがだいぶ膨らんでいたので、そこを評価したのかもしれません。私はShigeru-a24さんではないので分かりませんから、そういったことも含めて、あの時あんな早急にコメント依頼を出される前に、ikedat76さんとShigeru-a24さんがもっと多く対話をよくすればよかったのではないかと思います。「正確性」ということも、市町村郡が問題視されて一番に掲げられていたのは事実ですから、それを重大視して、Shigeru-a24さんもああいうコメントをしたのではないでしょうか。
それから、Shigeru-a24さんは推薦時に、「スタイルに個性的な部分がある点(「茨城県」やルビの過剰使用)」があることは気づいていたと依頼内で発言はしていますが、「節組み記号のミス」(目次の齟齬)に関しては、「推薦時に気づいていた」とは、どこでも発言はしていません。ikedat76さんもそこのところはよく冷静になってお読みになったらいかがですか。Shigeru-a24さんが言っていたのは、氷鷺さんの発言を受けて、目次の齟齬があっても、「ただちに荒らしとは断定できない」、「目次つまり節組みの適切さによって荒らし判定を行う手法は不適切」という見解を示しただけだと思いますが。--みしまるもも会話2014年6月26日 (木) 02:25 (UTC)[返信]
段階的に説明します。
まずこれが大殿様さんによる加筆です。
「茨城県の農業産出高は本州一である」という記述、これは脚注で[27]を出典としていることが分かります。リンク先を見ると、農業生産高は確かに本州では一番ですが、リンク先の出典は茨城県が本州一だということをそこまで強調していない、1位の北海道に次いで2位としています。また、千葉県に農業産出高2位の座を明け渡していた時期もあるようです。しかもこれは平成22年2月に最終更新がされたデータでそれ以降のデータが反映されていません。この一つの出典のみをもってして「茨城県の農業産出高は本州一」と書く、それは恣意的な印象操作と解釈されるのも仕方がないでしょう。
次です。目次で立法府、司法府、行政府と呼称しているのは不適切、というものですが、近代日本においては立法府=立法機関は国会のことを意味するようなので、そこが一目見ただけでおかしいと指摘されたのだと思います。また行政府=行政機関については立法府と対を成す存在とみなされているようですが、行政機関を「地方公共団体の行政事務を行う機関」と定義するのも間違ってはいないようで[28]、これについては「一目見ただけで明白に誤謬」と言い切れるほどのものなのかとも思います。
「特徴」の節、「日本最大の農業県」「「茨城県は土地が広く、土も肥え、海や山の産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国(常世の国)のようだ」「茨城県に愛着を持つ同県民は約9割、茨城県に誇りを持つ同県民は7割を超えている」「茨城県民は約8割が現在の暮らし向きに満足」など、殊更に茨城県を賛美する記述が強調されている。大殿様さんはWikipedia:完璧な記事に基づいて加筆したと仰せですが、Wikipedia:完璧な記事における、「まず、主題に関する定義または明確な説明で始まります。 」「そのトピックに対して複数のアプローチがあることを深く認識し、そのことを追求します。 」「完全に中立です」などの文章と、大殿様さんの加筆は乖離しています。ただ、そもそもWikipedia:完璧な記事さえ、「完璧な記事など存在しない」と言っているのですから別に完璧である必要はありません。ただ、私が太字で強調した部分は完璧でなくともウィキペディアの記事としての質を求める上では、少なくとも強化記事に選出されるようなものについては注視、重視した方がよいと思います。
画像について、水戸徳川家の画像が多すぎです。これらの画像は、貼るならむしろ水戸徳川家関連のそれぞれの記事でやるべきで、茨城県の記事を説明する上で本当に必要なものを最小限掲載するべきだと考えます。
「県民性」の節も、やはり強調が多すぎ、茨城県を過剰に賛美する方向へ誘導しているような印象を与えます。
キットカットの画像とファイナルファンタジーのロゴの画像を茨城県の記事に張るのはあきらかにおかしいです。キットカットが稲敷市のネスレ霞ヶ浦工場で生産しているという程度の関連性でキットカットの画像を茨城県の記事に貼付するのはやりすぎです。ファイナルファンタジーに至っては、坂口博信氏が茨城出身だったという理由だけでロゴの画像を張り付けている。これが容認されると野村哲也氏や堀井雄二氏などの出身県にもファイナルファンタジーやドラゴンクエストのロゴの画像が貼付されることが事実上容認されてしまい多くの記事が滅茶苦茶になる危険性があります。
とりあえず、気づいたところだけ述べました。--ShellSquid/履歴 2014年6月26日 (木) 08:51 (UTC)[返信]
上のコメントの趣旨について簡潔に申し上げます。要約すれば「一目見ておかしいと分かる」「荒らしとみなしてよいだろう」という意見には私は同意できませんが、2、3回でも流し読みすればおかしい所の方が多いことが分かるだろうということです。みしまるもも様は、「あらすじがよくても、構成でだめになることもあります。」と仰せです。仰る通りです。大殿様さんが加筆した版はあらすじ以上に構成が滅茶苦茶です。
さらに、みしまるもも様は「加筆の「冒頭部」から「特徴」あたりまでを見て投票した」と仰っています。つまり「最初の方だけ見て、全部見ないで投票した」と自ら宣言しているわけです。これは「あらすじがよくても、構成で駄目になる」という御自身の発言と、矛盾されていませんか。もう一度差分を確認してください。特に「県民性」の節の辺りを精読する必要はないので通読だけでもしてください。その上で再度の判断をお願いします。--ShellSquid/履歴 2014年6月26日 (木) 09:00 (UTC)[返信]

(ShellSquidさんへ) 「特徴」の「茨城県は土地が広く、土も肥え、海や山の産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国(常世の国)のようだ」というのは文献の中の「引用部分」だし、他の満足度の賛美的な文言も、「出典付きのアンケート部分」なので、私は特にそれほど違和感はなかったです。「県民性」のところは今はじめてざっと読みましたが、確かに虚偽や大言壮語が見られますが、一応は複数の出典に基づいて書いているようですから、そういう筆が滑ったような変なところを直して編集すれば、県民性の特性の説明の項目としては、そうおかしくないと思いました。大袈裟な表現をやめて普通の文体に直せば、説明の流れとしては別にいいんじゃないでしょうか。ただし、この情報もウィキペディアでは余計な情報とされるのなら、仕方ありませんが。--みしまるもも会話) 2014年6月26日 (木) 11:46 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年6月26日 (木) 12:32 (UTC)[返信]

茨城県の編集を行う立場として、みしまるももさんの疑問に関して意見申し上げます。まず、大殿様さんは「713年茨城県内で編纂された『常陸国風土記』の中にも「茨城県は土地が広く、土も肥え、海や山の産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国(常世の国)のようだ」と記されている。」と加筆しておりますが、常陸国風土記は文献名が示すように「常陸国」の風土記であり、茨城県は常陸国と下総国の北西部(一部ではなく、利根川から埼玉栃木県境までの複数の郡に跨る範囲)で構成されていることからも、文献が示す範囲とも異なります。もしこれに「それほど違和感はなかった」と本当に思われたのであれば、茨城県の記事に関する基本的事項を理解されていないと存じますので、茨城県の記事の内容に関して触れられない方が宜しいかと存じます。また、県民性についてですが、茨城県は旧常陸国と旧下総国(千葉県を経て茨城県に移管)に跨っており、北部と南部で「県北」の一般的な読みが違うほど地域差が大きい場所でもあります。学園都市やベッドタウン化による地域性の変化も大きく、県全体の地域性を語ることは極めて難しいと茨城県民の私は感じております。データ的な部分に関しましても、全国を対象とした郷土愛調査[29]では、茨城県民の「愛着度(郷土愛)」は下位に位置しますが、茨城県が実施すると[30]のように愛着を持っている人が9割になるようです。同レベルの指標ではないとはいえ、どこがデータを取るかによってもデータに差があり、県民性解説が困難であることから、茨城県の記事へは記載はしない方向を支持致します(「人国記」の記事を作り、人国記の内容の解説として地域性のことに触れる等はその限りではありません)。--Otherde会話2014年6月26日 (木) 14:32 (UTC)[返信]
出典つきのアンケート部分だから違和感はなかった。とのことですが、これについても説明します。「茨城県に愛着を持つ同県民は約9割、茨城県に誇りを持つ同県民は7割を超えている」の出典はコレ[31]です。コレの「茨城県に対する愛着」という節ですね。引用すると「愛着を「持っている」(47.4%)と「どちらかといえば持っている」(40.1%)を合わせた【持っている】(87.5%)が約9割となっている。」となっています。茨城県公式サイトの文章ですが、この出典の時点でやっぱり茨城県としては自分の県の素晴らしさをアピールしたいんだろうなという印象が湧きましたがそれはどうでもいいです。大殿様さんは確かにこれを出典に加筆してます。ですが大殿様さん自身が脚注で、「愛着を「持っている」(47.4%)と「どちらかといえば持っている」(40.1%)をあわせた、少なくとも愛着を持っている者の割合は87.5%。」と書いてある。それに対して本文は、「茨城県に愛着を持つ同県民は約9割、茨城県に誇りを持つ同県民は7割を超えている」と、強調された形でこう書かれている。4割の「どちらかと言えば郷土愛がある」も含めて言うのは恣意的な印象操作ではないでしょうか。「茨城県に対する誇り」の節も、「どちらかと言えば茨城県への誇りがある」の44.9%と、「持っている」の26.8%を合計して、「誇りを持っている県民が7割を超えている」と大殿様さんは加筆したそうですが、これについてもどうなんでしょうか。茨城県公式サイトとはいえこれは出典の時点でなんか印象操作がされているイメージがあります。「どちらかと言えば」という前置きの玉虫色の44.9%がその7割に含まれていることを、大殿様の加筆は脚注で申し訳程度に説明こそしているものの、本文では強調を使って一緒くたにまとめ、茨城県に誇りを抱いている県民、茨城県への郷土愛がある県民がこんなにいる、と宣伝するかの如く解説しています。
「確かに虚偽や大言壮語が見られますが」とみしまるももさんは仰せです。大言壮語もそれはそれで問題ですがまだ修正すればどうとでもなりますが、虚偽があるのは明らかに問題ではないでしょうか。「一応は複数の出典に基づいて書いているようですから、そういう筆が滑ったような変なところを直して編集すれば、県民性の特性の説明の項目としては、そうおかしくないと思いました。」と仰せです。しかし、出典を茨城県を過剰に賛美するという目的の為に歪曲、あるいは出典がそもそも印象操作の疑いがあるものを取捨選択している傾向が見られます。--ShellSquid/履歴 2014年6月26日 (木) 23:57 (UTC)[返信]
常陸国風土記について。大殿様さんの加筆によれば、「茨城県は、農業産出額が本州一と日本最大の農業県である(ここで『北海道は道である』などの脚注つき)。このため茨城県は農家人口や農業就業人口、耕地面積割合が日本一、且つ多数の農作物・水産物・畜産物で共に日本一の産出額を持つ(後述)。この事は古代から同じだったようで、713年茨城県内で編纂された『常陸国風土記』の中にも「茨城県は土地が広く、土も肥え、海や山の産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国(常世の国)のようだ」と記されている。」と書かれています。私が強調した部分から、「茨城県は~日本一の産出額を持つ(後述)」と「713年茨城県内で編纂された~天国(常世の国)のようだ」は「この事は古代から同じだったようで」によって連結していると考えられます。Otherdeさんからの指摘はありますが、それとは別の観点から問題を指摘します。『常陸国風土記』による引用は、常陸国が肥沃で面積が広く、天国の如く住み心地が良いということを解説しているだけです。それを、「日本最大の農業県」「農家人口・農業就業人口・耕地面積割合が日本一の県」「多数の農作物・水産物・畜産物で共に日本一の産出額を持つ」の根拠とする(この事は古代から同じだったようで)というのはおかしいと思います。確かにメロンを始め茨城県は様々な農作物・水産物・畜産物の産出額で日本一のデータを出していることが大殿様さんの提示した出典などからも理解できます。ですがこの書き方は大言壮語どころか相応の歪曲が入った文章だと考えます。--ShellSquid/履歴 2014年6月27日 (金) 00:26 (UTC)[返信]

(Otherdeさんへ) Otherdeさん、詳しいご説明ありがとうございました。そういったことに気づかずに投票してしまい、申し訳ありませんでした。私はもちろん地理に詳しい人間ではないので、茨城県の記事を編集つもりは毛頭ありませんのでご了承ください。

(ShellSquidさんへ) 私はShellSquidさんのように、そこまで出典を踏んで細かく調べて投票したわけではなく、アンケートとして、ああそうなんだと思って読み流してしまったので、その点もお詫びいたします。いろいろと詳しく教えてくださりありがとうございました。これからは自分の分野外の記事を読んでも投票はいたしません。--みしまるもも会話2014年6月27日 (金) 00:43 (UTC)[返信]

頭痛のコメント以降[編集]

コメント欄の小見出しが被依頼者の返信用に使われていて議論を見返すのに不便でしたので、便宜的にKs aka 98氏のコメント時点を区切りとして小見出しを変更しました。--新続頭痛会話2014年6月30日 (月) 15:21 (UTC)[返信]

コメント Wikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月での問題がメインになってしまっているようですが、とりあえず当コメント依頼の本来の趣旨の部分からコメントします。

  • ノート:パチンコでの議論について)まず利用者:Ks aka 98さんが指摘されている、「「パチンコ」という項目の編集における議論関するコメント依頼」として出すべきだった、という点ですが、依頼者自身が疑義を呈しているように、的を得た指摘ではないでしょう。依頼者が問題としているのは被依頼者の議論運びの仕方に対する疑念とそれに対するコメントの依頼であって、現状の記事をどのように書くか、というところではそもそもなかったはずです。論点となっている編集自体が数年も前のことなのですから。何より問題とされているところのものが「利用者における何らかの問題」なのであれば、仮に特定の個別議論を解決させたとしても本質的な解決にはなりません。その利用者は自分の問題に気づくことができずに同じ事を繰り返すでしょうから。そして被依頼者がここ1年ほどの間に議論において起こし続けている問題というのはまさにそういう性質のものだと思います。ノート:パチンコの議論は途中から追っていたのですが、直近の鉤括弧に関する議論を含め、私と被依頼者の間で過去に行われた議論の様相と非常に似通ったものになっていると思いました。
    • ノート:パチンコで話し合われていた問題は、要するに依頼者によるこの差し戻しが前後の事情をかんがみて正当なものであったか、というほとんどその一点でしょう。結論から言えば私はこの編集は正当なものと考えます。依頼者は編集の際にノートへの参照を要約欄に示し、出典の質に問題があること、出典の内容が記事本文および文脈とがしっかり対応していないことを一通り説明されています。一業界に対し違法性の疑念というところまで踏み込んだ記述を行うのであれば情報源の質や記事本文との正確な対応に気をつけるべきなのは当たり前で、依頼者の説明を読んだ上で見れば、差し戻しされた版はそれができているようには見えません(それ以前に新聞記事や雑誌記事などの断片的な出典のみから構成すべき記事主題であるかどうかが疑問ですが)。問題となっている事柄について持っているべき知識を有さず、このような編集を「あまり「中立的」とは見えない面も見えました」などと軽々しく批評した被依頼者は批判されて然るべきですし、依頼者がこの点を追及されたのも正当な行動であったと思います。他者の編集の中立性というところまで言及しておきながら、「思ったことをただ言ったまでのことです」「パチンコに何の思い入れも、強い反発もないし、Nazoxさんのように詳しくはないので。」と言って相手の主張や説明に対する理解を避けようとしたり、説明責任を回避しようとしたりする、これが「コミュニティを疲弊させるユーザ」の行動でなければなんだ、と思います。差し戻しで除去された部分も別の書き方をすれば掲載できたのではないか、という意見も、それをするためには文面だけでなく文脈・節構成から見直さなければならないのだということを考えれば、この時点の差し戻しの正当性に対する批判にはならないでしょう。ATMに関するところは「警察との癒着」に追記することを考えるなどもできたと思いますが、この点は依頼者もコメントアウトというかたちでノートで一定期間確認を取るという形を取っていますし、理解できる編集です。
    • 上の点の議論に続く、被依頼者によって新たに提示された参議員会の資料の話は、問題となっている「差し戻し」の時点で提示されていたものでない以上すでに脱線です。このような新たな資料を以って「違法性を問う声が現にある」→「差し戻しには異論の余地があった」などと主張するのは論理的に無理であるし論点ずらし(ストローマン)でしょう。依頼者が問題視しているのは資料の適切さとその記事内の記述における適切な位置づけであって「違法性を問う声のあるなし」ではありません。適切な構成と位置づけのもとで記述すべきだと依頼者も表明されているし、記事内容を整え正確性をチェックしている編集者の見解としては至当なものです。依頼者のほうも信頼できる情報源の評価の仕方に不自然な点はありますし、Ks aka 98氏の言われるとおり説明が十分でなかった点もあるかもしれませんが、議論中でも風適法等について言及されている以上、そうした前提知識を調べようともしないで延々と自説をを展開していた被依頼者のそれと比較できるような問題であるとは思えません。議論が座礁したのは9割以上被依頼者の議論態度の問題に帰せられると思います。
    • 議事録の資料が出てきて以降の被依頼者の意見は特に問題が顕著です。2014年5月8日 (木) 07:47 (UTC)の「Nazoxさんのおっしゃるように、大門議員の質問内容や意図は~、現行のパチンコ営業の「合法性について疑問」を呈していることになります。」などは「現状違法とされている換金方式」の話と「三点方式による換金」の話とを混同しているようにしか見えないし、このような一次資料中の部分的な発言を根拠に自説の正しさを延々と主張していることがそもそもおかしいでしょう。その次の2014年5月24日 (土) 11:18 (UTC)の被依頼者のコメントも、「換金方法に対する疑問の声」があることを認めた上で、それを記載するなら中立性・正確性に配慮しつつ適切な資料をもとに適切な文脈で記載されなければならない、ということを主張されている依頼者の直前のコメントの趣旨をなにも踏まえられておらず、その前のコメントと同じ趣旨のことを繰り返して「やっぱり差し戻しには問題があった」という自分の主張を独善的に繰り返しているだけです。このような仕方で議論が成立するわけはありません。
  • 鉤括弧の議論における同様の問題について)この議事録の件に典型的に見られるような、「ソースに書かれていないことでも、三段論法的な飛躍で都合の良い解釈をする」は、Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも‎で他から問題視されていた鉤括弧の議論において座礁の主要な原因となっていたものでした。被依頼者は要するに「日本文学では長編小説と短編小説で別の鉤括弧(『』「」)を使うことはしない」という主張を延々と繰り返していたのですが、その主張の仕方も私が示した文章例や全集の凡例をああだこうだと理屈をつけてことごとく却下する、というだけのもので、当の主張の正しさが客観的に検証できるような根拠はついぞ示されませんでした。かつ、仮に「日本文学でそのような表記がされない」としてもそれは論理的に言ってWPのガイドライン解釈に際する直接の論拠とはなりえない、という第三者を交えて行った説明も結局最後まで理解されなかったようです。私が議論を打ち切った後に行われた被依頼者のコメントは、Ks aka 98氏、ShellSquid氏に対し「もう一度よく自分の反省点を考えてみます」と言われた後で行われたものですが、反省の上に立って何かを理解されたようには見えません。相手の言っていることの内実を把握せず、相手が間違っていて自分は正しかった、というこれまでの主張をただ繰り返しているだけです[32][33]
  • 被依頼者の問題点の本質)Ks aka 98氏、ShellSquid氏は、「できるだけ知らないことには首を突っ込まない」「御自身の執筆分野と関係ない議論、及び、他者へのコメント依頼・ブロック依頼から、手を引く、関与しない」ことを被依頼者に助言されています。しかし被依頼者の執筆分野である文学に関わる議論において上のような意見の展開が行われている以上、「知らないことに首を突っ込」んでいるかどうかが被依頼者の問題の本質的な部分に関わるとは思えません。「情報をインプットし・理解し・アウトプットする、その前2段に問題がある」「方針がどうのという以前の問題として、情報をまとめて文章を書くことを求められている場に参加するに当たって、大前提を欠いている」(ikedat76氏)という指摘が今のところ本質に近いものでしょう。どういう文章を元にどこまでのことが言えて、どこまでのことが言えないか、ある情報をどのような仕方で扱うべきか、そういったリテラシーに関わる基底的な常識や感覚が欠如しており、現在に至るまでそのことに本人がまったく自覚できないまま行動している、そういった問題だと思います。
  • 上記に関わる、被依頼者の執筆記事の質について)「リテラシー」に関わる上述の問題は執筆記事にも現われていると思います。過去のコメント依頼に寄せられているコメントなどでは被依頼者の執筆者としての能力を買っておられる方も散見するのですが、同分野で活動している者からすれば、被依頼者は質の高い書き手であるとはとても言えません。
    • 被依頼者には以前、記事中に評論や解説文などからの直接引用があまりに多すぎる、という点を指摘し、この点をめぐってコメント依頼にまで発展しました。結局著作権上は問題なく、被依頼者もなる引用の量を減らし自分の言葉で説明するというところに一定の理解が得られたらしいということもあってその議論は収束したのですが、これも一度指摘したように、引用を減らしたように見えるところも実質ただ引用符を取ったというだけであったりして、地の文との区別がなくなり却って悪くなった面も見られます。なにより「資料をもとにして書く」という、最も基本的なところが本質的にできておらず、「他者の解説文からの引用の羅列」になってしまっている点は変わりません。このような書き方をされている記事が毎月のように新着記事として紹介されているわけで、この分野の記事の質を高めたいと思っているものからすれば正直「勘弁してくれ」とでも言いたい状況です。
    • で、上のコメント依頼以降は被依頼者との衝突を避けるために基本的に被依頼者の記事は閲覧自体なるべくしないようにしていたのですが、最近書かれたゼーロンは参考文献に手持ちの資料があったので、現在どのような書き方をされているか確認してみました。たとえば「経済的窮地」という節は、現在の版[34]では以下のような文章になっています。
当時の牧野信一は、郷里である小田原と、編集者としての生活拠点である東京とを何度となく往復するような生活であったが、小田原では自分名義の家屋敷や土地を親類に詐取されたり、執達吏に差押えられたりする羽目に陥っていた[6]。その一方、東京では優れた文学的才能を秘めた友人たちに取り巻かれて、生涯で最も意気軒昂としていた時期でもあった[6]。 牧野は小田原での経済的窮乏化のため、自分の足場が崩れ去るような心理的な遍迫感に悩まされたが、東京で有為の若者たちとの交遊を重ねた自信をもって、この禍に押しつぶされまいと、文学的な転換装置を苦心の末に発明工夫し、窮地を精神的に切り抜けた[6]。牧野は、失われた物質的富を精神的富に変換させて作品世界のなかに転生させるという一種の「錬金術的作業」に従事し、『ゼーロン』を執筆することに見事に成功する[6]。
出典に使われている堀切直人による解説文(岩波文庫『ゼーロン・淡雪』305-6頁の11行分)は、以下のようなものです。(実際の文には途中に改行はありませんが、対照しやすいように入れます)
当時、牧野信一は郷里である小田原と編集者としての生活の拠点である東京とを何度となく往復するような暮らしぶりであったが、小田原では自分名義の家屋敷や土地を親類に詐取されたり、執達吏に差し押さえられたりする羽目におちいり、一方、東京ではすぐれた文学的才能を秘めた友人たちに取り巻かれて、生涯で最も意気軒昂としていた。 小田原での身ぐるみ剥されるような経済的窮乏化のため、彼は自分の足場が崩れ去るような心理的逼迫感に悩まされた。しかし、作家はこの禍に押しつぶされまいとして、禍を転じて福となすような文学的転換装置を苦心の末に発明工夫し、これをもって窮境を精神的に切り抜けることにみごとに成功した。(一行略)東京での有為の若者たちと交友を重ねたこの少壮作家は満々たる自信をもって失われた物質的富を精神的富に変換させて作品世界のなかに転生させるという、一種の錬金術的作業に従事したのだ。
同じ出典を使って書かれているほかの部分も大同小異です。2、3の文言を言い換えたり、区切りを変えたり、多少省略したりしているだけでほとんど「コピペ」ですよね。ちなみに「あらすじ」も小説自体の文章を一文単位くらいで改変したものをパッチワークみたいに繋いで書いているという感じのようで、プロットを抽出して書く、という当たり前の書き方ができていません(そのせいで文庫で35頁25頁しかない「ゼーロン」のあらすじがぎっしり9段落にもなる)。著作権上の問題がないのかどうかまず疑問ですが、この場に著作権に詳しい方もおられますのでその点の判断はそちらに任せます。著作権侵害かどうかという以前に、上のような書き方は通常の文章作法としてありえないでしょう。
    • 他者の文献をもとにして何かを書く際には、要点を要約しつつキーワードだけ括弧に入れたり、特に重要なくだりを地の文とのバランスを考えつつ引用したり、通常はそういうことをします。被依頼者は文学の論文や解説をたくさん読んだ、というようなことを主張されています。記事を見ると多くの解説文が出典としてあげられていますから、そうしたものを「見て」はいるのでしょう。しかしそうしたものの扱い方を心得ていなければ意味がありません。議論における問題、執筆における問題、いずれから見ても被依頼者にはウィキペディアでの活動に求められる「読み書き」に関する最低限の常識的感覚が備わっていない、と考えざるを得ません。--新続頭痛会話) 2014年6月30日 (月) 15:21 (UTC)--新続頭痛会話2014年7月1日 (火) 12:03 (UTC)修正[返信]
      • 著作権については江差追分事件、並びに日経コムライン事件が参考になると思われます。思想または感情を表現した創作的表現が著作権の保護対象であり、この解説は堀切直人氏による思想及び感情を文章化させたものでしょう。「郷里である小田原と~往復するような生活」は、ただの事実です。小田原で詐取された、差し押さえられた、これも事実です。ただし「意気軒昂」「足場が崩れ去るような心理的逼迫感」「この禍に押しつぶされまいと」「文学的な転換装置を苦心の末に発明工夫」「失われた物質的富を~連記述的作業に従事」辺りは、堀切直人氏の感想を文章として表現させたものです。文章の「主」と「従」の関係を考慮しても適切な引用になっているかどうか疑わしいです。そしてただの事実についても、日経コムライン事件の判例が示すように、「事実群からの取捨選択、及び事実の配列」という過程において、筆者の創作性が発揮されることがあり、そうしたものが著作物と見なされたこともあります。
      • 上のコメントはあくまで私の解釈です。頭痛さんにおかれましては私の言葉を鵜呑みにしないでください。著作権法については私よりもっと詳しい人がいるはずなのでその人達のコメントも聞いてからの方が良いでしょう。あと、「あらすじ」についても、パッチワークみたいに繋いで書いているかどうか、頭痛さんのコメントだけでは抽象的で良く分かりません。自分らが「ゼーロン」を読んで確かめればそれでよいのですが、こうした案件で問題を突きつけるなら根拠はより明確に提示した方がみしまるももさんも納得されるでしょうしウィキペディア全体としても後々まで利用者が行動しやすくなるでしょう。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 02:00 (UTC)[返信]
          • (追記)「根拠はより明確に提示した方が」は、著作権というか、みしまるももさんの執筆が著作権法や引用のガイドラインと照らし合わせて適切なものかどうかについてのことです。みしまるももさんの抱える問題は多岐にわたっている模様で、恥ずかしながら私はこうした多岐にわたる問題を解決できるマルチタスク処理能力がないので、とりあえずみしまるももさんの執筆に関する著作権・引用の問題についてのみ言及してゆくつもりです。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 02:18 (UTC)[返信]
            • 「著作権上の問題がないか疑問」と書いたのは「あらすじ」ではなく解説からの流用部分のことです、念のため。牧野の著作権は切れています。ただ、
私は奴らに見つかったぞと焦り、「このゴリアテの馬奴!」と怒号を上げた。右腕を風車のように回転して、コントロールをつけると、ダビデがガテのゴリアテを殺した投石具スリングもどきの勢いで、はっしと、ゼーロンを目がけて投げつけた石は、必死の一投の狙い違わず、ゼーロンの臀部に、目醒しいデッドボールとなり、ゼーロンは後脚で空気を蹴って飛び出した。私は全速力で追い縋り、飛鳥の早業で跳ねあがるや、昔、大力サムソンが驢馬の顎骨を引き抜いた要領に端を発する模範的アッパー・カットの一撃を喰わすが、惜しいかな、それは、ゼーロンが首を半鐘の方に振り向けた瞬間で、私の拳は空しく空を突きあげ、余勢を喰って、あざみの花の中にもんどりを打った。(ゼーロン#あらすじ
私は、唇を噛み、「このゴリアテの馬奴!」と怒号すると同時に、哀れな右腕を風車のように回転して、コントロールをつけると、ダビデがガテのゴリアテを殺した投石器(スリング)もどきの勢いで、はっしと、ゼーロンを目がけて投げつけた石は、この必死の一投のねらい違わず、ゼーロンの臀部に、目醒ましいデッドボールとなった。 ゼーロンは後脚で空気を蹴って飛び出した。続け打ちにして、駆け抜けてしまわなければならない。私は(略)全速力で追い縋ると(略)えいッ! という掛け声と一緒に、飛鳥の早業で跳ねあがるや、昔、大力サムソンが驢馬の顎骨を引き抜いた要領に端を発する模範的アッパーカットの一撃を喰わした。惜しい哉(かな)、それは、ゼーロンが首を半鐘の方に振り向けた瞬間で、私の拳は空しく空を突きあげてしまった。余勢を喰って、私はあざみの花の中にもんどりを打った。(岩波文庫『ゼーロン・淡雪』54頁)
あらすじでも一致度の高い部分はこんな風ですね。「あらすじ」の書き方として異質なものですし(WP:PLOTSUMも参照)、著作権保護期間の満了していない作品で同じ事をやっていたらまずいんじゃないですかね。もう一回書きますが、こうしたものが一定の水準に達したものと見なされて毎月のように新着記事として紹介されているわけです。--新続頭痛会話2014年7月1日 (火) 12:01 (UTC)[返信]

「ゼーロン」のあらすじについては、そのままの風味を活かすために、牧野信一独特の文体の特徴が表れている、その「有名な部分」は、そのままなるべく取り入れ、最後の一節の有名なところも彼の文体を活かしたかったので、元の原作を少し入れました。ただし「全体的なあらすじ」は自分のまとめで書いていますので、そのように一部だけをあげつらってもらっては困ります。それから、頭痛さんは、そこまで私にいろいろと注文を付けるのなら、「ゼーロン」のあらすじのお手本を、ご自分のサンドボックスできちんと示していただけますか? なるべく原作の風味やプロットを損なわないようにお願いいたします。

あと、頭痛さんはそこで元の原作や、評論家の解説の原文を示すときに、(略)とか(一行略)としないで、どうせ比べるのならば、全部正確に一字一句きちんと書いてください。何か、部分的に省いて、より似せるような操作はしないでください。お願いします。それと「毎月のように」と、私がどの記事のあらすじでも、そのような採用の仕方をしているかのような「決めつけ」はやめていただきたいと思います。著作権が切れていないもので、そのように多くを採用したものはありません。--みしまるもも会話) 2014年7月1日 (火) 12:34 (UTC)--みしまるもも会話2014年7月1日 (火) 12:49 (UTC)[返信]

(インデント戻し)Wikipedia:あらすじの書き方は、現在の所従うことが推奨されていますが拘束力のある方針ではないと書かれています。私も通読しましたが、「異質」と断言すべきほどのものでもない(文脈から、「異質」は否定的な意味で使われていると考えます)と思います。ただ、著作権の切れていない文章で、そのあらすじのようなことをやったら不味いというのは同意します。ゼーロンについても、同じ単語を同じ文脈で使いすぎていると考えます。しかし、著作権は切れていますし、Wikipedia:あらすじの書き方と照合しても、それが記事として望ましいかどうかについては結論が出せるほど話し合いがされていないと思われます(昨年頭痛さんが提出されたコメント依頼を見たうえでそう判断します)。
ただ、「一定の水準に達したものと見なされて毎月のように新着記事として紹介されていた」ことについては、みしまるももさん一人の問題ではなく、投票した人の問題でもあります。恥ずかしながら私もゼーロンを新着記事に投票してしまいました。なので、「こうしたものが一定の水準に達したものとみなされて毎月のように新着記事として紹介されている」ことについては、みしまるももさん一人の問題ではなくなっていると思います。
(みしまるももさんへ)みしまるももさんは虚偽や独自研究はしていないと仰せですが、頭痛さんが問題視しているのは上述の通り、虚偽や独自研究ではないようですので反論のポイントがずれています。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 12:09 (UTC)分かり易く返信ごとに分けました。及び加筆。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 12:14 (UTC)[返信]

(ShellSquidさんへ) 頭痛さんは、私に対して、「読み書き」に関する最低限の常識的感覚が備わっていない、と言っていますので、著作権の問題だけのことではないと私は思いました。言われた側からしたら、とても傷つく言葉でした。--みしまるもも会話2014年7月1日 (火) 12:40 (UTC)[返信]

「異質」というのはガイドラインから見てという話に限定したものではありません(ガイドライン「も」参照と書きました)。作中の表現や文を継ぎ接ぎして作るのは文学作品の「あらすじ」の書き方として普通ではない、一般的な慣行ではない、という話です。少なくとも(被依頼者が自称しているように)文芸評論や研究にある程度通じている者であればこのような書き方にはならないと思います。
ただし、私はガイドラインだけから見ても「異質」と判断します。そこに書かれているように、「あらすじ」は書き方の幅はあれ「筋を解説するもの」であるべきで、元の作品のミニチュア(縮小版)ではありません。--新続頭痛会話2014年7月1日 (火) 12:33 (UTC)[返信]
(みしまるももさんへ)返答、承知しました。とりあえず、頭痛さんの「「読み書き」に関する最低限の常識的感覚が備わっていない」という発言については、今の段階では無視して良いと思います。より深刻なのは引用のガイドラインを逸脱した引用をする、つまり著作権に抵触する危険性のある文章作成です。みしまるももさんは、「著作権が切れていない人物の書いたものついてはそこまで逸脱した引用をしていない」と仰せですが、本当にそうならそれでいいです。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 13:21 (UTC)[返信]
このコメント依頼は、最初、Nazoxさんがみしまるももさんの対話姿勢や理解力について問題提起してコメント依頼したもので、確かに頭痛さんの読み書きが云々という指摘は理解力とは関係のある話だと思いますけど、論点が拡散してしまいます。まずは優先的に解決すべき問題から解決して行った方が対話も円滑に進むと思いますし、他の方との間に生まれた溝も円滑に修復できると思います。
みしまるももさんは複数の方から色々言われて腹が立ったと思います。ただ腹が立ったからと言って怒気の発露の傾向が強くなれば対話不能者の烙印を押される危険性を自ら高めているようなものです。もう一度言いますが頭痛さんが仰っている「「読み書き」に関する最低限の常識的感覚が備わっていない」については今の段階では無視して構わないと思います。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 13:21 (UTC)[返信]
  • コメント みしまるももさんについては、過去からいろんなところで論戦を重ねておられるのを拝見していますが、総じて、ご自身及びご自身の編集を客観視できない方という印象を受けます。私の見立てとしては、ご自身の中にある感覚を正しいものとして、そのことに疑問を持たず、これを支持する資料や意見は当然のように尊重するが、異議を唱えるものについては反発して受け入れない、ということではないかと思います。カギ括弧の論争でいえば、「変だ」という感覚と差し戻し相手への反発、パチンコの件でいえば、ご自身が肩入れしている利用者の編集が差し戻されたことがおかしい、不当だという反発がすべての出発点で、ここから、すでに指摘されているような論理の飛躍、相手の発言の(いっていないことをいったとしたり、ごく一部をすべてであるかのように強調したりなどの)曲解、果ては文学論のようなところまで都合よく解釈するということになっていき、これらを際限なく繰り返して雪だるま式にコメントがふくれあがる、という図式です。かなり以前に、頭痛さんとの絡みでコメント依頼が出された折に、頭痛さんの履歴を追いかけて論難する行為が見られたために、私は他の利用者と協調できないようならブロックに賛成といったことがありますが、その後も、ブロック寸前までいったり実際に短期ブロックされたりしながらも同様の行為を繰り返しているということになるでしょう。感覚や情(これはこれで理由があるもので無視できない)の部分では共有できるところもあるので全否定したくはないのですが、論理面で破綻しているものをまず譲らないので議論は不毛であり、率直に言って、対話の相手としては避けるべきと考えます。
で、このコメントにも被依頼者から長い長い反論が付くと予想していますが、わかっていてどうしてこんな面倒くさいことをする気になったかというと、新続頭痛さんから著作権侵害のおそれについての指摘があった部分について、執筆者の立場として人ごとでないところがあるからです。
みしまるももさんが書かれた記事については読んだことがありません(みしまるももさんだからということではなく、ローカル作業が主体のため)が、新続頭痛さんから今回指摘のあった部分について、ここだけ見ると確かに問題がありそうにも思えます。ただ、実際に私自身が記事を書くときも引用のマークアップを使ったり、カギ括弧を使ったり、あるいは地の文で使ったりいろいろ工夫は考えるにしても、少なくとも部分的にはそんなに違ったことをしているかといえばそうでもないです。現状、すべての文に脚注で出典をつけないと除去してやるぞ、テンプレート貼ってやるぞ、みたいな風潮の下では、「パッチワーク」にならざるを得ない現実と、詳しく書こうとすればするほど元の文章に近づくというジレンマがあります。検証可能性と著作権保護のはざまでこれをどう解決していくかという点は、かなり悩ましいところです。程度問題でしょうが、著作権については、部分的には同じような表現でも全体としては違っている、ということでなんとかクリアしていけないかというようなことを利用者:みっち/記事の書き方という私のエッセイでも述べていますので、お暇なときにでも参照いただければ幸いです。--みっち会話2014年7月1日 (火) 14:04 (UTC)[返信]

最近の被依頼者の投稿を少しさかのぼってみました。著作権の切れていない三島由紀夫、川端康成などの作品記事のあらすじでは確かに上のような極端な流用は基本的には行われていないようです(切れているものでは二流の人がひどいですね)。ただエッセイの文化防衛論葉隠入門の「内容・あらまし」の部分は分量と文体から見て「ゼーロン」と同じようなやり方で書かれている可能性があるのではないかと思います。

また比較的短い記事では上の堀切直人の解説文のようなやり方での解説は書かれていないようですが、同じ出典が元になっている牧野信一の「潜在的な狂気」節は似たような書き方で書かれておりこれも危ないのではないかと思います。仮に上記の例が権利侵害に当たるのであれば、他者の文言の使用に関し侵害か否かの境界を被依頼者が理解できていなかったということですから、過去のまとまった量の執筆記事・加筆記事はすべて注意を要すると思います。文化防衛論葉隠入門の導入部の文章、鹿鳴館 (戯曲)の「概要」の前半部分とかは大丈夫なのでしょうか。--新続頭痛会話2014年7月1日 (火) 19:24 (UTC)[返信]


鹿鳴館の概要は、私だけが書いたものではありませんから、元に誰かが書いたものを消さないようにして、その記述と同じようなことを言っている解説者の出典を私が後から付記して、補足の記述を書いたりしたと思います。そして、鹿鳴館の解説は大体、おしなべて誰でも同じように、「俳優の力量が試される」といった評価がなされていますので、特にその評論家独自の表現というものでもなく、それを言っている評論家自体も、三島由紀夫本人の自作解説(杉村春子という俳優の力量のために書いたという主旨)や、誰かの評価を踏襲した表現で書いていたりします。
葉隠入門や文化防衛論の内容(あらまし部)は、その主張として重要だと思われるところは、その主旨を壊さずに生かしたいので、部分的に大事な文章は引用が多くなっています。ただ、分量のある評論ですから、全体的なまとめとしてはだいぶ省いており、私自身の主張などは全くいれていませんので、「記事全体の解説」の主従から見れば、大丈夫かと思いましたが、もしも法律的にはっきりと著作権侵害に違反するというのであれば直します。葉隠入門や文化防衛論の「導入部」については、きちんと私がその作品を読んだ上で考えた要約と、出典を加味した言葉でまとめており、出典をそのままを書いていないことは、確認していただければ分かると思いますので、ただの推測のみで言わないでいただきたいと思います。--みしまるもも会話) 2014年7月2日 (水) 02:01 (UTC)--みしまるもも会話2014年7月2日 (水) 02:25 (UTC)[返信]
(みしまるももさんへ)「葉隠入門」ですが私も確か所持していたはずなので、どこかで埃被ってると思いますが探して再検証に協力しようと思います。あと、「著作権に違反するのであれば直す」とのことですが、著作権に抵触していた場合直すだけではなく特定版削除が必要になります。(Wikipedia:削除の方針参照)。大変失礼なことを申し上げますが、みしまるももさんのコメントを見る限り、みしまるももさんの現在の著作権に対する認識のまま執筆を続けてもらうと特定版削除が増えたり、最悪Wikimedia財団が誰かから訴訟されたり、そういうリスクが高くなるので、一旦筆を休めてください。繰り返しますが著作権が切れている文章については今の所はそのままで問題ないと思います。(訴訟される可能性すらない=法的リスクがないので)--ShellSquid/履歴 2014年7月2日 (水) 04:31 (UTC)[返信]
三島事件も大部分が被依頼者の執筆のようですが、このあたりも心配ですね。私は休日まで図書館には出向けませんが、議論だけでなくこんなところにまで時間を使わされるのかと思うと・・・
著作権上どうかという点は利用者:Ks aka 98氏のコメントを待っているところですが、別件に取り掛かっておられるようなのでしばらく待っても付かないようでしたらもう少し調べた上で私から削除依頼を出そうかと思います。
被依頼者のコメントですが、被依頼者は「客観的」という日本語が理解できていないのだとしか思えません。「自分は知っている」「自分は見た」で周囲がわかるわけがない。いくら文芸書を見ていようとそれはあなたの経験の範囲の話を出ることはありません。私の執筆記事へのクレームに関しても自分に都合のいいことだけしか言ってないですね。二次資料に何も目を通さないまま独自研究のおそれなどと言っていた人が何を言っているのかと思います(Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/夜長姫と耳男 20130713)。
日本語の理解力や記事の質の話をしているところで「なぜ私をそこまで追い出したいのか、私にはよく分かりません」、すでに多数の人物から同じような指摘が寄せられているところで「みっちさんはいつもそういうふうに、頭痛さんに「肩入れ」したコメントをするのか私にはよく分かりません」。これだけ周囲から言われながら、いまだ相手の意見を論理的な意見としてではなく、被依頼者にかかわる感情としてしか受け取れていません。このような方とこの上対話が成立する可能性があるとは私には思えないのですが。--新続頭痛会話2014年7月2日 (水) 09:20 (UTC)[返信]

みっちさんへのコメントは、「小説の表記」についてだけのことです。他の件には言及してません。--みしまるもも会話2014年7月2日 (水) 10:48 (UTC)[返信]

上記の作品内容紹介の過剰さに関連したゼーロンでの編集に関し、被依頼者から議論を経ない独断によるテンプレート剥しがありました[35]。同様の行為はWikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140302でも依頼提出者から指摘され問題視されていたものです。周囲からの指摘を行動の改善に繋げられていない, という問題点の一端が現われているように思われます。--新続頭痛会話2014年7月2日 (水) 17:45 (UTC)[返信]

(追記)関連方針プロジェクト:フィクション/登場人物と設定の記述のガイドラインでは、「個々の作中要素の紹介は、適切な文脈に短い文章で組み入れられているのが理想であり、あらすじ中で一纏めに言及できるのであればまとめて記述してください。作中要素への言及はその作品の概要を理解する上で不可欠なものに絞り、大筋に絡まないような事物は作品記事内では記載しないことが好まれます」とあります。こうした指針の趣旨を無視し「拘束力のある方針ではない」「節を設けることは禁じられていない」[36]と自分に都合のよい部分だけに着目しテンプレート剥しを敢行するのですから、体のいいガイドライン無視と同じことでしょう。鉤括弧の議論における様々な牽強付会と同じものを感じます。
みっちさんは「対話の相手としては避けるべき」とコメントされています。避けるだけで何も問題が生じないならそれでよろしいでしょうが、こうした広く影響力のあるガイドラインの運用・解釈に関わる編集にまで依頼者の問題が関わってくるのであれば「議論の相手をするのを避ける」だけでは済まないのは明らかだと思います。方針・ガイドラインを吟味しそれに沿って編集なり議論なりを行うという「共同作業」の基本がまったく身に付いておらず、被依頼者が関わっている場所ではこのような意味での「共同作業」が成り立ちません。--新続頭痛会話2014年7月2日 (水) 18:51 (UTC)[返信]

万能細胞の件は、私以外の方からも「タグは無用」として剥されておりました。きちんとした冷静な査読をお願いいたします。--みしまるもも会話2014年7月2日 (水) 23:51 (UTC)[返信]

「私以外の方」というのは現在ブロック依頼において方針理解や判断力の浅さが非常に疑問視されているこの方のことですか。これをもってコメント依頼で他から問題視されていたことを否定し、タグ剥しが問題のない行為であったと主張するわけですか?--新続頭痛会話2014年7月3日 (木) 00:43 (UTC)[返信]
頭痛さん、ちょっと外から見てて異常だよ。ここはみんなの意見を募るコメント依頼でしょ?頭痛さんだけで、ここにどれくらい書き込みをしていると思います?みしまるさんと頭痛さんの問題って、やっぱり頭痛さんが粘着して行っている事実がここでも立証されてると思うけど。みしまるさんもみしまるさんで如何でしょうかね。二人で会話ページでやったらどうですか?--106.151.124.60 2014年7月3日 (木) 09:26 (UTC)[返信]
Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも」にて両者のブロック依頼への移行を提案しました。どの場所でもお二人により同じ事が繰り返されています。--106.151.124.60 2014年7月3日 (木) 10:03 (UTC)[返信]
すみません。頭痛さんは少し姿勢が無責任です。あと論点を拡散させていませんか。頭痛さんが著作権抵触してる虞のある案件があると言って、しかも自分で骨折りして再調査をするということを示唆するコメントをしたので私も協力しようと思ったのですが、あらすじの書き方とか登場人物がどうとか別の論点から次々と切り込んでおり何がしたいのか分かりません。あと「同じようなやり方で書かれている可能性があるのではないかと」と仰せですけど可能性があるからでコメントするのは構わないんですけど決めつけるような口調で言われるのはとても困ります。優先度の高い問題から一つずつ解決してゆくことは出来ないのでしょうか。それほどまでにみしまるももさんの行為が看過できないならここで延々と論争をするのではなく、ブロック依頼を出すべきなのではないでしょうか。議論は百科事典発展及び利用者同士の衝突防止の為の手段であって、目的ではないはずなのですが、もう完全に、手段が目的化して、ここもカギカッコを巡る議論同様、「論争」になっています。--ShellSquid/履歴 2014年7月3日 (木) 10:36 (UTC)[返信]
  • コメント もう1回だけ。みしまるももさんの編集した記事に疑義が出され、その疑義には根拠がある。この事実をまず認めなければ、どこまでいっても平行線です。自制と議論手法の転換を求めます。ことの軽重を考えてください。
タグ貼りなどは、見苦しいという点を除けば、まったくどうでもいいことです。ただタグを貼って回るだけの編集なら、推奨はしませんが、同様にただ剥がすという対応もあります(記事内容に資さない編集という点ではどっちも似たようなもの)。しかし、新続頭痛さんは実際に記事を修正しようとされているのですから、それを見届けた上で評価するべきです。繰り返しますが、みしまるももさんはご自身とご自身の編集を客観視できていません。記事は個人の所有物ではありません。異議が出されたら、いったん手を引くことです。それができないならそもそもウィキペディアに記事を書くべきではない。これをいわないと止まらないようだからいいますが、このままいくと、次の段階に進む可能性が大です。それだけの事実がすでに積み上がっていることを自覚してください。
それから、みしまるももさんにも頭痛さんにも過去からつきまとっている可変IPや捨てアカがいますから、ShellSquidさんが思うところを述べられるのは全然構いませんが、彼らの相手をしないでください。そもそも自分の履歴は示さないが相手の履歴についての批判はする、という時点で参加姿勢が疑われます。むしろ半保護にすべきです。--みっち会話2014年7月3日 (木) 14:37 (UTC)[返信]
ではIPの指摘を受けずとも、最初からその注意をされるが良い。結果として問題の予測と予防が出来ていない以上、貴殿達アカウントの調整力は有効な対策を先延ばしにする自己顕示と自己満足の冗長な所作でしか無い。まあ、そこまで言うならばどのように対応されるのかお手並み拝見させて頂く。これまでの対応を超える結果が出せるなら見せて頂きたいものですな。両者ブロックにより当座切り離した上で、問題を個別に対応するのが合理的。まず頭痛氏を相手に直接絡ませないことだ。頭痛氏は第三者に任せ直接絡むのをやめなさい。これまでのコメント依頼指摘に対する学習能力が皆無とさえ思える。--106.151.124.60 2014年7月3日 (木) 18:40 (UTC)[返信]

ShellSquid氏)ちょっと落ち着いてもらえませんか。ゼーロンについてはおそらく当コメント依頼から波及してIP利用者から{{内容過剰}}が貼られ、その判断に賛同したので成り行きでそちらで議論になっているというだけです。「姿勢が無責任」とはどういう点がですか。当コメント依頼で被依頼者の「あらすじ」や「登場人物」の書き方の問題などを論点とするつもりはありません。ガイドライン等の恣意的な解釈に基づくテンプレート剥しの強行が以前からの問題の継続である、という指摘を行っています。

ゼーロン」と同じようなやり方で書かれている可能性があるのではないかと」という言い回しがなぜ「決め付け」になるのでしょう。かなり慎重な言い回しをしているつもりなのですが。--新続頭痛会話2014年7月3日 (木) 18:33 (UTC)[返信]

(みっちさんへ) 私は記事を所有物などにはしていません。ちゃんと他の方の編集を受け入れています。その上で、その方が編集した間違ったストーリー展開や結末(「行方をくらます道を選んだ」)など、誤解されている何点かを、直すことは当然のことです。原作の「筋」と違うように改変されたなら、そのまま見過ごすことの方がよほどおかしいことです。それから、著作権の問題は、私は皆さんの判断に委ねており、何の記事改稿もしていませんので、ご了承お願いいたします。--みしまるもも会話2014年7月4日 (金) 02:00 (UTC)[返信]

みっちさんは異議が出されたらいったんは手を引く、ということを言われているのであって「直す直さない」の次元の話をされているのではありません。上のコメントも、わら人形論法になっています。--新続頭痛会話2014年7月4日 (金) 21:18 (UTC)[返信]

以下の差分は、みしまるももさんが、議論によって妥当な記事にしようとするより、記事を所有物に私有化して自分の意見を主張する傾向があることを示していると見られます。「Wikipedia:記事の所有権」を再度確認いただき、立項者という立場を根拠にするような文言は控えて内容だけで説得するようにご注意願います。ブロック依頼にいたっては、論外でしょう。

--T6n8会話) 2014年7月5日 (土) 03:06 (UTC)リンク修正--T6n8会話2014年7月5日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

(T6n8さんへ) 2番目の「不必要」というのは違います。あらすじの展開やオチ、他にも何点もの誤解や間違いがありましたので、きちんとその方の了解をとって、一旦戻した上で、その方の編集も生かして編集しています。そのように一面だけのリンクを貼るだけでなく、もっときちんと議論の中身や経過を見てください。--みしまるもも会話2014年7月5日 (土) 03:26 (UTC)[返信]

「不必要」というのは、2014-07-03T04:19:13 に差し戻しを投稿せず、直接2014-07-03T06:04:01時点における版を投稿すれば十分なので不必要であったという評価です。2時間と差がありません。時系列をノートと比べて確認すると、ノートで手直しをする宣言をしたのが2014年7月3日 (木) 03:49 (UTC) 、戻したのがだれも「了解」を示していない2014-07-03T04:19:13、反論されたのが2014年7月3日 (木) 04:22 (UTC)、戻した報告及び「ご了承願います」が2014年7月3日 (木) 04:47 (UTC) となっています。「きちんとその方の了解をとって、一旦戻した」とは現在のノートからは読めません。--T6n8会話2014年7月5日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

(T6n8さんへ) まあ、そう細かいことを言われてしまえばそうですが、一応は戻す前に二重にお知らせしています。その編集で、ストーリー展開や結末が、(「行方をくらます道を選んだ」)というふうに、原作とは全く違うようになり、メインの一番大事なあらすじ部分もばっさりと切られてしまい、所々に誤解も散見されたので、私としては一旦戻してから、ゆっくりと修正したかったのです。このようになってしまった場合は、一旦戻しておかないと、「正確性」が損なわれます。そして私は一応、戻す前に、会話ページでも伝えています(2014年7月3日 (木) 04:15‎)。そこの返事で、「あとはみしまるももさんの手腕にお任せしますが戻すくらいなら手早くやってください」([37])と、戻した後ではありますが、一応は了解を取っています。そして、早くやれということなので、急いで優先したために、その時間できたということです。その後もその方と私に間には、何の問題も生じてませんので、それほど問題視されることもないんじゃないですか。正確性が損なっているものをしばらくの間でも載せておくことは適当なことではありません。--みしまるもも会話2014年7月5日 (土) 05:40 (UTC)[返信]

著作権に対する理解・引用の問題など[編集]

  • コメント みしまるももさんへ。これまで、ずっと静観してましたが、著作権のことでどうもひっかかる部分があったのと、Ks aka 98さんの見解を待っているのですが、お忙しいみたいなので、私自身のWikipediaでの著作権の見解を述べさせていただきます。
まず、みしまるももさんは、上の 2014年7月1日 (火) 12:34 (UTC)[38]において、「そのままの風味を活かすために、牧野信一独特の文体の特徴が表れている、その「有名な部分」は、そのままなるべく取り入れ、最後の一節の有名なところも彼の文体を活かしたかったので、元の原作を少し入れました」と述べておられますが、この考え方は、Wikipediaのプロジェクトにとって非常に危険です。
著作権は、事実ではなく「創作的な表現」に認められますので、文学の分野だとより厳しさが必要となります。文学の分野などにおいて、作家の表現・オリジナルの文章を残したいという気持ちが強くなるのはわかりますが、Wikipediaでは極力避ける必要があると思われます。具体的には、文体の特徴が表れている部分は極力廃し、有名な部分は取り入れず、作家の表現はバラバラにして、単語の順番を入れ替えたり、動詞や修飾語などを別の言葉に変換したりして、すっかり別の文章に変え、元の文学的表現を排除して書くことが望ましいです。なぜなら「文学的な表現が著作権で守られている対象そのもの」の一つだからです。また引用ですが、引用を多用すると、Wikipediaのデータは、ここで完結するのではなく、再配布・再加工が認められていますが、例えば、後にWikipediaの記事の中から一部分だけ切り取って誰かが自分のブログなどで利用したりする場合など、その人が著作権にひっかかる可能性が高くなります。なのでできるだけ引用は避けた方が望ましい。もちろん言うまでもなく、著作権が切れているものはそういう必要はありませんが。
Wikipediaでは、法廷での著作権の判断よりも、若干厳しめに対応する事を基準にしています。グレーな状態ではなく、できるだけ明確に白にして使えるようにしておこうと考えています。もちろん現状、記事の全てが完璧にそのようになっているかは別にして、そう有りたい、そうあるべきという方向へ皆で努力をしているところです。
それと、過去の版に、著作権侵害の可能性が高い記事があれば、Wikipedia上に残しておくとリスクが高いので(誰でも見る事ができてそのデータを利用できるからですが)、それらの版は削除する方が望ましいということを確認されておいた方がよいかと思います。と、私なりに述べさせていただきましたが、間違ってる点などありましたらご指摘いただければ、と思います。--Siwamura会話) 2014年7月4日 (金) 14:33 (UTC)。補遺--Siwamura会話2014年7月11日 (金) 02:10 (UTC)[返信]

論点が増えて混乱を招いているという指摘がありましたので、著作権に関する問題について節を分けさせていただきました。著作権上の問題についてはプロジェクトとしては解決優先度の高い問題ではあるにしても、被依頼者の理解力の問題という議論から派生した個別の問題で、被依頼者の議論態度や理解力などを問う当コメント依頼の趣旨からいえば付随的な問題です。以降は著作権上の問題はこちらで話し合い対処し、対話姿勢や理解力の問題については上で継続するという形にするのがよかろうと思います。--新続頭痛会話2014年7月4日 (金) 20:36 (UTC)[返信]

続きです。著作からの引用の問題については去年、私が出したWikipedia:コメント依頼/みしまるももでKs aka 98氏も交えて議論されていました。ここでは被依頼者の作品記事などにある「解説」のような節で、他の著者の解説文を長々と引用し羅列してしまっている点について指摘しています。ここではKs aka 98氏は、長い引用があるにしても記事全体として「従」となっており引用の要件を満たしている、という見解を示されているのですが、一方で被依頼者の著作権理解に対する危うさも指摘されていました。前述のゼーロンの解説部のような危うい例は(まだ侵害か削除の必要があるかどうかまでは不確定ですが)、そのような指摘もあったにも関わらず著作権について理解が深まらないまま、自分に都合のよい他者の見解だけを取り入れて活動し続けていた結果のように感じます。

これも各所で何度か指摘しているのですが、上のコメント依頼以降、被依頼者は引用部分をほとんど引用符をとっただけで引用部分ではないかのように見せて「長文引用」を誤魔化すようになっており、引用と地の文との境目がわからなくなって却って以前より引用の仕方が悪くなっている点もあります。例えば現在のゼーロン#作品評価の文章は、以下のようなものです。

堀切直人は『ゼーロン』について、それ以前の私小説とは打って変わり、「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」な作品だと述べ、かつて日の当たらぬ地面を這い回るようないじけた幼虫であった牧野が、ここに至って見事に羽化を遂げていると評している[6]。そして、それは作中に「狂気の暗い翳」が皆無だというわけではないが、それを勢いよく吹き飛ばすに足るような「健康な活力」がみなぎっており、また作中に「生活上の不如意への嘆きや蒼ざめた悲しみ」が尾を曳いていないというわけではないが、その嘆きや悲しみを圧倒して、「酒神讃歌の高らかな笑い声」が響き渡っていると解説している[6]。

対して出典に使われている実際の文章は以下のようなものです(岩波文庫『ゼーロン・淡雪』304頁)。

昭和二年ごろから昭和七年ごろにかけて書かれた一連の短編は、それ以前の私小説とは打ってかわって、明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快である。かつて日のあたらぬ地面を這い回るいじけた幼虫であった著者は、ここに至ってみごとに羽化をとげ、地を蹴って宙に舞い上がり、陽光を全身に浴びて、あるいは月光に酔い痴れつつ、自在に空を翔けめぐる。作中に狂気の暗い翳が皆無なのではない。しかしそれを勢いよく吹き飛ばすに足る健康な活力が全篇にみなぎっている。作中に生活上の不如意への嘆きや蒼ざめた悲しみが尾を曳いていないのではない。だが、その嘆きや悲しみを圧倒して、酒神讃歌の高らかな笑い声が響き渡る。

まずある作品群についての論説を特定の作品(「ゼーロン」)について書かれたものとして引用しているのがありえないレベルのミスリードだと思うんですが、それをおいても引用符の有無がほとんど意味をなしていないんですよね。途中多少の省略しているだけで引用符を取った部分も出典元の表現ほとんどそのままです。上のような例は発言主体は明示して書かれているので著作権上はセーフなのか知りませんが。先のコメント依頼でも、いったいこのように他人の著作からの長文引用を羅列して解説に変えるような事典があるのか、という問いを発しているのですが、誰からもお答えはありませんでした。被依頼者のこのような記事の質、及びこのような方法を「次善」だとか頭痛が気に入らないだけなどとして実質的な「お墨付き」を与えたKs aka 98氏の判断に対してずっと疑問を持ち続けています。--新続頭痛会話) 2014年7月4日 (金) 21:13 (UTC)--新続頭痛会話2014年7月4日 (金) 23:54 (UTC)修正[返信]

  • コメント 頭痛さんへ。まず、著作権の侵害かどうかを確定させるのは、訴訟が起こった際に裁判所の裁判官が判断するわけでして、ここ(Wikipedia)でできるのは、判例などを元にこのケースは著作権侵害の可能性がとても高いとか、可能性が殆どない。この案件は著作権侵害の可能性がとても高いから削除、とかまでだと思います。昨年のWikipedia:コメント依頼/みしまるももから継続していくつかの議論を私なりにみてましたけど、Ks aka 98さんの見解、特におかしいものとは感じませんでした。引用に関しては、全体として主ではなく従になっていればいいです。
ただ、以前別のところで、Ks aka 98さんと、著作権のことで話し合いを持った(教えていただいた)ことがあるんですが、その際、Ks aka 98さんは、引用という行為に対しては積極的に推奨する立場ではなく、むしろ引用はできるなら避けた方が良い、という立場だったと記憶しています。まあ、文学の分野だと著作権・引用の問題は特に難しいと思います。文学は創作的な表現の塊ですから。もちろん別の見解もあると思いますが、引用は認められてはいるにせよ、後々の再利用などの事も考えて、Wikipediaではできるだけ避けた方が良い、と私自身も考えています。--Siwamura会話) 2014年7月4日 (金) 23:36 (UTC)。補遺--Siwamura会話2014年7月11日 (金) 02:10 (UTC)[返信]
すいません、不正確な書き方をしてしまったようです。判例などを元に~可能性がとても高いから削除、という運用についても理解しているつもりです。Ks aka 98氏の判断に疑義がある、というのも(前のコメント依頼でも誤解を受けましたが)著作権上の問題のあるケースかどうか、という点ではありません。このような方法で書かれた記事の質という点においてです。--新続頭痛会話2014年7月4日 (金) 23:54 (UTC)[返信]

コメント みしまるもも様とも頭痛様とも論争していた身なので、静観していましたが、法律問題では放置するわけにも行きません。上記は引用の要件(『』などを用いての明確化)を満たしていないように思います。また、引用の要件(必然性)を満たしているのかも疑問です。内容ならともかく解説を使用する必然性があるのでしょうか? とは申せ、著作権に関してまだまだ勉強中の身ですので、何方か詳しい方のコメントを伺いたいです。--JapaneseA会話2014年7月5日 (土) 04:07 (UTC)[返信]

情報 日本では作者の死後50年経過すると著作権は消滅します。牧野信一の著作権消滅は1986年です。参照:著作権情報センター--Husa会話2014年7月5日 (土) 04:31 (UTC)[返信]

葉隠入門の確認を少しだけしたのですが少し確認できた範囲だけでもかなり不味いと思います。まず、ウィキペディアの葉隠入門の記事の「解説」の節です。田中美代子氏による寸評と前置きして以下のように書いています。

そして田中は、三島が「われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ」と言いつつ、しかし生活自体への関心は、つまるところ「利殖と保身と享楽の追求」に終わり、
与えられた「生の哲学」によって十全に人間性の自然を解放し、富益を求め、奢侈と飽食と放埓に身を委ねたのちに、
やがて等しく老衰と死にきわまる運命に定められていること、「生とはついに死に到る不治の病」だとすれば、
病んでいるのは「生の哲学」そのものだ、ということを意図したことを受けながら(以下続く)

続いてこちらが新潮文庫版の田中美代子氏による解説です。

「われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ」。しかし生活自体への関心は、つまるところ利殖と保守と享楽の追及に終わる。
与えられた「生の哲学」によって十全に人間性の自然を解放し、富益を求め、奢侈と飽食と放埓に身をゆだねたのちに、
やがては等しく老衰と死にきわまる運命にさだめられている。生とはついに死に到る不治の病だとすれば、
病んでいるのは「生の哲学」そのものだ、といえないことはない。

202ページから203ページに当該記述があります。書籍のISBNは ISBN 978-4-10-105033-1 です。所有している方、図書館で借りられる及び購入できる余裕のある方は確認をお願いします。 かなり危ないと言うか、殆どレッドゾーンだと私は解釈します。使っている単語並びに配列、僅かにカギカッコや文章の変化を施したのみで、非常に強い一致性が見られます。著作権法で保護されるのは「創意、感情を表現したもの」ですが、葉隠入門の解説は田中美代子氏による三島由紀夫氏の同作品への感想や評価を文章化したものであり著作権の保護対象になると私は考えます。まだ調べ途中ですが、私が引用したこれだけでも特定版削除になる可能性があると私は判断します。最終的な判断はコミュニティの合意にゆだねるものですが、他にもこのような執筆が複数の記事で行われているとするのならば「多数の地雷が多数の記事の中に埋め込まれている」ということになります。正直みしまるももさんのコメントを見てもみしまるももさんの著作権への認識はかなり中途半端で危ういと言う印象しか持てませんでした。なのでお願いします。みしまるももさんは一旦執筆を全てストップしてください。--ShellSquid/履歴 2014年7月5日 (土) 05:12 (UTC)追記ShellSquid/履歴 2014年7月5日 (土) 05:14 (UTC)[返信]

補足します。頭痛さんが引用の範囲の逸脱について去年Wikipedia:コメント依頼/みしまるももで指摘しましたが、私はこの「引用の範囲の逸脱」という指摘に同意する、そして著作権侵害と看做される可能性が高い、という趣旨です。--ShellSquid/履歴 2014年7月5日 (土) 05:26 (UTC)[返信]

(Siwamuraさん、ShellSquidさんへ) 「日の当たらぬ地面を這い回るようないじけた幼虫」など、その解説者特有の表現部分はやはり、「」でくくるべきものだと反省しております。葉隠入門においても同様です。特有の表現を「」でくくり、その解説者の名前を前面に出して、脚注を付けていても、おそらく著作権侵害となりうるのでしょう。専門家の方の判断を待ちたいと思います。そう判断された場合は、ShellSquidさんへ改稿や修正を委ねたいと思います。Siwamuraさんのご指摘のように、外部のサイトで転用される場合の考慮が足りなかったことも反省しています。--みしまるもも会話2014年7月5日 (土) 06:14 (UTC)[返信]

田中美代子の解説については、かぎ括弧で引用部分が引用されているので、とりあえず手続き上はアウトではないと思います。(ですが引用は最小限度にするべきでしょう。)--Gyulfox会話) 2014年7月5日 (土) 08:01 (UTC) 岩波文庫『ゼーロン・淡雪』304頁については、わずかに行われた引用符部分を抜き去った結果を比較した場合、高い確率で似ており問題ではないかと思います。みしまるももさん、オリジナルの文章の語彙を順番をずらしたり、ちょこっと言い換えたら著作権問題がクリアできていると誤解してませんよね。--Gyulfox会話2014年7月5日 (土) 08:23 (UTC)[返信]

(Siwamuraさんへ) 上の一例を少し改訂してみました。こんな感じではどうでしょうか。もっと語順を変えたりした方がいいでしょうか。まだ堀切の表現を残しすぎるかどうかをご指摘ください。

堀切直人は、『ゼーロン』について、それ以前の私小説とは打って変わり、明るく痛快な作風で、「風通しがよく、軽妙」だと評し、かつての牧野を、日の当たらない地面を「這い回るようないじけた幼虫」に喩えながら、『ゼーロン』に到達した時期には、それが見事に「羽化」した蝶になったと喩え、「陽光を全身に浴び」て、「自在に」空を翔けめぐっていると表現している[6]。そしてそれは作中に「狂気の暗い翳」が全く無いというわけではなくて、全篇にその「暗い翳」を勢いよく吹き飛ばすことができるほどの「健康な活力」がみなぎっていると堀切は補足し、さらにまた、そこには「生活上の不如意への嘆き」や「蒼ざめた悲しみ」が全く「尾を曳いて」いないというのではなく、それらを圧倒して上回るほどの、「酒神讃歌の高らかな笑い声」が響き渡っていると解説している[6]。

以下は出典に使われている実際の文章(岩波文庫『ゼーロン・淡雪』304頁)。

昭和二年ごろから昭和七年ごろにかけて書かれた一連の短編は、それ以前の私小説とは打ってかわって、明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快である。かつて日のあたらぬ地面を這い回るいじけた幼虫であった著者は、ここに至ってみごとに羽化をとげ、地を蹴って宙に舞い上がり、陽光を全身に浴びて、あるいは月光に酔い痴れつつ、自在に空を翔けめぐる。作中に狂気の暗い翳が皆無なのではない。しかしそれを勢いよく吹き飛ばすに足る健康な活力が全篇にみなぎっている。作中に生活上の不如意への嘆きや蒼ざめた悲しみが尾を曳いていないのではない。だが、その嘆きや悲しみを圧倒して、酒神讃歌の高らかな笑い声が響き渡る。

--みしまるもも会話2014年7月5日 (土) 10:37 (UTC)[返信]

読んでその意味を理解したうえで自分の言葉で説明しないものはダメってご存知ですよね。だんだんドツボに嵌っていってるようで怖いのですが、オリジナルの文章から語順をいくら沢山引っ掻き回しても、また言葉尻とか言い換えたりしても、ダメってことになっているんですけど、そのへはんご存知ですよね。--Gyulfox会話2014年7月5日 (土) 11:15 (UTC)[返信]
堀切直人は、昭和2年頃から昭和7年頃にかけて牧野の作風が一変し、以前の作品の特徴であった、狂気や生活上の嘆き悲しみの表現が残り続けているものの、「健康な活力」「笑い」といった要素がそれらを凌駕するようになったと評しており。この劇的変化を「幼虫」からの「脱皮」に例えている。

何がどう違うかは分かりますよね--Gyulfox会話2014年7月5日 (土) 12:03 (UTC)[返信]


  • コメント みしまるももさんに質問です。たとえば、この程度の記述ではいけませんでしょうか。
岩波文庫『ゼーロン・淡雪』の解説にて、堀切直人は、この作品を「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」と評価しており、それ以前の私小説とは異なっていると述べている。

「かつて日のあたらぬ地面を這い回る〜酒神賛歌の高らかな笑い声が響き渡る。」に関しては、いかに「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」を具体的に説明した箇所であり、同じことを具体的に、2度表現した箇所なのだろうと思います。ですから、「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」と評価しているという堀切氏の主張の骨子を書くということでいかがかと思った次第です。

また、著作権の面から考えると、「かつて日のあたらぬ地面を這い回る〜酒神賛歌の高らかな笑い声が響き渡る。」に関しては文章まるごとが創作的であり、書くとしたら、全文引用するほうが安全であろうと考えた次第です。

単純に表現すると、要約であっても著作者の文と同じような表現により、同じように直接感得できる文であれば、著作権の侵害とみなされることはあります。著作物の要約や改変した文は、翻案に該当する可能性があります(参照:翻案権)。もしくは、酷似している場合は複製とみなされる可能性があります。判例では「言語の著作物の翻案とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為」(最一小判平成 13.6.28 江差追分事件)とされています。つまり、「依拠性、類似性、創作性、有体性がある表現行為」、「表現上の本質的な特徴の直接感得(内容及び形式の覚知)」のすべての要素があることとされています。

また、雑誌要約の翻訳に著作権侵害が認められた事件(平成5(ネ)3528号 著作権仮処分申立事件 ・東京高裁 平成6年10月27日判決)[39]は、「配列の点では、「対象となる文書が、当該新聞における特徴的な配列と一致又は類似していれば翻案関係にあるものというべき」とし、個々の記事の表現が厳密に一致していなくても、記事の配列に同一性があれば編集著作権侵害が成立するとの判断を下しました。」と解説されています(ただし、これのみが著作権侵害と判断された理由ではありません)。新聞記事の要約の翻訳に著作権侵害が認められた例(「日経新聞 要約翻案事件」東京地裁平成6年2月18日判決)[40]もあります。

実際に、みしまるももさんの書かれた記述が、著作権侵害にあたるか引用であるかということについては、これはもう、法律の専門家によっても意見がわかれる微妙な判断となってくるだろうと思います。ですから、このコミュニティでは確実な結論を出すことは困難であるかもしれません。ただし、現実の裁判に関しては、経済的損害が発生し証拠に基づいて産出額を出せるというレベルでなければ、有罪判決となることはほぼないと考えられ、裁判沙汰は想定しがたいかもしれません。このウェブサイトに詳しい説明が載っていましたが[41]、引用すると長くなるので、URLの紹介にとどめます。

私としては、「かつて日のあたらぬ地面を這い回る〜酒神賛歌の高らかな笑い声が響き渡る。」レベルの創作性の高い文章をWikipediaの記事に書く必要がある場合は、全文引用としたほうが適切であろうと考えます。また、解説者の評価を記す場合は、骨子のみでもいいかもしれないと思いました。著作権が消滅している作家については、気にせずに書かれることはかまわないと考えます。--Husa会話2014年7月5日 (土) 11:50 (UTC)[返信]

(Gyulfoxさんへ) まあ確かに簡潔ですが、そのように要約すると、その前半で言っているようなことは、どんな評論家も言っている一般的なことなので、特に堀切だけの評価でもなくなってしまう面もあるんですよね。ところどころ元の話者の表現を「」でくくって採用するのは、文芸評論でもやっている人は多いですが、どうしても私の書き方が著作権侵害になるなら、そういう簡潔方法を取るしか仕方ありませんが。

(Husaさんへ) 以前私はHusaさんのおっしゃるように、全文をそのまま「」でくくる方法を取っていましたが、頭痛さんにそれではダメだと言われてしまったので、その方法はやめたのです。その経緯はWikipedia:コメント依頼/みしまるももをご覧ください。Ks aka 98さんは、全文をそのまま「」でくくる方法でも、最善ではないが過剰ではないとして、「本来譲歩も妥協も必要ない。」と判断されましたが、私は今のやり方にしていったということです。--みしまるもも会話2014年7月5日 (土) 12:37 (UTC)[返信]

  • コメント 著作権の観点から考えると、Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも以前のみしまるももさんの引用の仕方のほうが、上記の例のような言い換えよりもベターであったと思います。「多少長いのではないか」という指摘があったのは理解しましたが、この時点では、引用の要件は満たされていると考えます。Wikipediaで独自研究として自分の意見を主として書くわけにはいきませんから、作品評の引用部分が作品記事の一部であれば、主従関係としては問題にはなりません。むしろ、創作性の高い文章を要約しようとしたり(翻案権の侵害の可能性)、自分の言葉に言い換えようとして(同一性保持権の侵害の可能性)、うまくできないほうが、著作権の観点から考えるとより問題が深刻であると考えます。作家や評論家など、とくに言葉に敏感な文筆家の目線から言えば、「自分はこんなことを書いた覚えはない。書くなら正確に引用してくれ」と思うものです。(作者に無断で若干改変して最終確認のないまま出版した等で、訴訟となったケースなどもあります。)文章を書くことで飯を食っている人の評価を自分の言葉でうまく言い換えるのは、かなり難易度の高い作業と言えましょう。著作権の観点から考えると、作品評等で、極めて創作性の高いある一定量の文章を記述する際には、その箇所をそのまま必要最低限の引用をする方がベターです。省略しても差し支えない記述は「…(中略)…」と表記するとか、工夫できるところは工夫されるほうが良いでしょう。みしまるももさんは、当初、感覚的に、著作者の意向を尊重するという考えで、できるだけ、言い換えが難しい作品評に関して引用を行っておられたと思いますが、そのほうがむしろ安全でありましょう。こんな意見を今更述べたら、「今までいろいろ苦労したのはなんだったのか」と思われるかもしれませんが、すみません。一つか二つどうしてもという作品評があり、極めて創作的な文章であった場合はある程度の引用を行い、それ以外はできるだけGyulfoxさんの例のように簡潔に書くということでいかがかと思います。--Husa会話2014年7月5日 (土) 14:05 (UTC)[返信]
補足です。私の意見としては一つか二つに絞るべきということではなく、良質な記事をつくるという目的からどうしても絞れない場合は、もともと書かれていた従来のやり方・・・「」で引用部分を示して作品評を書かれれば、法的な問題は発生しないと考えます。上記のような、元の文章と同量程度でご自分で言い換えをされた文章に関しては、グレーゾーンに近い可能性がありそうなので、むしろ引用に修正したほうが安全でしょう。Gyulfoxさんの例のように書ける場合とそうでない場合があると思いますので、むりに、作品評のほとんどをGyulfoxさんのように書くべきであるという意見ではありません。各所の様々な観点によるコメント依頼を追い切れておらず、今更の発言であれば申し訳ない限りですが、著作権の存在する作品評の書き方に関しては、単純に言えば、引用とするか、著作者の独特の雰囲気を出さないで自分で言い換えるGyulfoxさんのような書き方とするか、二者択一となり、良質な記事とするためでしたらどちらを選んでもかまわないと考えます。--Husa会話2014年7月5日 (土) 17:13 (UTC)[返信]
  • コメント 以前の議論を含めて、複数の詳しい方がみしまるさんの以前のやり方でも許容範囲と言ってるわけで。みしまるさんも相当気の毒に思います。結局、今回の著作権系の疑念だのは、件の方が異様に長くしつこいだけで、同じ事の繰り返しです。件の方はks aka 98さんとの間で以前行われた同じ議論を御自分が納得行かないが故に、場所と時間を変え、以前の議論の存在をご存知無い新しい方を巻き込んで再現しているので、特にみしまるさんは御自身のためにもうお相手すべきではありません。そのような方とずっと長く議論してると、しばらく同じような思考や第三者への議論の仕方にご自身もなっていってしまいますので(いわゆる転写です。)本当にお気をつけ下さい。16,17もアカウントを保有される方ですので(もう一つのコメント依頼でikedatさんがまとめておられますが)他の皆さんも客観的に考えれば分かりそうなものですけど。--106.151.109.119 2014年7月5日 (土) 16:00 (UTC)[返信]
コメントどんなコメントを求められているのか、うまく把握できてないかもしれませんが。
  • 著作権に関しては、Wikipedia:コメント依頼/みしまるももでは、「論点1:引用の長さについて」に対して、Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも#コメントおよび議論直下で、「最善ではないとしても過剰ではない」とコメントしました。「権利侵害を論点としているようにも見えますが、個別の記事についてではなく一般論として話しているようでもあり、要約の方法が主題のようにも見えます。削除依頼も出されていません。」とも書いていますし、「みしまるももさんの著作権についての反論は、かなり危うい」という指摘もしています。
「コメント依頼以降、被依頼者は引用部分をほとんど引用符をとっただけで引用部分ではないかのように見せて「長文引用」を誤魔化すようになった」のは問題含みですが、引き続き長文引用をしていて、それが実は問題だった、ということなら、ぼくの問題ということになるでしょうけれど、ぼくは長い引用でも権利侵害になってないと言い、要約しろという話もしていなくて、長文引用は問題で、要約という方法をすすめていたのは頭痛さんです(利用者‐会話:みしまるもも/過去ログ1#もうちょっとなんとかなりませんか)。著作権の問題としても、質の問題としても、「却って以前より引用の仕方が悪くなっている」例として、当時話題になっていなかったゼーロン#作品評価を挙げて、「実質的な「お墨付き」を与えたKs aka 98氏の判断に対してずっと疑問を持ち続けています」とおっしゃられても、何も返すことはできません。
特に表現をこらしたようなものではなく、事実の列挙やありふれた表現で、引用しないようにしても、同じ表現になってしまうのであれば、無理に鍵括弧で括らなくてもよいです。ただ、そこの判断は難しいところもあるので、「」付ける方が、リスクは少ないです。「かつて日の当たらぬ地面を這い回るようないじけた幼虫であった」や「ここに至ってみごとに羽化をとげ」などは、「」での引用のほうがよいでしょう。いち編集者としてこれを見つけたら、削除依頼に出すかどうかは微妙ですが、情報源持ってたら修正するし、持ってなければ、こういう場合は引用にしておいたほうがいいし、同じような書き方を他にしていたらそっちも直したほうがいいのでお願いしますと会話ページに伝えにいくのが好ましいレベル。前回のコメント依頼のような長めの引用、あらすじ、学術論文からの要約や引用は、いずれも判断が難しいものですから、たとえ削除になるようなものがあったとしても、一概に批判するようなものではないと思います。
一般論としては、「他者の文献をもとにして何かを書く際には、要点を要約しつつキーワードだけ括弧に入れたり、特に重要なくだりを地の文とのバランスを考えつつ引用したり、通常はそういうことをします」という頭痛さんの考えに反論するところはありません。
しかし、元の文献の表現をいじることで意味が変わることを懸念したり、表現を生かそうと考える場合には、権利侵害とならない程度に長めの引用をすることを否定すべきではないです。特にウィキペディアではうかつに言い換えたり、通常地の文を構成する要素となる引用部に対しての解釈や評価を書くと独自研究と捉えられることになります。たとえば[44]は、かなりの部分を原作品を含む引用で構成されていますし、[45]の地の文にあたるようなものはウィキペディアでは書きづらいでしょう。独自研究を書きづらく、専門家レベルの知識や執筆能力が前提とできないウィキペディアにおいては、権利侵害とならない程度に長めの引用により記事を構成することで、当面は原著者の侵害にならず、意図を損なわないようにし、読者にも情報を提供ができることを実現しつつ、将来、より多くの資料を参照したり、より丁寧な要約が可能な執筆者が再構成してくれることを願う、というのは、優れた記述とは言えないとしても、ひとつの現実的な回避策でしょう。ウィキペディアでの活動に求められる「読み書き」に関する最低限の常識的感覚が備わっていない、と考えるものではないと思います。独自研究のほうに多少目をつぶって、うまくまとめるほうを重視するというのも、回避策の一つ。引用に厳しい人も、独自研究に厳しい人もいらっしゃいますし、文芸作品の批評や解説はそれぞれ個性的で、必ずしも引用・言及があるわけでもない。自然科学分野の総説のようなかたちでまとめた先行研究もなかなか見つからないでしょう。これも前に書きましたが、書けるのなら、みんなが納得する手本を示していただくのが一番です。
たとえば、ある作品群についての論説を特定の作品(「ゼーロン」)について書かれたものとして引用しているのがミスリードという指摘には同意します(解説の他の所で、この記述が当てはまる「一連の短編」の、代表的なものとして「ゼーロン」が扱われているなら、今の書き方でも悪くはないと思いますが)。評論自体を読んでいないので、みしまるももさんが書いたものを手がかりに、自分なりに再構成するなら、
堀切直人は「ゼーロン」を含む昭和2年ごろから昭和7年ごろにかけて書かれた一連の短編について、以前の私小説から大きな変化が見られ、作中に「狂気の暗い翳」や「生活上の不如意への嘆きや蒼ざめた悲しみ」が認められるものの、それらを凌駕する「健康な活力」、「酒神讃歌の高らかな笑い声」があり、「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」と評した。三島もまた「ゼーロン」に対して「この架空の冒険譚には爽快な魅力がある」とし、「切羽づまつた明朗さ」を牧野の本領として挙げる。
とかになりますが、それでも、今のものより誰もがこっちのほうがいいと思ってくれるとも思いません。堀切の表現のうち、文学的というか、比喩的なものを排除して、いわんとする変化と作風に限定させ、似た指摘をしている三島のものと合わせる。この程度なら、権利侵害の虞はない。後段は、マキノ氏像と父親の類似についてというところをベースにして、とかいうことを考えますが、河上・佐藤のような言及関係がないと難しい。評論自体をできるだけ読んでないとどっちがいいか判断しづらいし、ということで、これも前の会話ページかコメント依頼で書きましたけど、記事を編集したり、ノートで話し合ったりするようなことだと思います。そうでなければ、プロジェクトで、方向性を決めるとかなんですが、今は議論拡散させないほうがいいと思います。--Ks aka 98会話2014年7月5日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

コメント まるで「頭痛のせい」とでも言いたいかのような被依頼者のコメント(2014年7月5日 (土) 12:37 (UTC))に怒りを禁じえません。今現在の被依頼者の「実質的に引用符を取っただけ」のようなやりかたに問題があるということは去年2013年6月時点での被依頼者の会話ページにおける議論で直接指摘し[46]、最初のコメント依頼Wikipedia:コメント依頼/みしまるももの「論点2」でも再度取り上げて指摘しました。前者の私のコメントを引用します。

「川端氏はこの『処女の主題』のおかげで、氏の同時代の作家が悉く陥った浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれるのである」(引用)を「この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している」(地の文)にしただけ、「焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ」(引用)を「それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している」(地の文)にしただけ、前後を比べれば分かると思いますが、ほとんど引用符をとって単純に「解説している」とつけただけですよね。使用されている単語、語順、語法ほぼそっくり引用前のままです。私が前にこうしてみればといって挙げた要約の仕方もちょっと例が悪かったかしれませんが、これでは実際には三島が書いた文章そのままのものを、まるであなたが作った(まとめなおした)文であるかのように書いてしまっており、単なる三島からの剽窃になってしまっています。これではむしろ前の状態のほうが引用部分が引用符によって明確になっているだけマシです。(頭痛(会話) 2013年6月11日 (火) 18:11 (UTC))

いまここで行われている問題点の指摘とまったく同じですよね。コメント依頼においても「これではいくら出典をつけてあるといっても、引用符による引用部分の明示ができなくなっている分かえって悪くなっています。」とはっきり指摘しました。現在周囲から指摘されている被依頼者の問題は私の責任ですか、私の指摘を理解できなかった被依頼者の責任ですか、一体どちらですか?--新続頭痛会話2014年7月5日 (土) 17:42 (UTC)[返信]

Ks aka 98氏の新規コメントに気づかずにコメントしてしまいましたが。我々がいまKs aka 98氏にお聞きしたのはまず第一に、この節の前の2014年7月1日 (火) 12:01 (UTC)2014年6月30日 (月) 15:21 (UTC)で示したような例が削除依頼にかける必要があるのかどうか、だと思います。ここで挙げられている例と違い(出典はありますが)元著者も明示されていません。まずこの点のコメントをお願いします。--新続頭痛会話) 2014年7月5日 (土) 18:10 (UTC) 新続頭痛会話2014年7月5日 (土) 18:14 (UTC)修正[返信]

「経済的窮地」のところだけ見ました。削除依頼に出したほうがいいと思います。元の表現に創作性があり、出典として元著者が示されているため、出所明示はいいんですが、著作権法でいう引用であると示されていない。まとまりとして要約引用としてみるとしても、学説としては批判的で、数少ない要約引用が認められた判決例[47]と比べても不十分と思われます(「『[血液型と性格]の社会史』(X著、河出書房新社)という本を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう。」との記載が、該当部分の後に「以上が、松田氏の前掲書から私なりにまとめた、大正から昭和初期にかけての“血液型騒動”の顛末である。」との記載があるから、被告書籍該当部分は、被告書籍のその余の部分から明瞭に区別されているものと認められる。」)。--Ks aka 98会話2014年7月5日 (土) 18:37 (UTC)[返信]
そうですか。ありがとうございます。--新続頭痛会話2014年7月5日 (土) 19:14 (UTC)[返信]

間に挟まりましたが、Ks aka 98氏の2014年7月5日 (土) 17:18 (UTC)のコメント内容について書きます。[返信]

  • 「当時話題になっていなかったゼーロン#作品評価を挙げて、~おっしゃられても、何も返すことはできません。」だそうですが、私が言っている「質」の問題というのは「(実質的な)長文引用の羅列」のことであり、あなたがお墨付きを与えたと言って私が非難しているのもこの点です。(「先のコメント依頼でも、いったいこのように他人の著作からの長文引用を羅列して解説に変えるような事典があるのか、という問いを発しているのですが、誰からもお答えはありませんでした」)。その限りにおいては「引用符の多寡」は従属的な問題で、先のコメント依頼と完全に地続きの問題です。引用符を取って誤魔化すようになったのはks aka 98氏が悪い、などということを書いているのではありません。(今読み返すたしかにそのように誤解されかねない書き方だったかもしれません。その点は申し訳ありませんが)
  • 議論中でも述べた記憶がありますが、私が試みた要約の例[48]は、何行にもわたって丸々引用するならいわば「スタイル」としてこのようなかたちで要約できるのではないか、という提案でした。過不足があるならば足し引きの検討をすることができたと思いますし、そのつもりで文案を書いたものです。それすらまったくせずに要約の「内容」に不足点があったといってみしまるもも氏といっしょになって私を批判しだし「信頼を失った」だのと極めつけたことに対して、私はいまだに非常に深い遺恨を抱いています。
  • 「原作品を含む引用で構成されています」と言ってあなたが挙げている論文[49]には引用以上の著者自身の文章があります。「元の文献の表現をいじることで意味が変わることを懸念したり、表現を生かそうと考える場合には、権利侵害とならない程度に長めの引用をすることを否定すべきではないです」時に長文引用を行うこと自体は誰も否定していないでしょう。被依頼者の記事のように物語内容のほかは「論者Aはこう言った(「ダラダラダラダラ」)論者Bはこう言った(「ダラダラダラダラ」)のような羅列で解説が占められるような記事が百科事典としての最低限の質を備えた記事か、そんな事典の記事があるのかと言ってるんです。私にはそのようには思えません。
  • 被依頼者のように長い(整理されていない)記事をコンスタントに投下されている人物に対して「より丁寧な要約が可能な執筆者が再構成してくれることを願う」などと他人任せを前提にしていることがそもそもおかしいです。記事内容に不足があるというだけなら加筆はいくらでも期待できる、しかし被依頼者のような長文引用の羅列記事を原資料を確認してまとめなおすみたいな作業を好き好んでやる人がどれだけいるか。前にもKs aka 98氏に対して書きましたが、みんな他人の尻拭いをしたくて参加してるわけではありませんよ。総じて論点をはぐらかされていると感じますし、「執筆者」の視点が抜けたコメントだと感じます。--新続頭痛会話2014年7月5日 (土) 19:14 (UTC)[返信]

コメント 誰のせいというとこはおいといて、みしまるももさんについては、元通りの長文引用の方がまだ良かったという意見は複数あるわけだし、WPは最初から質の高いものを要求するプロジェクトでもないのです。虚偽投稿の次に最悪なのが誰も投稿しなくなることであってWPにとってこのふたつは致命的です。原文引用なら、情報劣化の心配はないわけだし、だれも尻拭きは要求しておらず、質の高いものを最初から要求、または書かせないようにするのは、頭痛さんのワガママでしょう。 一方自分にも能力の問題が存在するのに、そこはスルーして、せっかく投稿したのに雑に編集されたとか、バッサリやられたとか、編集者の思いが尊重されるべきとか文句言ったりするのも度がすぎればワガママです。--Gyulfox会話) 2014年7月5日 (土) 23:35 (UTC)どっちもどっちということではなく、性質の異なるワガママがぶつかり喧嘩になって、第三者からの意見を聞いてなかったり、都合よくフィルタリングしているとすればどうしようもないですね。--Gyulfox会話2014年7月5日 (土) 23:47 (UTC)[返信]

ああ、「書くな」なんてことを要求しているつもりはないですよ。執筆能力も編集能力も人それぞれですし、能力に応じて出来ることをやればよい(やるより仕方ない)と思います。私が主張しているのはこのような記事の品質に問題がある、修正が望まれるレベルの記事内容だということであり、被依頼者はその点を理解すべきだということです。私が長文引用の問題を指摘した際の被依頼者の「逆切れ」ぶりや正当化の仕方、「不満があるならご自分で直してください」というような現在に至るまでの態度は、「次善」どころかこのやり方がベストだと思っているようにしか見えません。そして(他者への負担を当然の前提としている)Ks aka 98氏の上のような類のコメントがこうした被依頼者の態度の後ろ盾になっているのです。--新続頭痛会話2014年7月6日 (日) 00:16 (UTC)[返信]

コメント 僭越で大変申し訳ないですが、お二人(頭痛さんと、みしまるももさん)のやりとりをずっと静観していた者として、ちょっと個人的に思ったことを書かせていただきます。まず、頭痛さんの能力が非常に高いという事はすでにみんなが知ってる事。で、それ故にどうしても要求が高くなってしまう。これは、ご本人にとってはごく当たり前の事だと思います。そして、みしまるももさんとは、いろいろな部分(例・法的な理解力他)で認識等の開きが大きい。みしまるももさんは、すごく努力をされている。しかし、お二人の開きがあまりに大きいため、一気には差が埋まらない。不幸なことに執筆分野が同じで度々ぶつかってしまう。Wikipediaのコミュニティとしては、お二人とも続けて欲しいんですね。さて、ではどうするか、ということなんでしょうけど、やはり頭痛さんにはもっと懐を大きく構えて頂く。すでに十分大目に見られている部分はあると思いますが、もっと緩めた方がいいと感じております。そして、みしまるももさんは、筆を遅くしつつ、法的な認識やWikipediaのガイドラインへの理解などいろいろともっと深めていただく。執筆能力があるのはみんな知ってますので。もうしばらく時間がかかる事だし、今後もたまにぶつかる事もあるかもしれない、とも思いますが、一緒にやっていくにはそういう事になるんじゃないかと思いますが・・・。--Siwamura会話2014年7月6日 (日) 01:45 (UTC)[返信]

すでに書かれた記事をどうするか、という問題が残りますが、これはみしまるももさんにいろいろと認識を深めていただいたのち(数カ月後、あるいは数年後かもしれません)ご自身で修正していただくのがよろしいかと思っております。もちろん、できる範囲での協力は惜しみません。--Siwamura会話2014年7月6日 (日) 02:05 (UTC)[返信]

コメント 何をもって能力が高いと呼ぶかだと思うのですが、複数の執筆者による共同作業では総体としての生み出す質量のバランスはあると思うわけですよ。後は適切な場と相手に合わせた要望程度かと言う判断は、ある程度の立場の経験、能力をお持ちの方ならどの方も殆ど衝突を相応に調整する能力は当然もっているわけです。みしまるさんはこれまで改善は意識されて来ているし、理屈に合う部分は調整されています。またこれまで私が見る限り、立稿した記事に関しても頭痛さんよりみしまるさんの方が詳しい。何人仲裁に入られても、頭痛さんは自分が正しいと主張されて同じ相手にしつこく同じコメントを繰り返す。それがわがままだとは御本人は思ってないと思いますし、自分は間違っていない相手の問題だと思っているわけです。これまでの仲裁者もはっきり頭痛さんの他者への関わり方の問題は指摘してるんですよね。一般の利用者が見た時、頭痛さんの今の状態や行動を、専門分野でも現実社会でもいわゆる能力、経験のある人が持ち合わせている程度にレベルが高いと判断出来るかと言えば、答えはNoです。優秀な人物ならどの分野であれ、調整や指導能力は経験的に保持しているし、とびきり優秀な人物であれば、足手まといがいるような場では活躍しないか、むしろそう言う人達とも抜群の共生を生み出しているケースが殆どです。悪いけれど、Siwamuraさんのお話はむしろ逆に捉えた方が現実的であろうと思えます。自尊心の高い頭痛さんに配慮されての言葉だとは思いますが、頭痛さんはks Aka 98 さんやHusaさんに比べて実社会で活躍されている方だったとは思えないし、みしまるさんのように勉強や努力を現在も続けられている感じがしないんですよね。何をか言わんやなんですが。はっきり誰かが言わなくてはならないような気がしますので。言葉に失礼があれば謝罪しておきます。--106.151.121.246 2014年7月6日 (日) 02:38 (UTC)[返信]

106.151.121.246さん、おっしゃる事はある程度理解できているつもりです。では、具体的にどうするか、というところに行きつくわけでして・・・。お互いに気持よく折れていただくのが理想ですが、なかなか難しいんですかねえ? でも、お二方とも優秀な方々なので不可能ではないと思いますよ。--Siwamura会話2014年7月6日 (日) 03:04 (UTC)[返信]
いや実際お二人とも非常に有意な方だとは思いますよ。本来はあちらのコメントで言うべきですが、頭痛さんの記事は記事で良いと思いますし、みしまるさんの記事も良いと私は感じる。ただ面白いことに他者との関わり方で似たような問題はある。答えや正答に至るまでの方法や、答えや正答がひとつしかないとすると、どの人も最終的には議論しながらクローンのようになり、そこにはどっちが優れているが出てくるわけで、そう言う相互の関わり方や上下関係をつけるかのような欲求はみなさんが見直す必要があるとは思います。こうでなければならない!とすると自分が正しいと信じている方からは当然反発あるわけで、そういうので反発し続けてブロックも最近結構多いですよね。こういう方が良いよねみたいな関わり方をして、賛同が得られたら前に進むみたいな。頭痛さんは過干渉をしない程度に自分の考えを自分はこう思うと主張し続けるのは良いと思うし、みしまるさんも提起している題材に関しては非常に詳しい方なので、その長所を生かしながら活動するみたいな関係があればと思いますけど。みしまるさんって、最初の印象は全然違う感じで、誰も手をつけない場所をコツコツと精緻に立稿してる方でしたし、恐らくこの方でなければ今後かけない記事もあるとは思うんですよね。筆者の表現に関する分析は凄いと思う。それは皮肉にも頭痛さんよの議論でしか現れてこないけれども。頭痛さんとも、他の方とも関係は最初は良好だった気がします。言ってしまうと、他者とのやり取りの失策(特に得意とする場所で無いところで)にムキになって、拗れて辞めるのもブロックに発展されるのも、そもそもコミュニティ、本人にとっては全くメリットないんです。そう言う意味では、コミュニティや、それぞれが、その人の長所を踏まえた上で、短所をそれとなく合意をとってカバーする、そういうように「関わり方」を見直す時期には来てるかもしれないですね。定期的にWikiブレイクするとかやってみれば良いのに。Siwamuraさんに敬意を評してこの場は引き下がります。--106.151.120.27 2014年7月6日 (日) 10:00 (UTC)[返信]

記事「箱男」について、みしまるもも氏が加筆したあらすじを強く批判する意見を書かれたブログがありました。私の知識では当該記事の編集にすぐとりかかるというわけには行きませんが、同ブログ中で指摘されていた参照文献のタイトルの記載ミスだけはとりあえず直しておきました。みしまるももさんの活動について「有意義な執筆をしている」と擁護する意見もあるようですが、これを見るとそのような意見にも疑問をもたざるを得ません。--Kojidoi会話2014年7月13日 (日) 00:26 (UTC)[返信]


(Kojidoiさんへ) そのブログ主さんは、文庫の解説で、「軍医」=「箱男」(主人公)かのように書かれていると解釈されていますが、そのような明確な断定的なことは文庫解説に書かれてないです。

文庫本の解説では、「医者であるこの男は、箱男として贋ものであるがゆえに医者としても贋医者となってほんものの医者、軍医殿の登場を促し、今度は逆に軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり、したがって記述者の地位をも贋箱男・贋医者から奪い返して、<死刑執行人に罪はない>の筆者になる」、また「軍医殿が贋医者によって殺されることによって作中人物と化し、記述者として失格する」とも解説していますから、軍医が、この小説の冒頭からの話者(箱男)や、その後の話者(箱男)とは規定し難く、「軍医」=「箱男」(主人公、記述者)とは、明確な図式にはなっていないと思います。

それから、実際の原作の「死刑執行人に罪はない」の章を読んでも、安楽死を望んでいる軍医が、贋医者が自分を殺しにくるのを待っているくだりでも、贋医者が階段をのぼってくる足音を聞いて、「むろん、箱はすっぽり頭からかぶって(中略)君は上がってくる」と書かれてあり、その男が贋医者Cであることは示唆されていますし、その後段では、「溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった」「ズボンと長靴をはかせるのも、箱をかぶせる前の方がいいだろう」と明確に書いてありますので、私が「あらすじ」において「擬装しようと考えていた」と書いたのは「原作の中身に沿って」書いたことです。贋医者が軍医を殺して溺死に擬装したことは原作にありますので、そのブログ主さんの独自の解釈ではありません。

また、私のあらすじの、一番目の「海水浴場のシャワーで身奇麗にして~」が、「ぼく」のシミュレーションや空想だと、そのブログ主さんは言っていますが、それはその方の解釈であり、それが「現実」か「空想」かは、はっきりしていません。元々そういうふうに、どちらか不明な断片の寄り集まった構成の作品なので、その後段の2番目の「海水浴場のシャワーで身奇麗にして~」との辻褄を求めること自体が、おかしいのではないかと私は思います。ただそのブログ主さんの言うように、この作品の性質上から、「章」ごとに分けて書く必要があったとは思います。--みしまるもも会話2014年7月13日 (日) 03:06 (UTC)[返信]

逆でしょう。辻褄があうように書かれているとは限らないようなスタイルの作品であるにも関わらず、「あらすじ」が執筆者によって辻褄をあわせながら書かれていることが問題なのです。そのブログの方は少なくともどこまで自分の作品解釈で、どこまで作品に書かれていることそのままか、といったことの判断はついています。--新続頭痛会話2014年7月13日 (日) 03:45 (UTC)[返信]
「軍医」=「箱男」もそのブログの方がそうだと言っているのではなく、論文・作品研究でしばしばみつかるそのような解釈を一方的に排除するような解釈のもとにこのあらすじが書かれていることの問題を指摘しているんです。この作品の場合「明確に書いてあるかどうか」ではなく「その書かれてあるものの位置づけ」が重要です。正確性が疑わしく、書き方を抜本的に変える必要があるでしょう。みしまるももさんに任せるべきではないと判断します。--新続頭痛会話2014年7月13日 (日) 03:50 (UTC)[返信]
それについての議論ですが、百科事典の記事の発展・是正という観点からも、ノート:箱男で行った方が良いと思われます。ここで続けると脱線・論点の拡散化の虞があります。--ShellSquid/履歴 2014年7月13日 (日) 04:33 (UTC)[返信]
入れ違いになったようですが、ノート:箱男に議論場所を設けています。ついでに転載に関しWikipedia:削除依頼/箱男を出しました。--新続頭痛会話2014年7月13日 (日) 04:39 (UTC)[返信]

まとめ[編集]

先行する議論がまだ決着を見ていないため、本コメント依頼は凍結するものといたします。本依頼は折を見て削除するか、場合によって再びコメントを受け付けることがあるかもしれませんが、その際にはよろしくお願いいたします。--Nazox会話) 2014年5月28日 (水) 13:44 (UTC) 凍結解除のため取消--Nazox会話) 2014年6月17日 (火) 16:18 (UTC)smallタグ閉じ。--ikedat76会話2014年7月6日 (日) 06:25 (UTC)[返信]

「著作権に対する理解・引用の問題など」節で、侃々諤々の議論が展開されていますが、その内容は、本依頼の本来の目的からは相当に逸脱してきているように思います。私は、現時点において、みしまるももさんに対するコメントは一通り出尽くしたと判断し、そろそろまとめに入りたいと思います。

寄せられたコメントのほとんどは、私が依頼者コメントにて指摘した11の問題点のいずれか一つ以上の項目に共感を示しています。それに対して、私が指摘する問題点を否定し、みしまるももさんの態度を擁護する意見は全く、一件も見ることはできませんでした。この状況に対し、みしまるももさんは、一部の意見に対して「もう一度よく自分の反省点を考えてみます」と述べてはいますが、その考えた結果はいつまでたっても述べられることはなく、逆に「反省点を考えると言っておきながらまだこんな発言をしているのか」という指摘(ikedat76さん、2014年6月25日 (水) 11:59)を受ける行動を続けています。

以上から、私としては、どうやら被依頼者の他者を疲弊させる参加姿勢には改善は期待できないものと判断せざるを得ず、ついては被依頼者のブロック依頼に移ることが妥当ではないかと考えますが、いかがでしょうか。なお、著作権の問題については、みしまるももさん個人の問題としてではなく、記述されている内容が著作権的にどうであるかという観点で、別のコメント依頼に移行したうえで続行していただけますようお願いしたいと思います。 --Nazox会話2014年7月6日 (日) 06:10 (UTC)[返信]

コメントもう一つのコメント依頼で指摘したことですが、ようするにikedat76のことが気に入らないから、節度も何もあったものかで、ikedat76の出した各種依頼に反対と称する横槍をこの人は出しまくっていて、へきえきしています。先日3ヶ月ブロックの結論が出た利用者:Shigeru-a24さんの投稿ブロック依頼では、依頼対象者の虚偽と矛盾以外なにものでもない弁明を持ち出して擁護する始末で、その後も、ああいえばこう言う式の言い抜けに汲々としています。

ikedat76みたいな評判の悪い利用者ならべつにいいや、と各自が考えるのはご自由ですが、次にたまたま意見が対立して同様の付け狙わいの対象とされるのが誰なのか分かったものではなく、コミュニティを疲弊させる参加の仕方をしている利用者と言わざるを得ないでしょう。いま派生しているCopyVio関連でも誠実な対応が得られるか疑問なしとはしませんし、その前にこのコメント依頼でよく考える云々と言う発言も一体何を考えたのか分かりませんし、投稿ブロック依頼に進むことに反対するべき理由はないものと考えます。

ただし、このように述べていることはもう一つのコメント依頼で依頼対象者となっている利用者に何の問題もないことを意味するものでは一切なく、別個の問題として扱われるべき問題であることは申し添えておきます。--ikedat76会話2014年7月6日 (日) 06:25 (UTC)[返信]

コメントコメント依頼の主旨より、逸脱したことに、まずお詫び申し上げます。さて、次の段階に、移られることに異論はありませんが、ご本人は「もう一度よく自分の反省点を考えてみます」と述べられたますので、そのことの返答を待つのと実際の編集活動の変化を伺う意味で、もう少し(1~2週間程度)依頼の提出をお待ちいただければと考えております。--Siwamura会話2014年7月6日 (日) 06:58 (UTC)[返信]

(Siwamuraさんへ)「もう一度よく自分の反省点を考える」と述べてから、既に11日が経過しています。ご本人はこの間、以前とあまり変化があるようには見えない態度で他の議論に臨んでいるわけですが、この上なお待つ必要があるものでしょうか。
みしまるももさんが何らかの反省を見せる際は、例えばこのコメント依頼で見られる例では「言葉足らずのために誤解を招いた」というように、問題のポイントをわざと外し、問題を矮小化させる手法を多用します。もしくは、よほど都合が悪い場合は、依頼者コメントの問題点の10で指摘したように、完全に無視することも行います。このような人の返答をこれ以上待つまでもないと思うのですが、しかし、そうおっしゃるのであれば、もう少し他の方々のご意見も聞いた上で決めさせていただこうと思います。--Nazox会話2014年7月6日 (日) 08:06 (UTC)[返信]
 もう進んでいいんじゃないですかね。形ばかり、謝罪とかよく考えてみるとか言いながら、一方で頭痛氏へのブロック依頼を平気で出したりしているわけですから、それらの殊勝な言葉は空手形としか思えません。--Kojidoi会話2014年7月6日 (日) 08:12 (UTC)[返信]

何をおっしゃっているのかまったく理解できないのですが。

これだけ方針とコミュニティを軽視し、攻撃を繰り返しておいて今さら投稿ブロックの危機が迫ったら言い訳と言われましても…。事実を客観的に認識する能力を欠き、都合のよいように捻じ曲げられた認識で発言をしている、という指摘がすでに出ていますが、そのような状態で参加を続けられても迷惑というものです。--ikedat76会話2014年7月7日 (月) 13:21 (UTC)[返信]

 Nazoxさんのご提案に賛成致します。被依頼者は指摘されている問題を改善する様子が全くありません。投稿ブロック依頼へ進むことが適切と判断致します。--Otherde会話2014年7月7日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
  • 上で箇条書きで並べられている問題についてですが、「露骨な目的外利用者(かつ低くない可能性でブロック逃れ)により提出されたWikipedia:コメント依頼/ikedat76 20140105で2度にわたりコメント」、については、コメントの内容の方が問題だったと思われます。2度コメントした、それ自体では問題かどうか第三者には判断できないと思います。
  • そして、みしまるももさんは「確かに私はChichiiiさんやShigeru-a24さんに好感を持っていますので」と仰せですが、そうした一種の「判官贔屓が嵩じ過ぎている」自覚はないものとコメントから拝察しました。みしまるももさんの姿勢としては、それなりに改善されたところもあると思いますが、深刻な部分で、まだまだ改善されていないどころか自覚もしていない、と思わせるだけのものが7月7日の本人コメントからはありました。前に比べると首を突っ込んで感情と主観で引っ掻き回す傾向は減少していると私は思いますが、他の多くの方々が埒が明かないと考えるのは当然でしょう。あとみしまるももさんは誰かから指摘されるとすぐに反応して反論するということをこのコメント依頼でもしてきていますが、それ自体は悪い事ではありませんが、自分が反論できる部分にだけ反論して、そのほかの部分には真摯に向き合っていない、意図的にしているのかどうか知らないですが無視してるとしか思えない傾向があります。
  • よって投稿ブロック依頼に移行して合意による判断を仰ぐのは必然であると思われます。--ShellSquid/履歴 2014年7月7日 (月) 23:59 (UTC)[返信]
    • 「2度」と書きましたが、見直したら3度でした。何を書いたかというのもそうですが、明らかに素性の悪いものに3度も嬉々として発言してれば大概というものです。
    • で、差分。
      1. 2014年1月6日 (月) 12:02 (UTC) の第 50279374 版
      2. 2014年2月21日 (金) 02:09 (UTC) の第 50771444 版
      3. 2014年5月9日 (金) 13:09 (UTC) の第 51618296 版
    • 1件目は2014年7月7日 (月) 13:21 (UTC)付の箇条書きの1件目と同件です。
    • 2件目はWikipedia:投稿ブロック依頼/HASIDATEで私ikedat76へのつきまといと攻撃(念のために言いますが、コレ、完全無欠の目的外利用であり、こっちが被害者のはずですが?)によりブロックになった依頼対象者と被害者をどっちもどっち扱いしていました。Chichiii 氏のときと同じで、攻撃した側を諌めることも行動を改めるよう働きかけることも、一切無し、皆無で、です。それって攻撃やったってOK、って言ってるのと何が違うのか私には分かりません。みしまる文学では違うのかもしれませんが、そんなものは知ったことじゃない。
    • このうち3件目はWikipedia:コメント依頼/朝姫 201405での2014年5月7日 (水) 04:40 (UTC) の発言、ちなみに利用者:頭痛さんと反対側の立場での発言であり、いわゆる「場外乱闘」に当たるものとみなして止めるよう求めたことに対するものであり、意に染まない利用者に対して攻撃の機会があればなりふりかまわずぶりがよく分かるというものです。--ikedat76会話2014年7月8日 (火) 11:35 (UTC)[返信]
      • ikedat76さん、すみません質問です。要するに1件目の3つについては、明らかに素行の悪い利用者に対して、ikedat76さんがあれこれときつく指摘している最中に、みしまるももさんが来て毒舌がすぎるだのikedat76さんが追い詰めてるだのと批判したということであり、2件目は明らかなつきまとい利用者への審議の最中にみしまるももさんが来て、どっちもどっち的なコメントを入れて、被依頼者の肩をもったことで混乱をさそったことであり、3件目はみしまるももさんが最後に「(中略)姫さんを過剰に追いつめるのは、ikedat76さんの勇み足だと思われます。」と蛇足を付け加えたからですよね。違ってましたでしょうか。--Gyulfox会話2014年7月8日 (火) 12:34 (UTC)[返信]

(インデント戻し)不躾ながら、率直に申し上げる必要があると判断し、申し上げる次第です。

ああ、あとみしまるももさんね、こんなとこまで場外乱闘しに来ないでね。掛け値なしに迷惑。--ikedat76会話) 2014年5月8日 (木) 14:51 (UTC)

これが、「止めるように求めた」です[50]

どのように、好意的に解釈しても、これは「止めるように求めた」というより、「邪険に追い払った」という印象しかありません。だからと言って、みしまるももさんの議論姿勢を正当化するものではありません。
そしてもう一つ、[51]の発言を以てして、頭痛氏との場外乱闘と解釈されたようですが、履歴を見るにみしまるももさんはこの議論への参加はこれ一回限り、場外乱闘は生じませんでした。--ShellSquid/履歴 2014年7月13日 (日) 15:34 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼提出のおしらせ[編集]

Wikipedia:投稿ブロック依頼/みしまるもも20140708を提出しております。今さらですが、みしまるももさんも不十分ながら反省の姿勢を見せ始めたようですが、ここまでこじれてしまった以上、皆さんのご意見を仰ぎたいと思い、提出に踏み切りました。投票、ご意見などありましたらお願いします。--Nazox会話2014年7月8日 (火) 13:21 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼終了後の行動について[編集]

みしまるもも氏が立項されたゼーロンのノートページにて、みしまるもも氏からこのようなご意見の投稿がありました[52]。自分の記事の著作権に関する見直し作業がすべて終わるまでは記事をそのままにしておいてほしい、という内容です。

みしまるもも氏は先の投稿ブロック依頼の場で、自分は「自身の削除依頼の出された著作権侵害案件の記事や、その他にそのおそれのある記事がないかの点検作業中」であり、「この作業期間中はそれ以外の活動は一切行わず、この見直し作業に集中いたします」と宣言し、それが守れるなら一連のコメント依頼を通じて指摘されてきた議論における問題についても改善が期待できるだろうと見なされた、というのがブロック依頼における大筋の経緯であったと理解しています。自分の執筆記事の他者による改稿を、自分に課せられた編集制限が解かれるまで差し止めに来る、ということの何が「著作権侵害案件の点検作業」なのでしょうか。

ブロック依頼に先立って行われていたコメント依頼(本依頼)では、みっち氏、T6n8氏により、みしまるもも氏の記事の私物化の問題点が指摘されていました[53][54]。上のようなみしまるもも氏の「要請」は「記事の私物化」以外の何者でもないと思います。

またこれに先立ち、砂の女楢山節考で私との間で編集合戦が起こりました。編集合戦につい応じてしまったことは私も悪かったと思いますが、「著作権侵害案件」以外の活動をしないと言い、それを忠実実行しようとする人物が編集合戦を起こしうるでしょうか。その編集内容も「著作権の安全をきして改稿したところと出典を消されてしまったので、再び改稿。」などと要約欄に書きながら[55]、やっていることは単に私がやった冒頭部分に関する、自分の意に沿わなかったらしい修正をしつこく差し戻しているだけです。「出典を消されてしまった」も何も、私はその出典自体(文責者のわからない文庫カバー文)や解説文のまとめ方を疑問視して冒頭文を簡略化しているわけで(解説文自体は後掲されている)、出典だけ消してしまっていたならともかくこれを「出典を消されたから」などと理由付けて差し戻すのは牽強付会もいいところでしょう。

また差し戻しの際の要約欄に「著作権見直し改稿した編集の邪魔をしないでください。」と繰り返し書かれています。「編集の邪魔」って一体どういうことでしょうか。「著作権侵害のおそれがある文章」があるならまずその部分を除去した上で削除依頼に出さなければなりません。削除依頼に出すほどではないがやや危険性があるものを編集で修正する、という話なら、侵害のリスクという点に限って言えば「直す」でも「除去する」でもリスク回避の度合いは同じです(むしろ下手な要約をして文意を曲げているほうがリスクが残るでしょう)。このような差し戻しのどこが「著作権侵害案件」の「点検作業」なのでしょうか。「著作権の見直し作業」というのは、みしまるもも氏が自分で行ったミスを自分で修正するという話ですよね? そのような作業を逆に聖域化し、現実には著作権侵害のリスクとまったく関わりのない他者からの修正作業を撥ねつけて自分の文章に固執する、このようなことに正当性がありますか。「記事の私物化」以外の何者でもないじゃないですか。

楢山節考の編集合戦では、Wikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるももで問題視された鉤括弧に関する編集が含まれています。しかしこれに関する議論では、T6n8さんの仲介により、少なくとも小説の鉤括弧の選択は「実際には出版物を選ぶほかなく、通常想起される出版物に合わせるか、編集者がある理由で選択した出版物に合わせるか(初出、初刊)」などの選択肢はいずれもありえて」[56]、という見解については双方の同意が成立していたのです[57][58]。この考えに従えば単独刊行のない「楢山節考」は「書籍」とは見なしえず、「」を取るしか論理的に選択肢はありえません。しかし今回の編集で「表題作はただの一収録作品の扱いとなりません」[59]と、なんら客観的根拠も論理性もない理由で上記の点が覆されています。

鉤括弧の議論については私も他の利用者の参加を遠ざけるようなやり方で議論してしまっていたことに対して批判を受けましたが、みしまるもも氏の議論展開の論理的な飛躍や牽強付会についても複数の利用者からの指摘がありました。「著作権の点検作業」終了後どころか、その作業中ですらそのような飛躍した論理展開において行っていた自説に固執し、また新たに飛躍した意見を付け加えていることになります。また先の投稿ブロック依頼では、「みしまるももさんのトラブルの多くは頭痛さんとのことです。」というご指摘もありました。私にも至らないところはあるでしょうが、その「トラブルの多く」もノート:パチンコ茨城県などに関して行われたのまったく同じような論理の飛躍や牽強付会を文学分野のあちこちの議論で展開されたことに起因しています。投稿ブロック依頼での結論は妥当だったのでしょうか? 以上の行動・言動は、結局のところ投稿ブロック依頼を通じて「自分の関わった記事や、文学関連」のみに活動範囲を縮小したというだけのことで、その範囲においてはこれまでとまったく同じように活動し議論する、という予兆にしか見えません。これらの行動のどこに「反省の兆し」が見られるのでしょうか。--新続頭痛会話2014年7月26日 (土) 19:29 (UTC)[返信]

(追記)ノート:楢山節考では、Otherdeさんにより、著作権問題に関してみしまるもも氏は報告にとどめ修正自体は第三者に任せたほうがいいのではないか、というご意見が寄せられています[60]。--新続頭痛会話2014年7月26日 (土) 20:39 (UTC)[返信]

みしまるももさんの行動は不可解ですね。コミュニティーに対し説明をされる必要があるかと思います。--Vielen dank会話2014年7月26日 (土) 20:37 (UTC)[返信]
ノート:楢山節考において意見を述べさせて頂きました、Otherdeと申します。ブロック見送りの判断が取られたみしまるももさんですが、活動の姿勢等に関して何ら変化がないことは見ての通りかと存じます。また、みしまるももさんが諸問題に対して適切に対応できるユーザーであるならば著作権問題など初めから起こっておらず、それを本人に対処させていくというのはノート:楢山節考で続続頭痛(新続頭痛)さんが指摘するように問題を増やす原因にもなりかねないと存じます。みしまるももさんにおかれましては、現段階においてブロックされていないことを生かし、利用者:三木王利用者‐会話:三木王)さんの著作権解決の件を応用した手法(問題があると考えられる記事のリストは箇条書きはみしまるももさんのノートページへ、各記事の対処議論は各記事のノートページへ)で著作権問題を解決していくことが適切ではないかと考えます。また、現在の状態を続けていても新たな問題が増えるだけで、いずれみしまるももさんがブロックされて他のユーザーが著作権問題を解決していくことになるだけかと思料します。--Otherde会話2014年7月27日 (日) 10:48 (UTC)[返信]
そりゃ、ないでしょう。みしまるももさんが当面は著作権侵害解消に専念するという条件でブロック回避されたことは間違いないですが、ブロックせずとなったとたんに頭痛さんはみしまるももさんが嫌がる、ふたりがヒートアップしていた事柄を大規模に始めた。挑発しておいて、挑発に乗ったから問題だと挑発した本人が言うのはいかがなものかと。みしまるももさん、頭痛さん両者ブロックならもろ手を挙げて賛成しますがね。--ぱたごん会話2014年7月27日 (日) 11:55 (UTC)[返信]
乗っかるわけではありませんが、私も頭痛さんの行動は挑発だと思いますね。まずみしまるももさんが著作権侵害部分を削除依頼にかけてキレイになったところで頭痛さんが行動されるのなら理解できますが、現状では頭痛さんが自分のなにか意地みたいなもので行動しているように見えます。みしまるももさんのブロック依頼が提出されるならば頭痛さんも同じ条件にあるものと考えます。まず、当事者たる頭痛さんが手を引いて様子をみるべきでしょう。--Hideokun会話2014年7月27日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
被依頼者の編集が「著作権問題への対処」を逸脱しているのは明らかでしょう。先のブロック依頼で、問題への総括なしの「もうしません」など当てにならないと申しましたが、全く危惧した通りの展開になってしまいました。みしまるもも問題において著作権問題は傍論にすぎないのに、いつの間にかそれが本論のようになってしまったブロック依頼の脱線のつけを早速払う形になっています。このままならブロック依頼の出し直しでしょう。第三者に修正を任せるべきというOtherdeさんの提言にも反対の余地はありません。頭痛さんが「第三者」であるとは殆どの人は見なさないでしょうから、当面は頭痛さんもノートでの問題提起に留めて編集への直接介入は控えたほうがよろしいでしょう。ただし楢山節考での編集が「挑発」であるとの見解には全く賛成しません。これこそ「言いがかり」というものです。--Kojidoi会話2014年7月27日 (日) 12:46 (UTC)[返信]
コメント ぱたごんさんに同感です。ゼーロンの件についてですが、頭痛さんはことさら著作権侵害でもなく、直ちに大騒ぎするほどでもないみしまるももさんの編集に対して、ほって置けばなんでもないのに、記事を大幅に刈り込みますとか、異論がなければあらすじを僕のに差し替えますとか、登場人物一覧を全削除しますとか、余計な刺激を与えておいて、みしまるもも氏より、落ち着くまで少し待って下さいとコメントが来たら、ほーら宣言を反故にしましたねとか、みしまるももさんは記事を私物化していますとか、そう判断してコメントするのは、異常に感じられます。 異論がなければ差し替えますとか言われて、例えば私が自分の対案とか出せば、表面的にせよ図らずも私もみしまるもも氏の尻を追っかけることになりますよね。頭痛さんは投稿制限される理由がないと言いますけれど、権利ばかり主張されるのではなく、周辺情況をわきまえて、日本文学ならもっと新規立項されて良い作品は大量にあるにもかかわらず、無益な炎上のようなことを誘発しかねない行動パターンになっていないか良く良く考えたほうが賢明でしょう。--Gyulfox会話2014年7月27日 (日) 13:03 (UTC)[返信]
ちょっと待って下さい。「もっと新規立項されて良い作品がある」から当該記事の編集を控えよというのはおかしいでしょう。--Kojidoi会話2014年7月27日 (日) 13:16 (UTC)[返信]
「本人が嫌がっているから」で文学関連で行っていた数々の非論理的な主張がすべて是認されていしまうのでしょうか。それなら今後もみしまるもも氏がいるかぎり、文学方面でのスタイル上の議論の積み重ねが(これまでもできなかったように)まったくできなくなってしまいます。何度も言っているように、鉤括弧の議論がこじれたのは(私の議論の進め方の問題はあったにしろ)みしまるもも氏の主張に三段論法の飛躍、外部資料の恣意的な意味づけといった議論が成立しえないような面があまりに多かったからです。「対立する二つの意見が折り合わなかった」というようなものではありません。楢山節考のこの点の差し戻しにしていもノート:ゼーロンで行われた「要請」にしても、ブロック依頼提出までに行われていた客観性・論理性のない主張を著作権案件が終了したらそのまま展開すると言っているようにしか見えません。これらは全部「本人が嫌がっているから」ですべて問題なしとなるのですか。
無用な挑発としてはたらいている、ということならとりあえず過去に議論のあった鉤括弧に関する編集、日本文学に意味無く併記されている英題の除去などは当面控えても構いません。しかし出典を確認した上での文章の書き直しなどを「本人が嫌がる」などの理由で差し止められる謂れはないはずです。楢山節考にしても砂の女にしても、元の意図やニュアンスとはかなり異なる恣意的な出典の援用がおこなわれていました。これまでの編集内容や傾向からして、こうしたものの確認や修正をノートの指摘にとどめてもみしまるもも氏にしっかり対応してもらえるとは思えません。非論理的な反論がかえってくるだけだと思います。ゼーロンについても出典をすべて確認してまとめなおすつもりで資料をそろえているのです。こうしたものすら「本人が嫌がる」という理由で差し控えよというのであれば記事の所有権を認めるのと同じではないのですか? --新続頭痛会話2014年7月27日 (日) 19:48 (UTC)[返信]
「例えば私が自分の対案とか出せば、表面的にせよ図らずも私もみしまるもも氏の尻を追っかけることになりますよね」というのはどういう意味でしょうか? 私はGyulfoxさんにはノート:ゼーロンでは(利用者の行動ではなく)記事内容についての意見を述べてくださいと繰り返しお願いしたと思います。--新続頭痛会話2014年7月27日 (日) 19:55 (UTC)[返信]
もう一度確認しますが、みしまるもも氏が当面「著作権案件以外の活動をしない」と宣言されることになったのは、議論における論理的飛躍や牽強付会といった点が指摘され問題視されたためではなかったのでしょうか? --新続頭痛会話2014年7月27日 (日) 20:09 (UTC)[返信]
面倒くさいなーもう。たとえば砂の中の女における頭痛さんの編集はこうでした。

[61](登場人物欄を全削除)私ならこうしまします。名前は仁木順平。(本文中では31歳)。滑舌が悪く要領の悪い話し方をする男。職業は教師で趣味は昆虫採集。 内向的で頑固だが、人づきあいは悪くない。(主人公欄だけ要点をまとめるだけ)

[62](私から言わせた1年放置してもいいような必然性も緊急性も感じない編集のひとつ。)

しかし頭痛さんは、衝突してでもどうしてもこれをやらなきゃ気が済まない、リバートは許さん。約束破りだ牽強付会だ危機だと。当面頭を冷やしたらどうかというだけのことで、編集差し止めとか大袈裟にさわぐのだって論理飛躍でしょ。 --Gyulfox会話2014年7月28日 (月) 00:19 (UTC)[返信]
私の編集の一部に緊急性があったかどうか、などの話は関係ないでしょう。話を逸らさないでください。作品内容も確認せずおざなりな要約などしめされても「そうですか」としか返せません。私はあなたのあらすじの要約をみしまるもも氏のそれよりは余程いいと書きましたが、以後の言動を拝見しているとこのあたりの点少し自信過剰が過ぎるのではないかと思います。
それで「頭を冷やしたらどうか」と思っている相手に「面倒くさいなーもう。」と書くのは「余計な刺激」ではないのでしょうかね。--新続頭痛会話2014年7月28日 (月) 00:48 (UTC)[返信]
もう一度書きます。論理の飛躍や牽強付会が指摘され、自分のミスである著作権案件以外の編集が差し止められている利用者が「嫌がるから」というような理由で、その利用者が書いたまとまりを欠いた記事の整理や不正確な文章の修正を「緊急性がない」というようなことで1年も差し止めることのどこに正当性があるのですか。一利用者が一利用者の行動に制限をかけるからには方針・ガイドライン等に則った明確な返答を求めます。いま編集制限があるのはみしまるもも氏です。私ではありません。--新続頭痛会話2014年7月28日 (月) 00:58 (UTC)[返信]
そうですね。面倒くさいは余計な刺激でした。謝ります。しかしゼーロンのあらすじにしたって、頭痛さんのが素晴らしいと言えば尻追いの片棒担ぎになるし、色々ノートに書き込めば結局尻追いになる。みしまるももさんと頭痛さんと私ではタイプが異なるので、自分のあらすじはどうですかと意見を求めたところで、全体的に改修ポイントが多いと感じれば対案を出るのもひとつの意見ですよね。対案はなしだ。理解できないというほどのことでもないと思います。
論点を元に戻すと私の言いたかった意見としましては、編集の一部であれ頭痛さんのされたことですし、「頭痛さんは権利ばかり主張されるのではなしに、(緊急性がないのなら)周辺情況をふまえて無益な炎上のようなことを誘発しかねない行動パターンになっていないか良く良く考えたほうが賢明でしょう。」というものでした。--Gyulfox会話2014年7月28日 (月) 01:24 (UTC)[返信]
頭痛さん頭冷やしなよ。誰彼構わずメンドクサイ絡み方するのはもうブロック依頼出されてアウトだよ。もう相当頭痛さんのブロックに賛成集まる下地が出来ちゃってると思うし、管理者にブロックかけられる数も増えてきてるよね。自覚しなよいい加減に。--106.151.126.174 2014年7月28日 (月) 00:36 (UTC)[返信]
頭痛さんなりにWikipediaに貢献することを考えてはおられるんでしょうけど、もうすでにやり過ぎという印象を様々な人に与えつつあると思いますよ。頭痛さんは取り敢えず手を引いて様子を見るべきです、急いては事を仕損じるの典型例を見ているようです。--Hideokun会話2014年7月28日 (月) 01:23 (UTC)[返信]
(まとめてこっちに書きます)「尻追い」とか「対案はなしだ」という表現でなにを言おうとしているのかよくわからないのですが(意見が理解できないという意味ではなくて、文章として意味がよくわかりません)、ゼーロンについてはとりあえずテンプレートで注意喚起がなされいるのでそれでよしとすることにします。ただしこの上ゼーロンの改善の手伝いは期待しないでください。その上で記事内容の品質が改善されず、主執筆者が論理性のない意見で自分の版に固執するのであれば注意喚起テンプレートも貼りっぱなしということになるでしょう。
記事のノートへの書き込みや議論の告知・修正テンプレートの貼り付けについてまでは諫止されていない、という理解でよろしいですね?--新続頭痛会話2014年7月28日 (月) 01:41 (UTC)[返信]
そもそもみしまるもも氏の著作権に関する問題を出典と照らし合わせて発見したのは私なんですが。何度もいいますが、私とみしまるもも氏が「対立」しているのは編集分野が被っている上でみしまるもも氏が論理性のない飛躍した意見をあちこちで展開したからです。それを「当事者である」などとまとめられて同じ扱いなのですか。--新続頭痛会話2014年7月28日 (月) 01:49 (UTC)[返信]
これまでお二人の活動をほぼ見ていない私からしたら今回の件においては頭痛さんは間違いなく『当事者』であると思います。頭痛さんも『対立』しているという認識があるのならば一時的にせよ身を引くべきだと思います。--Hideokun会話2014年7月28日 (月) 02:04 (UTC)[返信]
編集分野が被っているのなら一時的にせよ身を引けといってもそれを聞き入れるのは難しいと思います。喧嘩の仲裁と一緒で、まずは揉み合っている両者を強制的に引き剥がさないとダメです。といっても、Wikipedia上では難しいでしょうから、問題とされる部分をリストアップして大勢の第三者で問題の有無の評価を入れていくしかないと思います。--Vielen dank会話2014年7月28日 (月) 08:02 (UTC)[返信]
コメント ウィキペディアの記事は特定の誰のものでもありません。対立していた編集者のうち片方がブロック依頼にかけられ、当分は著作権云々の作業に没頭するという条件で、ブロック見送りとなりました。「一時的に」身を引かなければならないのは、みしまるももさんの方であるのは明白です。みしまるももさんが嫌がろうがどうしようが、そういう条件でブロック見送りとなったのです。でなければ「一切の記事からお引き取り願う」になったのは確実だったと思います。それ以外の他者は、編集の制限は受けていません。記事を改善なさりたい方が編集なさればよろしい。みしまるももさんがいつの日か著作権云々の作業を終え、(その時点での)記事の内容に不満を感じたら「その時点で」編集を再開されればよいことです。
もし現在の頭痛さんの編集に不満のある方は、みしまるももさんとは別個に、「御自身」で編集なさってください。頭痛さんの編集が制限されないのと同様に、他者の編集も制限されていませんから。その結果、編集合戦などになりましたら(みしまるももさんの件とは別個に)「御自身」が対立する編集者の一方として、各種依頼をなさればよいでしょう。-123.220.9.32 2014年7月30日 (水) 03:45 (UTC)[返信]