Wikipedia:井戸端/subj/マスコミ関係記事に張られるテンプレート

マスコミ関係の記事の「出典」「中立」テンプレ[編集]

マスコミ関係の記事(例:キー局テレビ離れなどで中立と出典のテンプレが必ず張られます。

マスコミ関係者が不愉快だからと記事を書き換えようと考えているのか気になります。

しかし、マスコミの報道が中立といえるでしょうか?自分が批判される側である立場の人の報道は出典と呼べるものなのか疑問です。

ここで執筆する人は、基本的に「視聴者」という立場といえましょう。

中立な報道が期待できない以上、どうしても記事が一方的になる、第三者機関があるわけでもない、中立の識者が存在するかわからないのが現状でありましょう。

どんな書き方をしても批判としてテンプレが張られてしまうのが現実です。

マスコミは偏向報道がある、しかしそれに気づくのがブログやJ-CASTなどであり、これらを認めないが故のマスコミ側に偏った記事ができてしまう。マスコミが中立でない限りマスコミ側の視点からの記事しかかけないことはおかしいのではないでしょうか?たぬき 2007年5月19日 (土) 13:19 (UTC)[返信]

まずキー局の中立性についてですが、Wikipediaの中立的な観点から考えると、「問題点」という節と平行して「利点」という節を作成するべきでしょう。また、それら2つの節は同等のボリュームの記事を持つべきでしょう。次に出典ですが、出典を求められているのであれば参考文献を挙げるべきでしょう。私から見ても独自研究にしか見えません。--Mimboo 2007年5月19日 (土) 15:24 (UTC)[返信]
(編集競合しましたが、そのまま出します。長いですが…)「キー局」の項目については読みましたが、個人的な意見・批判が目立つように思います。まぁ、それぞれに的を射ている批判も多いのですが…。それぞれの批判について、どこどこの誰々が○○という本で述べた、などというように出典を明らかにすれば問題は無いと思います。その出典がマスコミの報道などによるものでなくてはならない、ということはありません。逆に、出典が無い個人的な批判は載せてはいけない、という方針がウィキペディアにはあります。Wikipedia:独自研究は載せないも参考にしてください。あと、この記事ではマスコミに対するネガティブな批判が量として多いように思われるので、中立性に疑問が出されたのではないでしょうか。「テレビ離れ」の項目についても同じ事が言えるのではないでしょうか。--Widehawk 2007年5月19日 (土) 15:39 (UTC)[返信]
気になりますが「概要」「あらすじ」などを書くにしても、有名人の評論なら独自研究でも○、個人のブログやサイトは×ですよね。有名人が特定の主義である場合、編集に当たっていつも編集合戦になります。その評論が的を得たものか眉唾物かは「有名人である」こととは関係ないからです。鉄道関係なら尼崎列車脱線事故川島令三が絡むもの、ファンとアンチが対立する種村直樹のような例です。個人サイトのほうが信頼置ける例が存在することがよく言われています。インターネット新聞だって出ました。大体、「社会問題」というものが有名人の論評だけで判断してよいものかそもそも疑問だからではないでしょうか。マスコミ関係は、マスコミが思想信条に影響を及ぼし、世論が流されるものだからなおさらではないでしょうか。それに事実を曲げたかどうか、特定の思想を植えつけようとしているかなどの問題についての記事であるから否が応でも一方的になるのです。もちろん中立の人が尊重されるべきですが。当事者でもマスコミ関係者が社会問題として中立的に執筆するなら一番わかりやすいのですが、可能性として薄いでしょう。東京一極集中では評論家の大部分が関東在住である現状です。夕張市に住むといったキー局など全国マスコミ関係者や評論家がいないことできちんと社会問題を総括できないのではないでしょうか。中央とローカルの関係がいびつなこともローカルのマスコミがそれなりに牽引していた例がありますが、一極集中で格差ができています。たぬき 2007年5月21日 (月) 10:08 (UTC)[返信]
「有名人の評論なら独自研究でも○、個人のブログやサイトは×」というのはある意味では仕方ない。有名人の場合、どういう思想背景等を持った人なのかその本人の解説項目を通して確認もできる。むろん、有名人の意見だからといって、正しいとは限らないという前提での中立的な書き方も求められるはずである。無名人の場合、その人の考えの背景どころか、その人の実在を検証するのも難しい。また有名人ならある程度非公式な場で表明した意見もそれなりの重みを持つが、無名人ならブログ等の場での発言は井戸端会議や雑談との区別ができないのだから。無名人であってもそれなりの雑誌論文で発表してあれば出典としてよいはずだから全然×というわけではない。220.102.235.8 2007年5月21日 (月) 17:30 (UTC)[返信]
まず問題は「有名人が一方の極にいて、一般人がもう一方の極にいる」状態の問題です。BPOやマスコミへの投書でも一般人は黙殺されるのが実情です。インターネット新聞という新たなメディアの存在がありますが、まだまだ中途半端。有名人のブログやコメントを求めるネットの雑誌記事でも炎上する例が多いのは、有名人が偏っている場合があることではないでしょうか。もちろん2ちゃんねらーが荒らす例もありますが、まっとうな意見もあります。しかし読者は軽く見られています。
利用者の側とか消費者の側とか視聴者の側に立って報道する、有名人・マスコミと逆の極にいる有名著述者がいるかどうかが問題です。雑誌も主義主張もあり、また無名の人と有名人では掲載方法に差をつけるのが基本です。
マスコミの批判が増えるのは、有名人だから信用できるという幻想が視聴者にあったこと、それが裏切られるような事件が公になったのが原因です。評論家も視聴者がどう考えているかを調べているかどうか期待できないというのが伏線にあることがいえましょう。たぬき 2007年5月22日 (火) 04:39 (UTC)[返信]
有名人のブログが炎上するのは、炎上を面白がる人にとって相手が有名人の方が面白からだけじゃないですか。無名人のブログだってよく炎上している例をききます。偏っているのは有名人に限りません。無名人だって同じように偏った考えの人が多々います。それはともかく、だからといって、そういったマスコミの歪みを正す役割を過度にWikipediaに求めるべきじゃないでしょう。中立的な観点、検証可能な情報源という考え方を読者に理解して貰うことが、間接的に、マスコミを無原則に信頼する態度を減らすことにつながるんじゃないですか。220.144.230.1 2007年5月22日 (火) 15:14 (UTC)[返信]
そもそも「中立」と「出典」を同時に張ることが納得いかないのです。中立的な出典を探すことになりますが、上記のように中立の識者を探すことから始めなければならないのです。マスコミが中立か、評論家でも眉唾物かなど気になります。眉唾物の評論家を出典にすれば、また編集合戦になるでしょう。また、眉唾物かどうか調べる方法から考えねばならないでしょう。事実と異なる記事でも出典があればOKではおかしくないですか?百科事典なら「常に事実である」ものでないと役に立たないものであり、偏向マスコミや眉唾評論家の後押しになりませんか?たぬき 2007年5月22日 (火) 22:38 (UTC)[返信]
あえて厳しいことを言いますが、「中立」と「出典」を同時に張るのが納得できないなら、Wikipediaの方針を同時に守れないと宣言しているようなものですから、Wikipediaの編集には関わって欲しくないですね。編集過程の中でどちらかを優先して一方を後から補完するというやり方は構わないかとは思いますが、最初から片方をないがしろにする考え方は、Wikipediaで望まれているとは思えません。また、「事実と異なる記事でも出典があればOK」なのは出典があきらかで誰でも検証できるからであってそれが信頼できるものでなければ排除されます。事実と異なることが明らかになれば、事実と違うと記載された出典の記載とともに、否定され、排除されるでしょう。それらが短期的には分かりかねるのであれば、性急に記載してはならないのもWikipediaです。--DEN助 2007年5月23日 (水) 01:37 (UTC)[返信]
その眉唾な評論家の発言をそのまま鵜呑みにして記事にしたら駄目でしょう。でも、「××という評論家は△△で○○と言っている」という表現は問題ありません。Wikipediaが求めている、中立であり、出典があるというのはそういうことです。事実を集約するのは難しいことです。だから出典を集約していくという形で、読者が事実を判断できるようにするというのがWikipediaのスタイルだと思います。--Uiweo 2007年5月23日 (水) 01:52 (UTC)[返信]

私(同時に編集した人も同じでしょう)は、ルールが守れないつもりではありません。順番というものがあり、一度の編集で解決できないものでしょう。反対派の拒否に見える部分もあります。ましてや社会問題、各人各様の主義や評論家の主義、マスコミの主義もぶつかるものです。決して片方をないがしろにする意味ではありません。社会問題では評論家同士が対立するのであれば、それですみますが、大部分の有名人が特定の勢力にいて、しかしソースが個人単位で相当数出ているのが現状です。J-CASTあたりが一般人に近いスタンスといえますが、力関係では不利です。まして、有名人が扇動して風評被害が出る例もあります。不二家にたいしてTBSが行った報道で、いまだに不二家は汚いので買わないという、報道べったりの人もいます。キー局の場合は「問題があっても、地方局は全国に報道できないシステム」であるため、実際を知らない人が大多数であることです。それも含めて記事にしていますが、どうも納得してもらえないようで・・・。眉唾な評論家でも「こう発言した」だけなら事実ですが、その評論家が眉唾か、対立する意見があるか、事実かどうか調査する中立な審判がいるかが問題です。「思い込み」が多いことも社会問題の潜在化でありましょう。そもそも「社会問題」に関する記事自体がどれも難しい編集のしかたにしないと完成しないことがいえます。利害関係の問題であるためです。事実がはっきりしないと社会問題の記事は成り立たないことになりませんか?たぬき 2007年5月23日 (水) 02:30 (UTC)[返信]

一度で解決しないのなら、解決するまでは{{中立}}や{{要出典}}をそのままにしておけば良いでしょう。 -- NiKe 2007年5月23日 (水) 03:08 (UTC)[返信]
有名人・評論家の著書が中立では無い云々以前に、マスコミ(個でなく不特定多数の執筆者)のネット上の記事とは随時時間で変化するものだと思われますし、担当者でもニュアンスが異なってきます。いざ、該当記事に興味を持った方が脚注(出典)URLをクリックして「お探しのページが見つかりませんでした(例:テレビ離れ脚注37)」といったリンク切れでは信頼性に欠けますし、URL文章の全体を把握出来ない他、何を抜粋したのかわかりませんし、“その記事を書いた人間”そのものがわかりません(=著書よりも匿名性が強く、個人の執筆責任が弱い)。また、書いてあったとしても次にその執筆者の記事にめぐり会えるかどうか定かではありません。「出典」は何も本一冊だけもってこいという話では無いはずです。意見が違う本を探して行き(評論家・メディア学や情報学を受け持つ大学教授などの研究者・今回においてはテレビ生産業関係者・広告会社関係者など、更に外国の執筆者に目を向けるなど視点を変えれば、良い比較資料となる筈です)、参照すれば問題は緩和される筈です。マスコミ面にこだわられておられるのであれば、新聞社やテレビ局においても出版物としてまとめている場合がありますから、これを使用するのも一つかと思われます。--Thats-you 2007年5月23日 (水) 03:26 (UTC)[返信]
これを忘れてた。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありませんの「事実の暴露や報道を行う場ではありません」をお読み下さい。 -- NiKe 2007年5月23日 (水) 03:31 (UTC)[返信]
たぬき様が例にあげていたキー局(+テレビ離れ?)をコメント依頼(12697332)に出されていましたので念の為、御報告致します。--Thats-you 2007年5月24日 (木) 00:40 (UTC)[返信]
問題点として指摘されていることがある程度ポピュラーな内容であり、「という問題点が指摘されている。」というように記述に配慮するならば、さしあたり「中立性」には反しないでしょう。複数の意見を記述することで中立性を確保するという目的からは「利点」という節を作るよりも、問題点の個々の内容について「反論」を記載するのがよいと思います。利点という節を作ることに反対はしませんが、作るなら、この節についての中立性を確保するために「次のような利点が挙げられている。」というような表現をするのがよいと思います。Thats-youさんの指摘した脚注37の件[1] についてはWikipedia:出典を明記するに「つまり、参考文献(書籍や論文、ウェブページなど)の一覧を用意してください。」とあって、参考文献・<ref>としてURLをあげることが認められている以上やむをえないことかなと思います。ただ、当該脚注については、まったく検証不能というわけではなく、URLから東京新聞の2007年3月1日づけの新聞記事であることが推測されるので、公共図書館で調査するなどの方法で検証することも(たぶん)可能と思われます。Penpen 2007年6月23日 (土) 02:22 (UTC)[返信]