Wikipedia:査読依頼/横浜競馬場 20210615

横浜競馬場 - ノート[編集]

日本初の近代洋式競馬場で、江戸時代に開設された歴史ある競馬場の記事です。幕末から明治期にかけての歴史背景とも合わせながら出典を整備の上加筆しました。可能であれば良質な記事の選考にも出せればと考えていますので、ご意見やご感想などをお待ちしております。なお、IPアドレスが変動しますので、よろしくお願いいたします。--2400:4053:86C1:E300:A8B8:1911:C3F7:F12C 2021年6月14日 (月) 15:46 (UTC)[返信]

【査読】 ──専門家の方による審査結果。
  • 全体を査読するのはしんどいので、断片的であることをご容赦ください。今回はひとまず『日本レース・クラブ五十年史』を眺めてみました。
  • さきに結論を言うと、馬事文化財団のサイトは、当然に『日本レース・クラブ五十年史』を踏まえてのものでしょうから、馬事文化財団のサイトを基にして小気味よくコンパクトにまとめるというのは悪くないと思います。(ただし『五十年史』といまの記事を較べてしまうと、抽象的で具体性に欠く叙述が多いと感じます。)
  • まずこの『日本レース・クラブ五十年史』(1970年)について説明しておきます。この本のおおもとになっているのは、
    • F.M.Tegner,“THE NIPPON RACE CLUB (YOKOHAMA RACE CLUB) 1862-1912”,1912
です。これは、1911年から1912年に日本レース・クラブの理事長を務めたF.M.タイナーが執筆したものです。全文英語です。これを1927年に和訳したものが
    • 『日本レース・クラブ小史』
です。訳者名は不詳です。これらの英語版・翻訳版とも、原典は現存しませんが、再版本が残っています。
『日本レース・クラブ五十年史』は、上記の英語版・翻訳版をベースに、幕府関係史料、『横浜沿革史』『横浜市史稿』『横浜市史』や当時の新聞、書簡、等をもとに再研究してまとめられたものです。巻頭の絵図や巻末の年表もあわせると80余ページあります。これに加えて、上記の翻訳版(約30ページ)・英語版(27ページ)も採録しています。(本の中でも何度も出てきますが、横浜競馬場に関する資料のかなりの部分が焼失しており、不明点も多い。)
問題としては、馬券禁止後のことは情報が乏しいこと、この本自体が50年前のものなので2021年の今となっては新説が登場しているというところですね。
  • この本は、基本的に編年体で体系的に具体的に書かれています。なので全体像や話の流れはつかみやすいです。人名、日付、数値が具体的にたくさん出てきます。これに比べると今の記事本文は、抽象的です。また、断片的な情報源をツギハギしている感じで、ちょくちょく話の軸がブレている感じがします。
  • 一次資料の引用を多数含んでおり、二次資料としては相当「詳細」です。たとえば、いまの記事では「内部対立や外国人居留地の経済力が衰えたことによる財政難に加え」でサラッと済まされている事柄が、「根岸競馬場の借地料問題」「競馬場借地料問題の解決と日本レースクラブの設立」など数チャプター、およそ11ページに渡って詳述されています。これを使うと、「◯年◯月◯日に誰それがどこの役所の誰それ宛に送った書簡では『ホニャララ』という文面で地代YYYY円を要求し、それに対して誰それが◯月◯日の返書でXXXX円にしろと要求し、それに対して誰それが◯月◯日にWWWW円で打診し・・・」みたいなことを具体的に延々と詳述できるのですが・・・そこまで細かく書きたいですか?って感じですね。
  • この本には大量の人名・地名の固有名詞が登場します。歴史・地理好きとしては、そういうのが具体的に出てくるほうが楽しいですね。たとえば、横浜競馬場の建設にあたって測量を行ったのが英国陸軍のMajor Wrayであるとか、建設監督は工兵中尉(小史では大尉)Bond氏(Lieutenant Bond of the Royal Engineers)であるとか、神奈川奉行の宮本小一が幕府側の担当で、彼が金4384両の見積もりを作り、認可したのが勘定奉行の小栗上野介だとか。こういうところに青リンクが増えると、記事が生き生きするというか、「競馬」以外の横方向へ話が広がって楽しいと言うか。運営側の理事役員や、馬主には、日本近代史や横浜史、産業史に関わる人物がいっぱい出てきます。
  • (可能なら)この資料を使って増やしてほしいなと思うのは、この施設の目的は「競馬のため」だけではない、ということですね。記事の中でも生麦事件とかが出てきますけど、要するに、ヨコハマの居留地にいる外国人は、彼らの日常の習慣として乗馬したいわけですよ。で、馬に乗って気分良く全力疾走させるのにうってつけなコースが東海道。道が整備されているから。ほかは整備されてないから。ところが東海道に来られると生麦事件が起きるから(日本人は馬に乗っても全力疾走なんかさせない)、どこか他所で好きなだけ乗馬してください、ということもあって東海道から離れた根岸が選ばれ、4000両も注ぎ込んで、思いっきり馬を走らせることができる走路を作った。なので、「競馬」開催期間以外は、外人がここで乗馬して気晴らししてたわけです。風光明媚なところで乗馬して気分良くなるためにわざわざ競馬場内に樹木を植えたりもしている。そのうち、乗馬して良いのは競馬クラブの会員だけになる。それをさらに制限しようとして、分裂してYRAを作ったり(ニュージーランドやオーストラリアとかでも同じことが起きてますね)。
  • 走路については、『横浜市史・資料編三』からの引用のかたちで、設計時の図面「根岸村地内 外国人輪乗馬場其外絵図」が掲載されています。そこには「輪乗馬場惣長九百弐拾七間」と記されています。これが「927間」の根拠ですね。一方、走路の幅については、「13間」ではなくもっと詳細に記されていて、場所ごとに「是辺ヨリ巾拾間」「是辺ヨリ巾拾五間」と書かれています。雑にいうと、1コーナーから2コーナーをまわるあたりまでが10間で、向こう正面から3角・4角まわって直線が15間、これに加えてスタンド側には4間の馬見走路もある。「13間」というのは、平均値的なことじゃないかなあと思います。
    • (追記)若野章『日本の競馬』(1974)を眺めたら、Lieutenant Bondによる図面が5枚掲載されていました。それには「外側周 九百七拾二間三尺五寸」とあります。こっちのほうが精緻っぽいですね。根岸については、外国人が根岸湾を「ミシシッピー湾」と呼んで故国を偲ぶ景勝地とみなしていたことが書かれています(でもそれってアメリカ人ですよね)この本も横浜競馬について80ページぐらいを割いています。これだと古本で2000円ぐらいですから・・・
    • (追記2)『日本競馬史 三巻』では第二編が横浜競馬場で、約80ページあります(他の巻にもちょいちょいある)。走路については、(1)開設当時は「外側周囲九百七拾二間、幅員十六間」、(2)引用されている別資料では「周囲八百二十七間あり、幅十間より十五間」(※この827は誤記でしょうねえ)、(3)昭和12年12月現在の競馬場概要として「本馬場 延長 一、六三二米 幅員 一五米乃至二六米五◯」などとあります(高低差とかも詳述)。(あ)さんがお示しのはこれですね。経緯は書かれていないので不明としか言いようがないですが、とにかく開設当初とは変化が認められるということですね。コース改修があったか、測量しなおしたのか、そこらへんもわかりません。横浜競馬場の場合、日本競馬会になる前は公式記録(ブック)は英語なので、尺貫法の表記がヤードポンド法からの換算値なのか、実測値なのかも私にはよくわかりません。--柒月例祭会話2021年7月21日 (水) 20:29 (UTC)[返信]
    • (さらに追記)『日本競馬史3巻』は(927でなく)「972間」です。『日本の競馬』も「972」(1764mという記述もある)。『五十年史』「輪乗馬場其外絵図」は927。どちらかが誤植でしょうね。1間を何mとするかによりますが、1間=1.81mとすると、972間=1759.32mです。927間=1677.87m。明らかに972のほうが「1764m」に近いですね。--柒月例祭会話2021年7月21日 (水) 20:45 (UTC)[返信]
  • スタンドについては、当初の一等観覧席があり、明治4年にはその塗り替え費など1000ドルを明治政府が下賜している。それが明治6年に「祝融」で焼失し、その再建が問題になる。財源的な意味で(これも財政難に絡んでいる)。で、天幕を張って、門番をおいて一等観覧席の代用にするとかしないとか。明治22年に再建できたのは、パリミチュエル馬券を採用したことで財政にゆとりができたから。そこらへんのストーリーが書けていないと思います。
  • 「全盛期」節は、年代や趣旨、一般論と横浜競馬場固有の話が入り乱れていて、よくわからないと思います。話が明治から昭和に飛んで、また明治に戻ったりしています。大雑把にいうと、古典黎明期(江戸時代から明治初期)、困難期(明治6,7年あたりからの財政やばい期)、明治20年代からの回復期(パリミチュエル馬券導入)、明治30年代の繁栄期(豪サラ導入、馬種改良)、そして「全盛期」=日清日露戦争以後(国策競馬期:明治37-40)、絶望期(明治41馬券禁止)、その後の補助金時代。。。何をもって「全盛」とするのかはよくわかりません(観客動員とか、売上とかね)が。なんというか、「経営状況(バランスシート)」の話と、「レースの変化」と、「馬種の変化」と、「施設の整備」と、「外交の場としての役割」の話とを、もう少し切り分けて整理したほうがいいと思います。明治大帝は13回か14回、横浜競馬場に行幸しています(資料により異同がある)。明治32年の行幸が最後で、これは不平等条約改正が成ったからです。「外交の場」としての役割はここで終了になりますが、本文では「競馬はその存在価値を失い、一時は存続すら危ぶまれる事態にまで陥った」(これが横浜競馬の話なのか、一般論なのか不明瞭)とあるのですが、『小史』ではむしろこの明治32年からを「繁栄」の時期と位置づけています(豪サラ&馬券黙許)(M39の「黙許」は池上競馬場に対するもので、ヨコハマはそれ以前から黙許)。だからこそ馬場内の土地を買収してゴルフ場にしてるわけで。
  • 競馬オタクとしては、レース名や走った馬の固有名もたくさん書きたいところですが、どうでしょうね。収拾がつかなくなるかも。開催は半世紀の歴史があるので、いつの時期のレースを「主なレース」みたいにするかは考えどころだけど、初期は「カップ競走」「プレート競走」「パース競走」が主流で「ステークス競走」が少なめ(のちに禁止)なのは注目(要するに賞金の出どころが違う)。現代のJRAみたいに「胴元」が存在していたわけではない(世界的にみればJRA方式がどマイナー)ので、
  • いろいろ書きましたが、これは『五十年史』にあたったからこういう細かい話がどっさり出てくるわけなんですけども、そこらへんで簡単に入手できる本ではないです。査読してくれと名指しされましたのでしたのですが・・・そんな稀覯本持ち出されてゴチャゴチャ言われても対応できないと不満に思われるような気がしています。そこまで詳細に書かなくてもいい、という考えもあると思いますし、現状は「馬事文化財団」をベースに一般の人にもわかりやすくコンパクトにまとまっているという点ではよいとも思います。--柒月例祭会話2021年7月21日 (水) 19:42 (UTC)[返信]
ありがとうございます。当方の持ち得ている出典資料は主に馬事文化財団ですが、他に『「日本型収益事業」の形成過程 : 日本競馬事業史を通じて(萩野寛雄、2004年)第四章 本邦における近代競馬の受容』(市販本ではありませんが、ネット検索すればPDFで閲覧可能です)もベースにして書いています。学者の研究論文なので柒月例祭さんの資料ほど詳細ではありませんが、居留民がレクリエーションの手段として日常的に乗馬や競馬をしていたこと、対して日本人が考えていた「競馬」の目的がまとめられています。そちらをもう少し膨らませれば、もう少し書き足せるとは思っています。「全盛期」についてはもう少し読み込んでから手を加えたいと思っていますので、少し時間をください。--2400:4053:86C1:E300:8C43:6E22:EB70:B076 2021年7月21日 (水) 23:38 (UTC)[返信]
【検証】 ──参考文献などと照合しつつ正確性を評価。
査読できるほど詳しくはない浅学の身ではありますが、少しだけ気になった点があるのでお伺いさせていただきます。
気になった点は、「1周1764m」というコースの全長のところです。横浜競馬場も度々改修されてきたと思うのですが、この1764mという数字は開設当時からのものなのか、それとも以後の改修でこの数字になったのかがわかりません。
自分でも少し加勢させていただこうと資料を探していましたが、その資料の中のひとつの『根岸の森の物語』(馬の博物館 編、1995年)p.94-95 によれば、昭和12年(1937年)時点で「本馬場 延長 1,632m、幅員 15mないし26m50」であったことが記されています。改修して全長が短くなるというのも不可解なので、おそらく例の数字は昭和12年以降のものかと思われますが、自分ではこれ以上は調べられませんでした。
また、現在の版ではコースの概要が「草創期」の節に含まれているところですが、歴史的遺構とはいえ競馬場の記事でありますし、他の競馬場記事と同様に「コース概要」節を設けてそちらに移してはいかがでしょうか。--(あ)会話2021年6月14日 (月) 19:11 (UTC)[返信]
出典にも使っていますが、近代競馬発祥の地 横浜・根岸を訪ねて(日経電子版)によれば、1周距離は972間(1764m)、幅員は13間(28.8m)とされています。また、萩野寛雄氏の出典では第四章に根岸競馬場の記述がありますが、「1周1マイル、コースに芝をひき詰めた」とあります。江戸時代はメートル法ではなかったため「間」という単位を使っているので、当初からの距離とは思いますが、私の方ではこんな感じです。--2400:4053:86C1:E300:A8B8:1911:C3F7:F12C 2021年6月14日 (月) 21:41 (UTC)[返信]
「コース概要」の節を設けて、コースや周回に関する内容を移設しました。--2400:4053:86C1:E300:A81F:160D:681D:E4F9 2021年6月15日 (火) 11:51 (UTC)[返信]
昭和18年の横浜競馬開催が東京競馬場(春季)・中山競馬場(秋季)で開催されたことの出典として資料を付記しました。田内昻作氏(日本馬事協会の「馬事協会便り(2009年3月、第2号。p14) (PDF) 」で馬の切手収集家と紹介されています)の個人サイトですので、出典に使用するのはいささか眉唾ではありますが…。ご検証をお願いします。--2400:4053:86C1:E300:1169:25D6:554F:2561 2021年6月16日 (水) 07:50 (UTC)[返信]
『日本近代競馬総合年表』(中央競馬振興会 編、2018年)のp.122によれば「海軍から譲渡要請があり春季は東京で、秋季は中山競馬場で開催した」とありますので、代替開催があった件は間違いないと思います。--(あ)会話2021年6月16日 (水) 17:30 (UTC)[返信]
ありがとうございます。総合年表も出典に追加しました。コース概要も整備をすすめ、画像一覧からコース図を移設し、形態についての説明を加えました。--2400:4053:86C1:E300:1169:25D6:554F:2561 2021年6月16日 (水) 22:06 (UTC)[返信]
【書評】 ──専門外の方による評価および助言。
【感想】 ──専門外の方による感想。
【その他】 ──表記・文体など
内容についてではありませんが、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#推薦の要件にあるように、IPユーザーにはWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考への推薦資格がありません。まずはアカウントを取得してください。--Falcated会話2021年6月20日 (日) 04:29 (UTC)[返信]
いまのところアカウント取得は考えておりませんが、必要になりましたら検討いたします。ご助言ありがとうございます。--2400:4053:86C1:E300:F017:BE2D:5E5B:2FC9 2021年6月20日 (日) 04:59 (UTC)[返信]
利用者‐会話:㭍月例祭#査読依頼を行っていますので、ご意見などお寄せくださいにて、利用者:㭍月例祭会話 / 投稿記録さんが感想を述べられました。リンクをしておきます。--2400:4053:86C1:E300:8C43:6E22:EB70:B076 2021年7月21日 (水) 09:50 (UTC)[返信]