Wikipedia:秀逸な一覧の選考/関ヶ原の戦いの戦後処理 20090322

関ヶ原の戦いの戦後処理[編集]

賛成/条件付賛成/保留/反対 1/0/2/0 この項目の選考期間は、2009年6月22日 (月) 22:54 (UTC)(2009年6月23日 (火) 7:54 (JST))までです。日付の間違いを修正--ポコポコ 2009年6月21日 (日) 10:03 (UTC)再修正--ポコポコ 2009年6月21日 (日) 10:18 (UTC) [返信]

(ノート) 《推薦理由》関ヶ原の戦いの戦後処理についてまとめた記事ですが各大名の処遇がどのようなものであったかがとてもわかりやすく、「秀逸な一覧の目安」を満たしているように思いますので推薦します。 2009年3月22日 (日) 22:54 (UTC)[返信]

  1. 大名の名がことごとくボールドで強調になっているあたりなど、スタイルとして疑問を感じます。
  2. 「合戦後の動向」の精度がまちまちです。年月日まで明記されているものから動向のみのものまで混在していますが、これは資料の制約によるものなのでしょうか。そうだとしても、その部分を他の資料で補う努力はなされているのでしょうか。
  3. 西軍の大名の表について。「刑死・自刃・戦死」および「流罪・追放・蟄居」の節がそうですが、「合戦後の動向」の項目の記述方式に工夫の余地があると感じました。多くが「xx(年月日・場所等)、自刃」といった方式で書かれていますが、この項目で情報として重要なのは、「自刃」のように動向(whatまたはhow)であって、いつ(when)やどこ(where)ではないはずです。その意味で、「自刃(xx)」のような方式にすべきであり、情報(の重要度・優先順位)の整理が足りないように思います。
  4. 表以外に、それぞれの動向ごとの傾向や戦後に及ぼした影響の記述があるのはよいのですが、出典が明記されていません。
  5. 参考文献の全てが新人物往来社のものになっていますが、通俗歴史読み物を主とする出版社という印象が否めません。挙げられている文献の信頼性についてどれほど検討されているのか、代替となる文献は他にないのか……等、単に出典があるだけでなくその質について検討されているのか、という点が気になります。そうした考慮無しに挙げられているのだとすると、戦国時代関連の記事全般に見られる質の低さに連なる記事と見え、秀逸と評価することに賛成できません。
「一覧」であるという観点からすると、精度や整理の不足(指摘2・3)は特に問題となると思われます。他の点も一覧で有る無しに関わらず、Wikipedia記事であるという観点から必要と考えます。ご検討ください。--ikedat76 2009年5月23日 (土) 19:58 (UTC)[返信]
  • (保留)とりあえず、ざっと感想を述べさせていただきます。
  1. Ikedat76さんのご指摘とも重なると思うのですが、大名の石高データの年代、出典ははっきりさせたほうがいいのではないでしょうか。例えば山内一豊は土佐222000石となっていますが、山内一豊の記事では、移封当時の石高は9万石余りとされています。(もっとも私も、この記述の正誤は検証していませんが)
  2. 次に、この一覧に載せる人物の選考規準がよく分かりません。正直に申し上げて、雑多に過ぎるのではないかという感想を持ちました。特に、加増したにも関わらず所領が1万石に満たなかった人物や、著名性が低いと思われる陪臣(中村元勝や安井秀勝など)を載せる必要があるのでしょうか。
  3. 上とも関連しますが、徳川親藩、譜代については東軍のなかでも別項目を作ったほうがいいのでは、という感想も持っています。なぜなら、豊臣政権下では彼らは陪臣であり、関が原直後も、名目的には豊臣秀頼が武家の棟梁であるため、江戸幕府開府までは彼らは名目的には陪臣です。彼ら親藩、譜代を軽視するものではありませんが、彼らを他の(徳川からみた)外様大名と同列に扱うと、今度は敗者である西軍側の陪臣(直江兼続島清興など)との兼ね合いが問題になってきます。徳川親藩、譜代はいわば特例として扱わないと、なぜ著名な西軍側の陪臣を載せないのだという疑問が生じるのではないでしょうか。
以上、wikipedia記事にとってはやや過大な要求になってしまうかもしれませんが、今後この記事を充実させる際に、少しでも参考となれば幸いです。--ポコポコ 2009年6月21日 (日) 10:03 (UTC)[返信]