Wikipedia:井戸端/subj/一文ごとに出典は必要なのか?

一文ごとに出典は必要なのか?[編集]

過剰に「要出典タグ」を貼られるユーザーさんがいて、困っています。正直いって、ここまでひどいと「荒らし」に近いように思えます。たまに、ルールだからと過剰な言動をとるユーザーさんがいて、そういう方に限って、「自分の都合のいいルール」を持ち出してきて、対応に苦慮しています。現実世界でもそうですが、物事には「限度」というものがあると思うのですが……。

私としては、記事全体への出典要求であれば最上部に「要出典テンプレート」を貼り、その他に細部の要出典を求めるのであれば、その個所だけに2~3くらい「要出典タグ」を貼るべきだと考えています。正直いって、要出典タグを一度に10も20も貼る行為は、「荒らし」との区別がつきません。これを許せば、あらゆる荒らし行為が可能になります。

また、そこまで全体に著しく問題があると感じられるのであれば、「まずは自分で調べて、出典のある文章を探して、記事を編集すべき」だと考えます。「出典を貼るのは執筆者の義務」というのは理解していますが、過剰なほどの出典を求めて記事を荒らすのであれば、それは「出典要求する側も義務を果たすべき」ではないかと思うのです。過剰な出典要求をするなら、最低限は調べてからやってねね……というのは、そんなに難しいことなのでしょうか?

Wikipediaでは、一文ごとに出典は必要なのでしょうか? 個人的には、国語辞典に書かれるような基本事項や、義務教育で習う範囲などの一般常識、その他の社会常識については、出典は必要ないと考えています。それ以上の専門的な内容については、積極的に出典を貼るべきです。記事全体の割合で、3~4割くらいに出典が貼られれば、概ね理想的だと思っているのですが、私の考えは間違いなのでしょうか?--119.148.211.66 2016年5月18日 (水) 13:50 (UTC)[返信]

要出典タグの使い過ぎは問題ですが、理想を言えば一文ごとに出典が必要ですし、10割出典が付けられているべきです。--Haifun999会話2016年5月18日 (水) 13:54 (UTC)[返信]
コメント もし、あなたが常識と思える内容でも、Wikipedia:常識なんてないなんていった私論やWikipedia:空が青いということに出典は要るといった文章がウィキペディアでは存在します。過剰なタグに関しては、張る側がタグをまとめて数を減らすなどが理想とも言えます(1つのマナーやガイドラインとされるべきかと。)。ケースバイケースで出典をしながらの執筆がよろしいと思われます。 --組曲師talk/ 履歴 2016年5月18日 (水) 14:04 (UTC)[返信]
コメント 私は概ね1段落に1から2出典が理想だと思います(同じ段落中で述べる内容は概ね1つの事柄なので)。あと、国語辞典に書かれるような基本事項や、義務教育で習う範囲の一般常識の類いにも出典は必要です(Wikipedia:検証可能性#方針をご覧ください)。またウィキペディアは全世界向けの百科事典ですので、日本の常識を適用してはいけません。Wikipedia:出典を明記する#本文中での出典言及も参考になるかもしれません。--Waiesu会話2016年5月18日 (水) 14:13 (UTC)[返信]
コメント貴方がたのやり取りを見て来ましたが、相手方が正論でしょう。貴方は「自分に都合のよいルール」等と言いますが、相手方が引用しているのは全てWikipedia:検証可能性というWikipediaの根幹を成すルールですよ。どうやら貴方はWikipediaを誤解しているようですので、三大方針のページ(Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せない)や「秀逸な記事」(例えば今ちょうど「選り抜き記事」になっている京王6000系電車はオススメです)をご覧になってお勉強しましょう。誰でも最初は初心者ですから。--Since2016会話2016年5月18日 (水) 14:44 (UTC)[返信]
コメント 「まずは自分で調べて、出典のある文章を探して、記事を編集すべき」だと考える根本原因は「 物知らずが口を挟むな 」という誤った発想ではないかと思いますが、ここは物知らずが知識を得るために存在している場所ですので、一文ごとに出典が付き、かつその出典は常に複数以上あることが理想で、それを実施出来ないかまたは荒らしと思うのであればウィキペディア公式方針で三大方針のひとつでもある最重要方針:Wikipedia:検証可能性を改訂する努力をすべきです。常識は国籍、性別、年齢、時代、教育その他でたやすく変化する定義が曖昧で確定しない程度のものですので、そんなあやふやなモノに頼って記事を執筆する発想そのものが改められるべきでしょう。◆参考文献リストに著者名と出典文献を列挙しておき、本文から例えば<ref name="takeshita1998">竹下 (1998) p.108</ref>などと列挙する方法もあり全文末に出典を付記することは119.148.211.66さんが考えるほど記事執筆を難事にするような出典明示方法ではありませんから、単に119.148.211.66さんが今までそのような執筆に際して他者に明確に提示可能な出典を求めたことがない執筆の不慣れさに原因を求められるかと思います。それは執筆を続けるうちに割りとすぐに慣れていくものですから、今回その書き方に触れたことで意識改革され今後たくさんの出典を元に書かれた秀逸な記事を執筆することも出来るのではないでしょうか。◆出典の重要さと その執筆内容の確たる根拠として、たかが匿名執筆者が自己の思想や経験知識に基いて書いたのではなく、誰でもが閲覧可能な情報源に基いて書かれたものであり、誰でもが得られる情報源を明示しておくこと については「Wikipedia:出典を明記する」を参考にされて下さい。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年5月18日 (水) 14:50 (UTC)[返信]
出典の必要性は分かっています。一応、Wikipediaには10年近く関わっていますので、おっしゃっている事も分かります。しかし、現状のWikipediaは矛盾だらけですし、各個人が好き勝手に自分の都合のいいルールを持ち出して、本当にうんざりする事ばかりです。
「物知らずが口を挟むな」という誤った発想ではないかと思いますが……とのことですが、全く違います。逆に、今のWikipediaの体制こそが、そのような悪しき考え方のように思えます。ただ、私がここで言いたいことは、それとは全く異なります。
どのような理由であれ、一度に10~20も「要出典テンプレート」「要出典タグ」を貼る行為が正当化されるのはおかしいと申しているだけです。あくまで、ルールだからと言って何でもしていい訳ではなく、「物事には限度がある」と言いたいのです。その限度を超えて、自分はまったく編集に関わらずに他人に過剰な要求をしたいのであれば、最低限でいいので自分でも調べて編集に加わってくださいと言いたいだけです。これはWikipediaに関わらず、共同作業する上では当然の要求だと思いますが……。
あと、出典を貼るのは「執筆者の責任であり義務」ですが、要出典タグを見て修正するのは、必ずしも執筆者当人とは限りません。大抵の場合は、他の多数のユーザーにゆだねられています。そうした無関係なユーザーに対して、自分は何も汗することなく修正要求をする以上、タグを過剰に乱立させる行為は控えるべきですし、要求内容についても吟味すべきだと思います。
また例えば、これが「悪意ある荒らし行為」だとすれば、どうでしょうか? 自分の気に入らない文章を削除するために、要出典タグを貼り一定期間後に削除する。もしくは、単にWikipediaを荒らしたい悪質ユーザーもいるでしょう。現状において、その見分けはつきませんし、なんら証拠もありません。仮に今回のケースが荒らしではないとしても、過剰すぎるテンプレート・タグの貼りつけは、見方を変えれば「荒らし同然」です。そこに都合のいいルールを持ち出して正当化することは、荒らしよりも害悪です。これは出典タグ以外のことにも言えると思うのですが、いかがでしょうか? --119.148.211.66 2016年5月18日 (水) 15:13 (UTC)[返信]
ウィキペディアに10年も関わっておられるなら恐らく私と同時期にウィキペディア執筆を開始されたと思うのですが、Wikipedia:検証可能性#方針をご存知ないことに驚きを隠せません。これらが仰る通り「矛盾だらけ」であると仰るのならば、前述の通りWikipedia‐ノート:検証可能性でこの方針を改訂する努力を貴方がウィキペディアのコミュニティの大多数の合意を得て改訂推進するべきであって、個人の正当性やら荒らし認定やらは必要ありませんと申し上げているのですが、ご理解頂けておりますでしょうか?◆つまり噛み砕きますと、「現実には実行不可能な矛盾だらけの方針だから従わなくても良いなどと嘯くのではなく、方針が誤っている、方向性が違うと考えているのであれば自身の考える方向性を正当なものとするべく、現在コミュニティの大多数が正しいと考え従っている大方針を変更させよ、そのために適切な場所で提案提起し議論を行い、コミュニティの大多数から同意を得て(自身の現時点の方針とは違った考え方を)コミュニティの総意とせよ」ということです。◆ちなみに私がその記事に対処するなら、Wikipedia:検証可能性#方針に従い、ウィキペディアには履歴がありますので、全文に要出典を貼付するのではなく文末出典のない記述はごっそりばっさりすっきり全文除去し、大量除去以前の固定版をノートに提示し報告します。あやふやな元記述がないと出典を探すのに不便になるのは執筆者観点であり、本当かどうか分からない匿名編集者が好き勝手に記述したと思しき出典情報源のない記述を読みそれを事実であると誤認してしまうかもしれない読者のことを第一に考えれば早急の除去は急務であり、わざわざ全文に要出典をつけた貼付者さんはまだ119.148.211.66さんほかの加筆編集者が出典をすぐに追記してくれるかもしれない・出典を求めるべき箇所が明示されないと困るといった執筆者視点での可能性を考慮した親切心からの行いではないかと考えられ、それをばっさりと「荒らし」と決めつけてしまう119.148.211.66さんの感覚の方がウィキペディアの執筆者としてどこか理解が及んでいないように思えます。◆このまま議論継続なさるのでしたら、アカウントを取得して頂けませんでしょうか? 可変IPでしたら明日にはIP変化して同一性が失われてしまうかもしれませんし議論継続に著しく不便です。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年5月18日 (水) 16:12 (UTC)[返信]
コメントWP:Vを「各個人が好き勝手に持ち出す都合のいいルール」と言うのならNami-jaさんの言うとおりウィキペディア公式方針で三大方針のひとつでもある最重要方針:Wikipedia:検証可能性を改訂する努力をすべきです。貴方は主観的な「限度」とやらをルールよりも優先したいようですがそのような態度は社会では通用しません。貴方が「過剰な要求」と思ったとしてもWikipediaの方針に照らせば、それはむしろ「しかるべき要求」しれないのです。後貴方は「出典を貼るのは『執筆者の責任であり義務』」と誤解してますが正確には「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。」とあります。つまり「その記述を除去されたくなきゃ出典を示せ。出典を示さなかったんなら除去されても文句は言えねえぞ」ってことです。「Wikipediaに10年近く関わっている」ならいい機会ですのでお勉強しては、いかがでしょうか?--Since2016会話2016年5月18日 (水) 16:17 (UTC)[返信]
コメント 各人が主張する通り、方針にあるように出典がある、加筆するときになにを参照にして書いたか、それは必須と考えます。ですが、いわゆるタグ爆撃・鍋料理おでん2重3重に使用する意味はあるのか)みたいな一番上に出典の明記等を貼っておけば済むものをこういった使い方がなされるのであれば、もはやすべて除去していただいた方が、直す人もやる気が出るってものです。追記。上のSince2016さんと爆撃していたTaro Yokojiさんはブロックされたようです。--多摩に暇人会話2016年5月18日 (水) 16:49 (UTC)[返信]
コメント基本的には一文一文、というか、すべての内容に対して情報源を示すことが好ましいです。
常識的な範囲については、Wikipedia:空が青いということに出典は要らないWikipedia:空が青いということに出典は要るという対立する私論がありますから、とりあえずは読み物として読んでみるとおもしろいかもです。
辞典に書かれるような内容でも、辞典により、時代により変化しますし、それらの基本事項が、どのような由来で決まっているのか、その由来となるような文書などを示すのが、読者には有益です。義務教育レベルのことには教育のための簡略化とかも含まれます。そうしたところもあるので、「書かなくてもいい」ということにはできないと思います。
ただし、そうした踏み込んだ調査をしなければ書いてはいけないというわけでもないですし、手元にある資料によっては、それが信頼されるものではあるが、それのみを示すことがバイアスになりかねないと考えられるようなこともあります。そこらへんは、書き手の判断でよいと思います。常識的なことについて、常識的に書き、それが他者にも常識的な水準にあると評価される間は、出典なしという選択肢がないわけではない。
ただ、実際面では、どこまでが基本的か、という部分は、その人の感覚に由来するところもありますし、「こんなことも知らないのか」みたいなことになって、かえって混乱を招くところでもあります。
記述に対する出典の数は、あまり目安となるものはないと考えるのがよいでしょう。十分な先行研究の蓄積があり、内容に変化がないものなら、かなりの範囲、時には項目丸ごとに対して基礎的な専門書などでカバーできます。先行研究がないと、一文どころか読点ごとに情報源を示さなければならないこともあります。
出典が示されていない場合にどうするのか、というのは、また別の話になります。Wikipedia:検証可能性はそれぞれの執筆者が参照すべき重要な方針ですが、Wikipedia:編集方針や、Wikipedia:新規参加者を苛めないでくださいWikipedia:善意にとるといったガイドラインを無視していいわけではありません。
当然、自ら情報源を付加していくことが最善です。能力や立場や諸事情からそれが出来ないならば、それを担ってくれる人に向けて情報源の付与対象の適切な取捨選択や心情的な配慮が必要で、それらによってウィキペディアの記事が充実されていく。どういう記述には、どういう場合には、どういうテンプレをどういう風に使うのがいいか、と考える必要がある。論争がありそうなところや、自分の知識から疑義があるようなところなら、ピンポイントに要出典範囲を使っていくのが良いだろうとか。アクティブに情報源を書かずに加筆しているようだったら、その執筆者に対して、検証可能性の方針を案内して出典を示すようお願いするのがよいです。公式サイトやニュースサイト、公開されている論文など、ネット上に信頼できる情報源が見つかるような情報ならば、いくらか出典を加えて、書誌情報の書き方やマークアップも含めて、出典を示しながら書くことの例示とするのが分かりやすいと思います。
出典がないからというだけでやみくもにテンプレを貼ったり[1]、対話もせずに不慣れな編集者を荒らし扱いするとかというのは、適切ではありません。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないでいう「法律家ごっこ」、Wikipedia:規則の悪用となるでしょう。自分が詳しくなくとも、多少の情報収集力や教養があれば、かなりの部分は判断できます。執筆者には、項目の内容についての知識と情報収集力、書誌情報の示し方などが求められるのと同様、テンプレほかメンテナンス作業を行う者には、広範な教養や情報収集力、方針についての知識と背景の理解、初心者あるいは頑固だったり風変わりだったりする優秀な執筆者とのコミュニケーションスキルが求められる。検証可能性の無理解が時にブロック理由になるように、編集方針の無理解がブロック理由になることもある。--Ks aka 98会話2016年5月18日 (水) 17:11 (UTC)[返信]
結局、Taro Yokojiさんはブロックになりましたか。つい先日ノートページで対話を試みたのですが、問題点を直接示せる強力な文書がなかなか見当たらず、自分には荷が重そうだったので最低限の言いたいことだけ書いて議論を簡単に丸めてしまいましたが、他にやっておくべきことがあったでしょうか。--茂林寺たぬき会話2016年5月18日 (水) 21:31 (UTC)[返信]
自分が詳しくなくとも、多少の情報収集力や教養があれば、かなりの部分は判断できます。執筆者には、項目の内容についての知識と情報収集力、書誌情報の示し方などが求められるのと同様、テンプレほかメンテナンス作業を行う者には、広範な教養や情報収集力(中略)が求められる。」--これは「タイムトラベル」の今後の編集が楽しみですね。難しそうな事案ですがKs aka 98さんによる模範となるべき編集を期待しています。--133.1.46.30 2016年5月23日 (月) 10:37 (UTC)[返信]
コメント 他人に「言い出しっぺの法則」を適用させようとするのは何の方針に基いておられるのでしょうか。現状の記事内容に何らかの不満をお持ちであるのでしたら、議論と合意を経て自身の望むところを反映すれば良いだけのことであり、他者の働きを期待するだけでただ座して待つというのはえらく消極的に思えますが。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年5月23日 (月) 14:00 (UTC)[返信]
私はまだウィキペディアのルールを全て把握できていないのでアカウントは作らず編集にも参加せず、数年間見学をしています。◆明文化された方針すら知らずに無責任な編集を繰り返すIP利用者の方々に比べれば、石の上にも三年!、ベテラン編集者の方々の編集や議論、そして問題解決を拝見する中でウィキペディアのルールやあり方を知った上で編集に参加する方がいくぶん賢明だと考えております。とはいえ最近はノートページなどでコメントを加えることも少なくなってきましたが...◆という訳で、これまで様々な問題を解決されてきたNami-ja(凪海) さんや他者の規範となるべき立場にあるKs aka 98さんの今後の対応は私にとってたいへん興味深いという訳です。すなわち、現状の記事に何らかの不満があるというより、方針と照らし合わせて明らかに問題を抱えているにもかかわらず編集が続けられて大きな記事になってしまったタイムトラベルを先達がどのように対処するのか、お勉強させていただきたいのです。◆もちろん、他者の働きを期待するだけでただ座して待つべきではない!というご示唆が何らかの方針に基づいておられるというのでしたら、先のコメントはお詫びして訂正いたします。何分、未だルールを完全には把握できていないものですので。--133.1.46.30 2016年5月24日 (火) 11:45 (UTC)[返信]
 追記どうやら彼の独自方針だったみたいですね。ところで多摩に暇人さんに伺いたいのですが「一番上に出典の明記等を貼っておけば済む」って一体何が「済む」のでしょうか?何年も「一番上に出典の明記」が貼られっ放しの記事をご覧になったことはあると思いますが、そういった状況は何か問題が解決しているようには思えません。それを「済む」と表現するべきだとしたら、それこそまさに119.148.211.66 さんの仰る「矛盾」では?--133.1.46.30 2016年6月3日 (金) 08:18 (UTC)[返信]
  • コメント過去の議論では、こんな指摘があります。是非とは別として、印象論としてはこういう感じはあるだろうなあとは思います。
Template:要検証の説明によると、Template:要出典の意図は「内容は信頼がおけるものの適当な出典がない」であるはずです。なので、要出典をつけられたら「この記述は正しいと思うよ」という意味になる・・・ように設計されています。(困ったことに、Template:要出典にはそのことが書いていない。)しかし実際には、要出典をつけられると「嘘くさい」と言われたように感じる方が多いでしょうねえ。
「ここは嘘くさいです」という場合にはTemplate:要検証を使うことになっています。そのほかTemplate:未検証とかTemplate:独自研究とか、状況に応じていろいろ使い分けできるように設計されています。「要検証」のほうが後発なので、その設計どおりに運用されているという感じではないですけれど。--柒月例祭会話2016年6月5日 (日) 16:35 (UTC)[返信]