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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/唐物抜荷事件 20200511

唐物抜荷事件 - ノート[編集]

選考終了日時:2020年5月24日 (日) 16:32 (UTC)

  • (自動推薦)2020年4月度の月間新記事賞受賞記事。--totti会話2020年5月10日 (日) 16:32 (UTC)[返信]
  • 賛成 本文の記述に引用元のページ数まで書かれた適切な出典が付けられており、文句なしに良質な記事だと思います。--285Sunlize会話2020年5月11日 (月) 12:10 (UTC)[返信]
  • コメント 新潟が幕領となるきっかけの一大事件であり、興味深い記事ですね。以下、細かい点ばかりですが、気になる点についてコメントです。
1. 薩摩藩の抜荷では、運び屋として富山の薬売りが関与していたと言われてますが、その言及がない点が物足りなく感じます。抜荷の拠点が富山に移った話と関係あるかもしれません。(近世日本海海運史の研究 北前船と抜荷 - 深井甚三/著が参考になるか)
2. 川村の新潟密偵時の仕事ですが、シリーズ藩物語長岡藩では寺子屋の先生と書かれてました。この話は諸説あるのかもしれません。
3. 「それぞれ入牢者、手鎖の上で宿預、宿預とされた上で取り調べを受けることになった。」→容疑者が入牢、手鎖+宿預、宿預のみの3種類に分かれたということでしょうか?ちょっと分かりにくいです。
4. 2回目の江戸での取調、判決も評定所でしょうか?記載したほうが良いと思います。
5. 「また捜査の過程で前回追放刑に処された3名が、禁を破って新潟町の実母に会いに行ったことが判明し、前回より一段重い追放刑が改めて言い渡され、」→前回の追放刑、一段重い追放刑とは何でしょうか?1回目の判決では江戸に関する追放刑しか書かれておらず、話が繋がりません。もっと具体的に書いた方が良いかと。
6. 1843年の蝦夷地上知の提言ですが、東蝦夷地(北海道太平洋側)だけでは?
7. 蝦夷地上知や松前藩への影響ですが、正直抜荷の問題は松前藩にとって重大な話ではないと思います。幕府が最も懸念していたのは北方警備で実際、本事件から約10年の間に、松前藩の城持大名への昇格、ペリー来航直後の蝦夷地上知となりますし。
8. あと、記事と直接関係ないですが、川村の銅像写真について。平成5年に建てられたものらしく、著作権が存続している可能性が大で、現在の解像度では使用できないのでは?

--Iso10970会話2020年5月12日 (火) 00:53 (UTC)[返信]

  • Iso10970様、主執筆者ののりまきです。丁寧にお読みいただきどうもありがとうございます。ご指摘について私なりにお答えしようと思います。
1の件ですが、これは書こうかどうか一番悩んだ部分のひとつです。確かに漢方薬種がメインの取扱商品である唐物抜荷と富山の薬売りとは関係が深く、薩摩藩がらみの抜荷ではかなり深い繋がりがあります。ただこのあたりを書き出すと結構奥が深く主題がぼやけてしまいがちになりそうで、まずは当記事も次に作成した薩摩藩の長崎商法でも触れない形で作ってみました。個人的には琉球貿易の本格的加筆か、薩摩藩がらみの新記事あたりで触れていくのはどうかなと考えていました。ただ、確かに主題に密接に絡む事項ですし、手もとに参考文献(『富山大学教育学部紀要』53、「近世後期、加越能の抜荷取引地の廻船問屋展開と富山売薬商の抜け荷販売」深井甚三著、1999)もありますので、重くならない程度に触れていきたいと思います。
2は新潟県史(1934)にある記述で、飴屋に扮して隠密行動を行ったとの話があると書いてみましたが、シリーズ藩物語長岡藩の寺子屋説は知りませんでした。昨今の情勢ではすぐに確認しての加筆は難しいので、よろしければIso10970さんが加筆していただいても良いと思います。
3は、Iso10970さんのご指摘通りの内容です。もっとわかりやすい表現方法に改めます。
4は、第二回は評定所ではなく勘定奉行所の管轄で裁判が行われています。確かに記述が必要な部分かと思いますので、加筆いたします。
5については、例えば一回目で江戸払いの判決を受けた若狭屋市兵衛、北国屋敬次郎が、禁を破って実母に会いに行ったために、第二回では一段重い追放刑に当たる江戸十里四方追放になった等の判決変更ですので、そのように文章を変更いたします。
6ですが、参考文献である浅倉(1999)での記述は「(川村)修就らは、異国境の取締りのためには、寛政年間のように三湊、東西蝦夷地全てを上知するのが最上であると考えていた。しかし現実にこれが無理なら、箱館から東蝦夷地、クナシリ、エトロフを上知して、松前家には奥州に代地を与えることを次善の手段として提言している」。とあります。その上で具体的な東蝦夷地上知プランを提唱しているとの説明が続いています。つまり具体的なプランニングは東蝦夷地上知なのですが、これは次善の策であり、最善は蝦夷地全体の上知という提言になるのかと思います。ここの部分はもう少し詳しく、少なくとも具体的な上知プランは東蝦夷地の上知案であったことを明記したいと思います。
7が一番の難題ですね……参考文献を読む限り、幕府としてははどうも抜荷と異国警備の問題はリンクして考えていたようです。参考文献の浅倉(1999)の記述でも抜荷問題の発生が幕府内の上知論の浮上のきっかけとなったと明記していますし、川村らはアヘン戦争を引きながら、抜荷の横行や密貿易を取り締まれないことは、「国体」にも関わる重要事であるとの論理展開をしています。またこれも記事内でどこまで触れようか迷い、結局脚注に引いた竹島事件に関わるもの以外は記述しませんでしたが、そもそも幕府は薩摩藩が清や朝鮮と直接抜荷を行っていると強く疑っていました(この点は現状の研究では否定されています)。つまり幕府は長崎、対馬、琉球、蝦夷地四つの口全てで外国との抜荷が行われているのではないかと、疑心暗鬼になっていた様子が伺えます。今回の記事執筆で用いた参考文献は基本的に全て地域史の視点で書かれており、幕府から見た抜荷、異国警備の問題という視点はあまり強くないので、このあたりはぜひ気長に文献を探してより良い記述を考えていければと思っています。
8の点については気がつきませんでしたが、確かに解像度を基準内に落とすべきですね。正直私はそのような作業は苦手なので、ウィキペディアン仲間に頼みたいと思っています。
私としてはこのように考えております。書き換え部分がそれなりに多いので、今度の週末くらいまでに対応したいと思います。いかがでしょうか?--のりまき会話2020年5月12日 (火) 11:03 (UTC)[返信]
  • Iso10970様から指摘があった1から5については、私なりに対応してみました。6、7については、川村修就らの意見書では異国境の取締のためには蝦夷地全土の上知が望ましいとしながらも、東蝦夷地などの上知が次善の策であるとして、具体的な東蝦夷地上知プランを提唱した旨の加筆を行ってみました。そして8についてはコモンズに上げられている画像であるため、解像度を基準内に落とす作業が簡単には進みません。そこでとりあえず当記事と川村修就内で用いられている画像を外しました。基準内の画像がアップロードし直された時点で復帰させたいと思っております。いかがでしょうか?--のりまき会話2020年5月14日 (木) 10:20 (UTC)[返信]

賛成票のみ3票の状態が48時間以上経過したため、早期終了・通過となります。--Loasa会話2020年5月17日 (日) 13:49 (UTC)[返信]