孫慶

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孫 慶(そん けい、生没年不詳)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。字は伯善。済南府の出身。父は孫栄。

元史』には立伝されていないが『遺山先生文集』巻30宣武将軍孫君墓碑にその事蹟が記され、『新元史』には宣武将軍孫君墓碑を元にした列伝が記されている。

概要[編集]

孫慶は代々済南に住まう一族の出であったが、曾祖父・祖父ともに官には仕えていなかった。幼い頃から器量を見込まれていた孫慶は長じて東平を拠点とする軍閥の厳実に仕え、その帳下に加わった。厳実が50余りの城を降すのに従い功績を挙げたという[1][2]

この頃、大名に拠る彭義斌南宋を主君として勢力を拡大しており、一時は厳実もこれに降ったが、密かにモンゴルに救援を要請していた。厳実からの報告を聞いたモンゴル軍は数千の騎兵を率いて賛皇の西で彭義斌を捕捉したが、両軍の兵力は拮抗していた。そこで孫慶は厳実にすぐに北軍(モンゴル軍)に加わって一挙に彭義斌を打倒すべしと献策し、これに従った厳実は彭義斌を破り捕虜にすることができた。この功績により、孫慶は忠武校尉・済南府軍資庫使とされ、更に行尚書省応辦使に改められている[3]

1232年(壬辰)には武略将軍・威捷軍都指揮使・兼巡捕事の地位に移り、更に宣武将軍に昇格となった[4]1239年(己亥)には本路鎮撫軍民副弾圧・兼行東平府録事とされたが、ある時孫慶は突如として官を辞めた。しかし、孫慶の功績を評価する厳実は再び孫慶を官職に復帰させ、都指揮使の地位を授けた。それから間もなく孫慶は病となり、年月日は不明であるが57歳にして自宅で亡くなった[5]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『新元史』巻137列伝34孫慶伝,「孫慶、済南人。厳実壁青崖崮、慶往従之。実与彭義斌連和、密告難於国王孛魯。大軍来援、与義斌返於賛皇西山。時実率所部従義斌、慶献計、援兵至、我宜入北軍以張其勢、成敗在此一挙、幾不可失。実即馳赴之。義斌大効、尋被獲。授慶済南府軍資庫使、改行尚書省応辦使。累行本路鎮撫軍民副弾圧、兼行府録事。後罷職。復起為都指揮使。卒」
  2. ^ 『遺山先生文集』巻30宣武将軍孫君墓碑,「君諱慶、字伯善、姓孫氏、世為済南人。曾大父某・大父某・考栄、皆隠徳不仕。君資稟信厚、蚤有成人之量、郷父兄以起宗期之。貞祐之乱、先相光禄公壁青崖崮、君挈家往依焉。以対問当公意、得隷帳下。公所戦攻、降下餘五十城、君皆従焉。指使既久、為所倚信、部曲諸人少与為比」
  3. ^ 『遺山先生文集』巻30宣武将軍孫君墓碑,「大名彭義斌乗済・鄆、耕稼廃、倉無見糧、悉衆守之。公審度事勢、与之連和。義斌拝公為長、強之而西、公密遣騎卒、告難于国兵大帥。大帥聞報、率数千騎来援、与義斌遇於賛皇之西山。兵刃甫接、君献計於公曰『援兵既至、我当入北軍以張其勢、成敗在此挙、幾不可失也』。公即馳赴之、将士気倍、皆殊死闘、大名軍遂潰、義斌投死無所、尋即授首。不数日、故地尽復。公時承制封拝、乃授君忠武校尉・済南府軍資庫使、改行尚書省応辦使」
  4. ^ 『遺山先生文集』巻30宣武将軍孫君墓碑,「壬辰、遷武略将軍・威捷軍都指揮使・兼巡捕事。公猶以賛皇之功為未報也。再加宣武将軍」
  5. ^ 『遺山先生文集』巻30宣武将軍孫君墓碑,「己亥、遷本路鎮撫軍民副弾圧、兼行東平府録事。君蒞事厳明、有能吏称、然性剛直、与時多忤、卒見罷去。今行台公念君先相旧人、不宜久在退閑、復都指揮使及巡捕事。未幾以疾告。公又惻然憫之、且謂君長子天益、嚮学知義理、気節不凡、命代父仕。而君之疾竟不治、以某年月日、春秋五十有七、終於私第之正寝」