Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源/過去ログ6

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WP:SELFSOURCEの一部対訳に対する改善提案[編集]

WP:SELFSOURCE「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」の項目において、

  • 誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。

という項目があるのですが、英語版Wikipediaを参照にすると

  • There is no reasonable doubt as to its authenticity.

となっており、「誰が書いたのか」ではなく「その書かれた物事について」の方が対訳として正しく、意味合いがかなり変わってくるものではないかと思いました。 遵って、当該項目を

に改訳する事を提案いたします。--禮旺会話2017年8月20日 (日) 09:26 (UTC)

(ご意見を受け訳案訂正--禮旺会話2017年8月27日 (日) 06:32 (UTC)
  • 反対 「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。ウィキペディアンが、「書かれた物事について」正しいか正しくないかを判断するのは不可能です。英語版Wikipediaの文言を直訳すると、「その真正性(authenticity)に疑いはないこと」となると思います。「真正性」とは、正当な権限において作成された記録に対し、虚偽入力、書き換え、消去及び混同が防止されており、かつ、第三者から見て作成の責任の所在が明確であることである。なお、混同とは、患者を取り違えた記録がなされたり、記録された情報間での関連性を誤ったりすることをいう。ということです。この場合は、「公表者自身が書いたものという責任の所在が明確であること」を意味していると思いますので、「誰が書いたのか」のままでも大きな問題はありませんが、「その書かれた物事について」にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する方針をつくってしまうことになります。--はるみエリー会話2017年8月20日 (日) 12:04 (UTC)
  • 反対 内容ではなく「真正性」のほうに力点を置くべきでしょうね。いくら内容が充実していて合理的に疑いのない記述のあるサイトであっても、ファンサイトより公式サイトのほうがwikipediaが参照すべきサイトとしてとうぜん選択されるべきでしょう。--大和屋敷会話2017年8月20日 (日) 18:35 (UTC)
  • コメント 方針の変更提案にあたり、英語版Wikipediaをと揃えるといった議論の他に、1. 現行の文言が成立した経緯、2. 変更の影響内容(2017年8月21日 (月) 12:26 (UTC)修正)について検討する必要があるかと考えます。
    1. 履歴を確認すると、該当箇所は、この提案の結果、2010年8月16日 (月) 04:19‎版で登場しています。その前の版では旧英語版の "there is no reasonable doubt about who wrote it"の翻訳に由来する「誰が書いたのかについて合理的な疑いがなく」という文言があったので、この文言が再利用されたのだと推測されます。こうした経緯を考慮すると、翻訳の修正は検討した方がよさそうです。
    2. authenticityは、「信ぴょう性、信頼性、真偽、内容の真正、確実、自然度」といった意味であり[1]、ご提案の「その書かれた物事について」は正確な訳ではないように思います。そこで、「信憑性について合理的な疑いがないこと。」くらいの修正でいかがでしょうか。なお、上ではるみエリーさんが提示している真正性の用語解説は、文書情報管理という特定分野に関するものであり、Wikipediaには必ずしもあてはまるものではないと考えます。--j8takagi会話2017年8月21日 (月) 03:30 (UTC)、2017年8月21日 (月) 12:26 (UTC)一部修正
  • コメント 文言を修正することには賛成。authenticityを正しく評価するには、「誰が」「どんなことを」言っているのか、その両面を評価する必要があります。「誰が」の部分は、そもそもSELFSOURCEを適用できるのかどうかの大前提になりますから、ほとんど議論の余地はなさそうですが、それでもたとえば「ある宗教団体の元信者による団体についての出版物」なんかは、その元信者なのかどうかみたいなところから一定程度のauthenticityを確保しないといけないでしょうし、その中身があまりに荒唐無稽であるとか、全く具体性をもたないものであったりした場合には、authenticityに合理的な疑いがあるというふうになるでしょう。そういうわけで、文言を修正すること自体には賛成です。J8takagiさんが提案されている「信憑性について合理的な疑いがないこと。」に一票。--Caserio会話2017年8月22日 (火) 07:03 (UTC)
    • さて、ご意見が複数出ておりますが、仰る通り役に対しては信憑性について~の方が原文に忠実であるでしょう。つきましては、この訳を以て変更に合意決裂が無いかどうかを確認したいと思います。週間反対意見が出ないようであれば改訳を行わせていただきたく存じます。--以上の署名のないコメントは、禮旺会話投稿記録)さんが 2017年8月27日 (日) 06:32 (UTC) に投稿したものです(JapaneseA会話)による付記)。
賛成 「信憑性について合理的な疑いがないこと。」という訳への変更に賛成します。合意確認の文言が「変更に合意が無いかどうか」という、誤植かな?とは思われるものの不安のあるものだったので明示しておきます。--Caserio会話2017年8月28日 (月) 08:18 (UTC)
(あとさらに、無責任なことを言うようで大変心苦しいのですが)待ちの期間を10日から2週間くらいに延ばす、またはどこでもいいから(コメント依頼かな?)に告知とかしていただけたらなーと思います。その間に虫が沸くかもしれない危険はあるけど、ガイドラインだし、より無難な安全率をとっておいてほしいなと思いました。--Caserio会話) 2017年8月28日 (月) 08:18 (UTC)一部訂正--Caserio会話2017年8月30日 (水) 08:09 (UTC)
報告ンアー!すみません、誤字の訂正及び機関の変更を行わせていただきました。機関については当初の記入日8/27から2週間とさせていただきたいと思います。また、御訓誡よりコメント依頼にて議題の賛否を募らせていただきたいと思います(このあたり全く未経験な部分で不手際が多く…申し訳ないです)。--禮旺会話2017年8月29日 (火) 04:36 (UTC)
  • 反対 "authenticity"は「painting's authenticity 絵画の真贋」みたいな感じで「誰が書いたのか」についての"信憑性"を意味する言葉ではないでしょうか。WP:SELFSOURCEでの authenticity は「そのブログなどが公表者本人のもので間違いないこと」と解釈されるべきと考えますので、文言を変更しなくてもよいと思います。--ぽん吉会話2017年8月29日 (火) 07:06 (UTC)
〈"authenticity"は「painting's authenticity 絵画の真贋」みたいな感じで「誰が書いたのか」についての"信憑性"を意味する言葉ではないでしょうか。〉について、ぽん吉さんの思い込みではないことを示す情報源を示してください。たとえば、authenticityには「誰が」というニュアンスがあるのでしょうか?私は、authenticityは「(絵画の)真贋」の意味にも「信憑性」の意味にも使われる一般的な語であると考えていますし、[2]などの複数の辞書にそのように記載してあるのを確認しています。--j8takagi会話2017年8月29日 (火) 08:23 (UTC)
こんにちは。例えばオンライン英英辞書のauthenticityによれば "The quality or condition of being authentic, trustworthy, or genuine."です。で同じ辞書で例えばauthentic documentとか調べると"A document bearing a signature or seal attesting that it is genuine and official."(署名や封印などにより本物または公式のものであると証明されている書類)とあります。あと研究社リーダーズ英和辞典には(=genuine)とありました。お示しいただいた英辞郎の例文でも authenticity は「本物であること」という意味で多数例文があると思います。
今回は「自己公表された情報源」なので主にブログやツィッターなどが対象かと思いますが、それらが「本物であること」とはすなわち「本人が書いた(あるいは本人が公式なものと認めた)」の意味ではないかと理解しておりますが、如何でしょうか。--ぽん吉会話2017年8月29日 (火) 09:42 (UTC)
返信 たしかに"authenticity"は、「本人かどうか」というニュアンスが強いようですね。また、「信憑性」より「誰が書いたのか」の方が文章が明解だと思います。とはいえ、ブログやツィッターなどでも、「本物であること」と「本人が書いた」「公式」が完全に一致するのかという部分で疑問があります。「本人が書いた」「公式」という点には疑いの余地はないけど、他の点からは疑いの余地があるといった場合は問題になりそうです。たとえば、「公式」のブログなどだったら秘書やスタッフが代筆した場合とか、本人のツイッターなどでも酔ったり頭に血が上ったりした状態で書いていた場合などは、「誰が書いたのか」には問題ないけど「信憑性」には問題があるといえると思います。--j8takagi会話2017年8月29日 (火) 10:29 (UTC)
さて、もともとこの改訳を思い立ったのは、とある方との議論においての内容でした。というのも、「日本科学者会議は日本共産党の関連・友好団体だ」という意見の出典が「日本共産党の機関紙(赤旗)」という所から来ており、セルフソースの出典を頂いたので「それはおかしい、それならなんでもありになってしまう」という所から英語版を参照した、という偶然の流れでありました。さて、本題ですが…"authenticity"は「authentic」+接尾辞「-ity」という単語です。「authentic」はこちらを参照。元々権威、という単語からこのauthenticは発生しており、その上での「本物の、真正な」「正確な、信頼できる」という意味になっています。もし仮に「本物であること」という事だけで充分であるのならば「True」でも構わないはずですが、そうではないという事はこの「Authenticity」でなければいけないという裏付けにもなります。また、単語の利用頻度としては英語圏では「genuine」とは実は微妙に区別化されているようです。というのも、「genuine」が使われるのは「ローカル的に本物であること」、例えば「このブランド品は本物だ」や、「教科書は信頼できるか」などに関しては「Genuine」が使われますが、「絵画の信憑性」や「信頼のおける学術論文」等であれば「Authenticity」が用いられます。則ち、Authenticity自体がある程度「権威があるものに関しての」というニュアンスである事も考えられます。例に挙げて頂いた「painting's authenticity」は、例えば英辞郎では「establish a painting's authenticity = 絵画が本物であることを立証する」と紹介されています。これは則ち研究・推測・調査の上で本物であることを立証するという事になりますから、それなりの権威を持った信頼性であると言えるでしょう。例となる文面をいくつか見るとわかる通り、古物や情報といったたぐいのものは「Authenticity」(言わば世界的に認知された信頼性、等)、「genuine」はより一般的な、例えば人種だとか血統だとか、静的な物ではなく動的な物に用いられる傾向が強いです(アメリカでは、日本ではといった局所的な信頼性等)。ちょっとうまく言えませんが、ここは感性に近い部分になってしまうかと思うので…(英語もそこまでできるわけじゃないので)ご容赦を。 尚、英語版Wikipediaの当該ページにて質問を投げてきました。
 *Self-published and questionable sources as sources on themselves

Although this sentence "there is no reasonable doubt about as to its authenticity", Is this interpretation meaning that "Where the responsibility is clearly stated to be the author itself" ? or, "There is no reasonable doubt about the contents described" ? or both? The difference in interpretation is manifested in the word "authenticity", Opinions are divided on whether this word points to the source or whether it points to the truth of the article.
これに対し返答は下記となっております。
       So the quote, giving the context of what "its" refers to:

[...] so long as:

the material is (...);
it (i.e. the material) does [...];
it (i.e. the material) does [...];
there is no reasonable doubt as to its (i.e. the material's) authenticity;

Material is deemed authentic when it is no spoof, forgery, misinterpretation, faulty translation, or whatever else that may indicate that the material is not what it pretends to be.
「虚偽(というか騙すような内容、または詐称)、偽造、誤訳、またはその資料が偽って主張されている事がわかるものが含まれていない場合は、それは真正であるといえるだろう」との事です。ご参考までに。--禮旺会話2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC)
コメント 例示の日本共産党の件については、そもそも「第三者に関する主張を含んでいないこと」というルールから逸脱するので、改正の理由としては不適当に思います。--Kanohara会話2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)
反対 ウィキペディアにおける信憑性とは、信頼できる情報源に書かれていること、すなわち広く信頼されている発行元から出版・公表されているということです。ウィキペディアの編集者個人が情報の信憑性を判断することは独自研究にあたり(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)、やってはいけないことです。……ご提案の一文を加えると、「公式サイトなどを一次情報源として使ってはいけない」という意味のルールになってしまいますし、「聖書にはイエス・キリストは磔にされて死んだ後に蘇ったと書かれているが、合理的に考えて死者が生き返るはずがない。つまりキリスト教自身についての記事内では、キリスト教が自己公表している情報源である聖書を出典にするのは不適当だ」のような超解釈が出てこないとも限りません。もし英語版のauthenticityが「内容の信憑性」という意味だとするないら、英語版のルールはあまり良いルールではないのかも知れません。--Kanohara会話2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)
コメント Kanoharaさんは、2ちゃんねるでさえ出典として利用することを禁止している「リテラ」[3]を『「リテラ」のようなニュースサイトは、小規模と言えど企業によって運営されるサイトであり、企業として採用したプロの記者に、企業の看板を背負って書かせている記事である。』[4]と主張されている人なので、『信頼できる情報源』という前提については、そのことを押さえておく必要があるかと。以上、補記とさせていただきます。--青鬼よし会話2017年9月2日 (土) 14:46 (UTC)
返信 (青鬼よしさん宛)ノート:この世界の片隅に (映画)#ネット右翼が信じる朝鮮進駐軍について」で青鬼よしさんが「リテラは信頼できないニュースサイトで、信頼性は掲示板以下。それをソースにするのは独自研究と同じ」って趣旨の主張をしていたのって、2ちゃんねるがソースだったんですか……。コメント依頼で賛同意見を募ったのに、その点に関しては思うように賛同が集まらなかった私怨を、ここで晴らそうとしないでください。まあ私は別に、読まれて恥じるような発言をした覚えはありませんけれど。--Kanohara会話2017年9月2日 (土) 17:27 (UTC)
返信 リテラやtogeterまとめ[5]信頼できる情報源とされている方が、このような議論に参加をされていたので、懸念として補記をさせていただいました。私怨云々などの議論と関係ない話題を持ち出すいつもの手法につきましては、いつものようにKanoharaさんのノートページに返信しておりますので、そちらに返信をお願いします。--青鬼よし会話2017年9月3日 (日) 00:04 (UTC)
返信 (青鬼よしさん宛) 私はTogetterまとめに関しては「ウィキペディアの出典として不適切な一次資料」と言ったはずです。他人の発言を捏造しないでください。もちろんTwitterの発言は自己公表された二次情報源ですし、Togetterまとめは自己公表された二次情報源です。そのままでは信頼できる情報源にはなりません。ただし「Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源」にありますように、「匿名の個人による報告や信頼性を評価するための公表に至る履歴がない報告は、評判を得たことが明らかになるまではまったく引用に値しません」「評判を得たことが明らかになった場合は、1つのPOVとして記すことができます」。発言がニュースサイトで取り上げられたことは検証可能ですし、「ニュースサイトの記事の信憑性が疑わしい。そのような発言が存在したこと自体がニュースサイトの捏造だったのではないか」というノートの意見に対して、信憑性を裏付ける根拠としては十分だという意味で引き合いに出しました。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 05:28 (UTC)
返信 (ちょっと待った宛) Twitterの発言は(本人が発した場合のみ)自己公表された一次情報源です。あとついでに言うならTogetterまとめは自己公表された二次情報源ではなく、Togetterまとめは第三者による信頼性が一切無い情報源(そもそも自己公表ですらない)です。何を言っているんですか?--禮旺会話2017年9月3日 (日) 05:58 (UTC)
返信 (禮旺さん宛) もちろん「Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」にあるように、「電子匿名掲示板やニュースグループ、ウィキで構築されたサイトへの投稿、あるいはブログ上の記述は、一次資料としても二次資料としても使用されてはなりません」。ただしニュースなどといった信頼できる媒体で「Twitter上のこのような発言が大きな波紋を呼んだ」といった形で取り上げられた場合は、その過程で専門家による精査や、発言を取り上げた専門家の見解を挟むことになるため、自己公表された情報源ではなくなります。そういう話です。
Togetterまとめは、ウィキペディアの定義に従うなら「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものだけれど、学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版されたものではなく、注意深く精査されていないので、信頼できない」二次資料で、いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物ですから、自己公表された情報源でしょう。もちろんこの議題で話し合われている「公表者自身についての」自己公表された情報源という例外には当てはまらないので、ウィキペディアでは情報源として受け入れられませんし、一次資料としても二次資料としても使用されてはなりませんでしょう。ただし例外については自己公表された情報源をご覧くださいとも書かれています。--Kanohara会話) 2017年9月3日 (日) 07:12 (UTC) マークアップ修正--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 07:13 (UTC)
返信 ようやく内容をかみ砕いて理解できたので返答します。その解釈はそもそも「今何に対して議題しているか」についてまったく理解されてないという事でしょう。貴方の例えは「キリスト教」についての記事に対し、出典が「イエス・キリスト」個人に対する事実を書いた場合の話であって、キリスト教に対して「キリスト教が」自己公表した(宗教としての)事実を書いた場合の話ではありません。また、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」という話の次元ではなく、それすら適用できないような内容での「自己公表した情報に対して、本人に関する記事でそれを出典としてもいいか」というレベルの話です。そもそも論点がずれてます。また、英語版のルールが良い物なのではなく、言語的な解釈問題での話であって英語版の記述が劣っているという発想に至るのはそもそも論外でしょう(日本語版の方針が英語版の方針に準拠し、その記述を網羅できていないという事は逆に日本語版の品質が低いとも言えますが…。いえ、これは初版作成者をDisっている訳では無いので)。--禮旺会話2017年9月2日 (土) 19:46 (UTC)
返信 (禮旺さん宛) 議題については理解しているつもりですが、仮に議論が終わって「信憑性について合理的な疑いがない」という文がガイドラインに反映された後、ガイドラインの文面が何を意味しているのか理解していない(あるいは、敢えて曲解する)人が出てくる可能性を懸念している、ということを言いたかったのです。ガイドラインを作った当人は理解していても、ガイドラインを運用するのは当人以外ですから、禮旺さんや私がルールの趣旨を理解しているかどうかと、ルールを読んだ人が趣旨を正しく理解できるかどうかは別問題です。
Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源」は、「このガイドラインは主に個人サイトや、小規模な企業のプレスリリースなどを念頭に置いており、信頼できる大手出版社や新聞社による自己公表はこの例外である」などといった例外規定を設けていません。キリスト教を引き合いに出すのはオーバーだったかも知れませんが、例えば朝日新聞や産経新聞のような報道機関が、ある報道内容の信憑性について疑惑を持たれ、それに対して声明を発表したような際に、偏った思想を持ったウィキペディアの編集者個人が「疑惑の当事者による言い訳であり、信憑性について合理的な疑いがある」と主張して、当事者側の言い分を封殺する大義名分にできてしまうような文面は、中立性の維持という面でも問題がありますし、前文の「自己公表された情報源または疑問のある情報源は、特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できますとも矛盾します。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 08:51 (UTC)

(今さらだけど質問させてください)「誰が書いたのか」っていうところはそもそもSELFSOURCEを適用できるのかどうかの大前提なのではありませんか?そのうえで、書かれてる内容があまりに嘘くさいことだったりしたら、それが公表者自身によって公開されているものだとしてもwikipediaに記載するべきではありませんよねってことだと思っていました。提案されている「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」の項目においての注意書きで、改めてそれが「自身」が公表しているものかどうかをちゃんと確認してねって言わないといけないの?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 01:37 (UTC)

公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」、即ちこの項目は「自己公表」であることが大前提であり、「誰が書いたのか」という点は言及する以前にこの項目を適応する情報源に対しての必要条件であるといえます。ですから、必要条件を再度記述の中で言及するというのはそもそもお門違いと言えるでしょう。というか、「誰が書いたのか」分からないものを「自己公表されたもの」とみなせるか、という話がそもそもおかしいのではないか、というレベルになりますよね。--禮旺会話2017年8月30日 (水) 02:33 (UTC)
コメント 従来の文面の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと」は、「なりすましのアカウントに注意せよ」という意味の注意だと受け取っていました。例えば実在する著名人を名乗るTwitterのアカウントで、本人が言いそうなことがもっともらしく書かれているものの、著名人本人は著書や公式サイトでTwitterのことに触れておらず、著名人のなりすましではない可能性を証明できないような場合などは、「本人が本人だと名乗っていること自体を、公表者自身についての記事内での自己公表された情報によって証明されていると見なして良いかどうか」は迷うところです。もしも「信憑性について合理的な疑いがないこと」という文面を入れるなら、代わりに「なりすましのアカウントではないという合理的な疑いがないこと」というルールが必要になるでしょう。
「書かれてる内容があまりに嘘くさい場合」については「過度に利己的なものではないこと」という文面や、WP:V#OSの「過度に自己を美化するものでなく」という文面で対処できるかと思います。逆に嘘くさい内容でも「本人は自分が○○であると言っているが、評論家の××は△△新聞上で、その点については疑わしいとして批判している」というような文脈では必要になるため、使えないわけではなく取り扱いに注意、といったところであろうと考えます(「Wikipedia:信頼できる情報源#反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト」など)。--Kanohara会話2017年8月30日 (水) 03:19 (UTC)
情報 英語版で質問した際の回答
Material is deemed authentic when it is no spoof, forgery, misinterpretation, faulty translation, or whatever else that may indicate that the material is not what it pretends to be.
こちらを参照してください。「no spoof」という文言がありますので原版の指す「Authentiity」は成りすましではないことをすでに前提としているという事になります。または、「セルフソース」事態「明確に本人が公表した内容であること」が大前提ともいえるでしょう。おそらく、この点については追記を必要とする部分になる可能性も無きにしも非ず、でしょうかね。--禮旺会話2017年8月30日 (水) 04:01 (UTC)
ありがとうございます。「信憑性に合理的な疑いがないこと」という文言は、これまでの「誰が」に限定している文言を、「誰が書いたのか」とか「内容が適切に適切か」とか、そういう全てをひっくるめてのものである、と理解しています。(つまり、変更後の文言が、変更前の文言を含み、より広い範囲に言及しているという理解です。)これであれば、ぽん吉さんがおっしゃるような反対理由は消滅するかなーと思いますが、いかがでしょうか?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 04:34 (UTC)
「全てひっくるめてある」のがまず問題かと思います。つまり「信憑性に合理的な疑いがないこと」の一文を読んで、この「信憑性」が「誰が書いたかの信憑性」か「書いてある内容の信憑性」なのか、このどちらかだけなのか両方なのか、読み手によって解釈が異なるようではガイドラインとして用をなさないのではないでしょうか。
その上で、「誰が書いたか」の信憑性につきまして、Caserioさんにとって簡単に判別がつくものでも他の人にとってはそうではないかもしれません。Twitterの偽アカウントや公式サイトと見間違う出来栄えのファンサイトなどもあるでしょうし、中学生・高校生であればその辺区別がついてない人もいるのでは?「公式かどうかをちゃんと確認してね」って初心者に注意するのがガイドラインの役目だと思いますので現状の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。」の一文は必要と考えます。
追加で例えばなんですけど、ワールドメイト@worldmatemember というtwitterアカウントがありまして「【ワールドメイトあるある】電車では、メルマガか、Wikipediaか、公式ウェブサイトを読んでいる」とwikipediaを公式ウェブサイトと同列の読み物であるかのようにとりあげています。このアカウント、ワールドメイト公式のものでしょうか?私には何とも判断つかないです。
あと「内容について信憑性」につきましては、Kanoharaさんと同じ考えです。書かれている内容に信憑性があるかどうかを各編集者が判断するかのような文言は避けるべきでしょう。
もし、内容の疑わしい自己公表された情報源の扱いについて現状のWikipedia:信頼できる情報源ガイドラインで対応しきれていないような事案が更にあるのであれば、英語authenticity を根拠に文言変更を主張されるよりは、可能な範囲で具体的に問題点をご提示いただくなど別のアプローチをされた方が意見がまとまりやすいかと思います。--ぽん吉会話2017年8月30日 (水) 07:31 (UTC)
「誰が書いたのか」は、このガイドラインの適用を受けるかどうかの時点で既に確定しているものだと考えています。このガイドライン内の「公表者自身についての記事内に自己公表された情報源を用いる際の注意事項」として改めて「誰が書いたのか」が必要なのか?という疑問点についてはどのようにお考えですか?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 08:09 (UTC)
たしかに「自己公表された~」の一言で十分とのお考えも、ごもっともとは思います。私が心配性なだけかもしれませんが、例えば特筆性基準をかろうじてクリアするぐらいのマイナー人物がいて、著書などで確認できないが本人と思われるSNSアカウントがあり、そこの記述をもとに記事加筆した。ところが他編集者から「それ本人で間違いないの?」と問われた。私が「他の情報源と矛盾が無い」等、合理的に考えて本人のもので疑いがない旨説明できれば、100%の証明はできないにしても当該自己公表情報源を出典に使うことも可能になる、そんなようなケースもあるのではないかと考えました。当該文言には、"自己公表"が必ずしも万人に明らかでない場合は合理的に疑いがないかどうかを確認し疑いがなければ出典に使える、と、微妙なケースにおいて判断基準を示す役目もあろうかと思います。大きなデメリットがなければ、このまま残してもよいのではないでしょうか。--ぽん吉会話2017年8月30日 (水) 09:10 (UTC)
なるほど。わたしはその、自己公表であることを直接的に明示できない場合の、他の情報源と矛盾が無い等の説明周辺のことを、「信憑性」と表現しているのだと認識しています。ですので、たぶん私たちはほとんど同じことを言っているんでしょうね。(わたしが雑に「嘘くさい内容」と言ってしまったがためにいくらかの誤解を議論に生じさせてしまって大変申し訳なく思っていますが)他の情報源と矛盾が無いかどうかの検証というのは、だって当然にその中身について検証しているんですものね?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 10:05 (UTC)
そうですね。普通は中身確認していて当然だとは思います。まあ、他のガイドラインも「当然でしょ」というような内容が多々ありますし、ガイドラインとはそもそもそういうものなのかも、ですね。昨今twitter、facebook、instagramなどなど自己公表の手段は多種多様で、中にはヒモ付けが必ずしも明らかではないものもあるでしょうから、それらをwikipediaの出典に持ち込む際に「それ本人のものか、確認してくださいね」と釘刺しておく必要はあると思います。--ぽん吉会話2017年8月31日 (木) 03:00 (UTC)
(インデントがすごいことに…)ええと、それもうすでにタイトルの「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」って書いてありますし、「 自己公表された情報源または疑問のある情報源は、特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できます。」としつこいほどに繰り返されています。その上でまた項目でクギを指すのは、なんというかやりすぎというか…。--禮旺会話2017年8月31日 (木) 03:25 (UTC)
ま、それもそうかもしれませんね。今回の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。」を「信憑性について合理的な疑いがないこと。」に改める旨禮旺さんのご提案につき、他の方の意見ももう少し集まるといいですね。--ぽん吉会話2017年8月31日 (木) 05:32 (UTC)
(インデント戻す)タイトルに既に書いてある、というのなら「第三者に関する主張を含んでいないこと」や「主題と直接関係のない出来事に関する主張を含んでいないこと」といった他の条文も、「公表者自身についての情報源として利用できます」に含まれているような気がしますが……。「それってWP:BEANSではないのか?」という懸念であることは分かりますけれど、「そんなことは言わなくても伝わる」というのは、我々が今までそのルールでやってきたから常識として染みついているのであって、初心者に伝わるかどうかは疑問に感じます。「匿名掲示板に本人だと自称する書き込みがあった。中には「Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」の例外を適用すれば、出典として使えるはずだ」という主張をする人もいるかも知れませんし、似たような例は見たことがあります。また偽公式サイトやなりすましTwitterを作って著名人の名を騙ろうとするような自己顕示欲の強い人は、ウィキペディアにも乗り込んできて、自分がでっち上げた偽情報を「出典」にしてウィキペディアの記事を書き換えようとしたり、「本人(偽)が本人であると名乗っていることは、自己公表された情報源(実は偽)によって明確である。情報源として問題ない」などと言い張ったりするかも知れません。「これくらいは常識として通じるだろう」という性善説は、あまり当てにならないかも知れず、ルールの精神が伝わるような表現を残しておく必要はあると思います。--Kanohara会話2017年9月2日 (土) 18:23 (UTC)
タイトルに既に書いてある、というのなら「第三者に関する主張を含んでいないこと」記述A「主題と直接関係のない出来事に関する主張を含んでいないこと」記述Bといった他の条文も、「公表者自身についての情報源として利用できます」記述Cに含まれているような気がしますが」すみませんがちょっと意味不明です。記述ABの内容が記述Cに含まれている、と仰られているのでしょうか?Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿を自己公表された情報源と判断するのはあまりにも無理があります。そのWikiが本人により作成されたと明確に判断できる材料がそもそも個人ブログやTwitterなどと比較して存在しませんし、そもそも「自己公表された情報源(実は偽)」という前提が成り立つ事がありえないのです(数学で例えれば、公理を真っ向から否定するような所業と言えばわかるでしょう)。--禮旺会話2017年9月2日 (土) 19:56 (UTC)
返信 (禮旺さん宛) 「第三者に関する主張」や「主題と直接関係のない出来事」は「公表者自身について」の情報ではないのだから、明文化しなくても除外されていることは分かるはずです。ですが実のところ(実際に禮旺さんがそうであるように)それでは伝わらない人もいますので、「言わなくても分かるだろう」ということはさほどアテにならないものと考えています。
> 自己公表された情報源と判断するのはあまりにも無理があります。
Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」の末尾には、「例外については自己公表された情報源をご覧ください」とあります。ですので、「掲示板やウィキサイトへの投稿でも、それが自主公表された情報源を利用できる例外に当てはまるのなら、ウィキペディアから参照しても構わない」ということになりましょう。
> 数学で例えれば、公理を真っ向から否定するような所業
ウィキペディアの「自己公表された情報源」の定義には「いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物」という定義しかありません。禮旺さんの言う公理を定義している「誰が書いたのかについて合理的な疑いがない」というガイドラインを除外してしまったらまずいだろう、という話です。そもそも、なりすましに騙され、疑いなく本物だと大真面目に信じている人にとっては、なりすましであっても「著者が直接投稿した公表物」の発言に見えているはずですし、更に言えば、騙されている人と騙されているふりをしている人を見分ける術は、我々にはありません。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 09:46 (UTC)
  • 提案 こんにちは、Moon.riseと申します。「信憑性について合理的な疑いがないこと。」と変更すると、「誰が書いたのか」という部分の意味が見いだせなくなってしまうとは思います。信憑性という表現そのものが、基本的に「○○の信憑性」という表現であるのが望ましく、読み手によって「○○の」という部分の受け取りが異なる可能性が出てくるのは、あまり望ましくないのではないでしょうか。「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと。」という表現を提案してみます。--Moon.rise会話2017年8月31日 (木) 13:59 (UTC)
記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと。でいかがでしょうか。--禮旺会話2017年9月3日 (日) 06:01 (UTC)
  • 反対 英語版からも意味が離れてしまいます。記述の信憑性をウィキペディアンが確かめることなどできず、Wikipedia:検証可能性に抵触しかねません。今のままのほうが良いと思います。--はるみエリー会話2017年9月4日 (月) 10:39 (UTC)
    • なんかもう話にならないですが、その検証可能性を満たさない極特定条件下における出典として利用可能な項目としての一つがセルフソースなのですが…。そもそも、自己公表された情報源自体が検証可能性を満たしていないレベルの情報源なのですから。--禮旺会話2017年9月4日 (月) 11:04 (UTC)
「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。(再掲)--はるみエリー会話2017年9月4日 (月) 11:06 (UTC)
わざわざ(再掲)とかしてくれてるけど、もう誰もそんなこと議論してないからね。あなたが議論についてこれていない、ということは皆様に伝わったとは思うけれど。--Caserio会話2017年9月5日 (火) 00:29 (UTC)
はるみエリーさんが自身が見下している人間の発言は一切取り入れ「られ」ないことはしっかりと理解しました。「検証可能性を満たしていない情報源の特例的案件」であることを再認識ください(再掲)。さらに突っ込んでおくと、セルフソース自体が「誰が書いたのか」を明記している案件なので『誤訳』ではないですが解釈が誤っています。Authenticityを「誰が書いたのか」と訳すとそれは「Authenticity」の意味の一部を切り取った解釈になる、また掲題と重複する為不適切です。(だからこそ最初の改訳提案では書かれた内容の信憑性、という記載だったのですが、提案改訳の方が適切であったたためそちらを支持した次第です。)--禮旺会話2017年9月5日 (火) 00:45 (UTC)
Moon.riseです。禮旺さんご提案の「記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと」および「信憑性について合理的な疑いがないこと」の両方に 反対 とさせていただきます。特に「記述の信憑性について」という表記をするのは、誤った翻訳になるでしょう。
これまでに禮旺さんさんが、2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC)の投稿で英語版からの回答を得てきてくださいました。its authenticity の意味する所は「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」「誤解ではない(no misinterpretation)」「誤訳ではない(no faulty translation)」ということです。私が2017年8月31日 (木) 13:59 (UTC)で提案したように、「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」という程度に内容(信憑性が何を指すのか)が明確である必要があります。
ここでひとつ例文を挙げてみます。「モフモフ氏は、猫は人類の友達だといっている」という文章があれば、「誰が書いたのか」「何を書いたのか」について変更してしまえば、それは「だまし・偽造」などです。「ホゲホゲ氏は…」という変更も、「…犬は人類の友達だといっている」という変更も、「だまし・偽造」などでありWP:SELFSOURCEの条件を満たさないことになります。
私が禮旺さんのご提案に反対する理由は、ここからです。「記述の信憑性について」または「(注釈なく)信憑性について」という文章に改訳してしまうと、誰かが「猫が人類の友達という、そんなことはあり得ない。よって、この文章はWP:SELFSOURCEの条件を満たさない」などと主張し始める可能性があると思われます。これは、英語版にその意図はありません(「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」以下省略)。また、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にも違反します。
この指摘は私、Moon.riseだけの指摘ではありません。

「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。ウィキペディアンが、「書かれた物事について」正しいか正しくないかを判断するのは不可能です。--はるみエリー(会話) 2017年8月20日 (日) 12:04 (UTC)

ウィキペディアにおける信憑性とは、信頼できる情報源に書かれていること、すなわち広く信頼されている発行元から出版・公表されているということです。ウィキペディアの編集者個人が情報の信憑性を判断することは独自研究にあたり(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)、やってはいけないことです。--Kanohara(会話) 2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)

Moon.rise、はるみエリーさん、Kanoharaさんの指摘はおそらく、同じひとつの問題を指摘しています。禮旺さんには、「記述の信憑性について」または「(注釈なく)信憑性について」という翻訳が、英語版の意味(「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」以下省略)を離れ、余分な意味を含んでしまう可能性を、どうかよく気にかけていただきたいと思います。
このあたり、「authenticity」と「信憑性」が意味として完全同一ではないことの難しさかなと思います。個人的には「出所の正しさ」という方がよいのかもしれないと思います[6]。さて、ここまでの反対・指摘を含めまして、提案として「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」という翻訳案を出させていただきます(いやもっと安全を考えて「誰が何を書いたのかという、出所の正しさについて合理的な疑いがないこと」の方がよいというくらいでしょうか?)。--Moon.rise会話2017年9月5日 (火) 08:31 (UTC)
記述と執筆者の信憑性を確かめるという行為は、「モフモフ氏が書いた」か(記述の信憑性)?と「モフモフ氏が」書いたか(執筆者の信憑性)?だと認識しています。(この違いをどうやって文字列で表現するんでしょう?)書いてあることが真実か?をwikipedianが検証できないことは理解していますし、であれば「猫が人類の友達なわけないから削除」というのは本ガイドラインが扱う範囲のロジックに届いていませんから、ご心配は杞憂なのかなーという気がしないでもないです。「「猫が人類の友達」などとモフモフ氏が書くわけない」みたいな理由はありうるかもしれませんが、その場合は証拠出典の量と時系列とかでケースによりけりな対応をするんだろうなあと、ふわっと思います。
さて、少なくとも私には、このガイドラインが望んでいる精神については、禮旺さんの提案されている「記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと」という文言と、Moon.riseさんの提案されている「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」のどちらも充分に満たしているものに思えますので、両者のどちらでも賛成です。両案のあいだにある本当に微妙な差分については本ガイドラインの目指しているところがどこなのかを想像すれば事足りると考えます。(その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコストは過負荷だと思っている)--Caserio会話2017年9月6日 (水) 05:37 (UTC)
コメント なんだか伝わっていないようなので。自己公表された情報源とは、なにも個人サイトや個人のTwitterばかりではないはずです。「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト」にありますように、企業や政治団体の公式サイトもまた「自主公表された情報源」と定義されているものです。これには出版社のプレスリリースも含まれるでしょうし、政治団体の機関紙や新聞が自身の出版社について記事で触れるような場合も含まれるでしょう。なぜならこの場合、取材する側と取材対象が同一の組織で、独立した第三者による事実の確認を受けていないからです。禮旺さんは2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC) の発言で「しんぶん赤旗は日本共産党のセルフソース」という趣旨の発言をしておられるので、このことには自覚的であるはずです。
もちろん出版社や新聞社は個人のウェブサイトやブログでもなく、検証可能な「信頼できる出版元」でなので、通常は一次資料や二次資料として使うことが可能です。ですが、出版社が出版社自身について触れている記事の内容を、その出版社自身についての記事において出典として利用しようとした場合、「検証可能ではあるけれど、公表者自身についての記事内での自己公表された情報源でもある」という状態が生じます。例えば「朝日新聞の慰安婦報道問題」の記事で、朝日新聞の検証記事を出典にするような場合です。
今までのガイドラインでは、こうした二重性はさほど問題にはなりませんでした。例えばこうした出典が「第三者に関する主張を含んで」いたとしても、それはもはや「公表者自身についての情報源」ではないので、このガイドラインから外れます。ですが新たに「信憑性」が問題になってくると、事情は一変します。前述の例のような、報道機関のスキャンダルを扱う記事の場合、当事者である報道機関のあらゆる言動は疑惑の対象であり、信憑性に疑いを持たれている状態になります。「(朝日新聞と対立している)○○新聞はこの主張に疑念を寄せている[1]」といった出典を一つでも示せば、当事者の主張を記事から除去するような編集が可能となりましょう。これが意図した通りのガイドライン変更だと言うのなら、私はこの改正には中立性の観点から強く反対しますし、意図していないのなら、根本的な文面の改訂が必要でしょう。
> そもそも「自己公表された情報源(実は偽)」という前提が成り立つ事がありえないのです
ちなみに、WP:SELFSOURCEは、「自己公表された情報源または疑問のある情報源」が対象なので、例えば「日本解放第二期工作要綱」のように偽書の疑いがある、あるいは偽書であることが明らかな出典なども関係すると思います。この記事は、そもそも現行のガイドラインと照らし合わせても色々問題がありますけどね……。--Kanohara会話2017年9月5日 (火) 14:15 (UTC)
返信 (Caserioさん宛) Moon.rise案にも賛成というご評価、ありがとうございます。さてしかし、「両案のあいだにある本当に微妙な差分については本ガイドラインの目指しているところがどこなのかを想像すれば事足りると考えます。(その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコストは過負荷だと思っている)」には、私は異論がございます。方針の文書は、10年後、20年後のウィキペディア編集者もそれを頼りに編集を行なうものです。「その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコスト」を惜しんではいけません。合意形成までには、じっくりと考えうる問題を消していくように考えるべきです。そうでなければ、10年後の編集者に「変更した時の経緯はどこだ」「以前の英文と以後の英文の差分は何だ」などのログ探しをさせることになりかねません。Caserioさんは「両案のあいだにある本当に微妙な差分」という表現をされましたが、私にとってはもっと明確な差分です。前回「Moon.rise、はるみエリーさん、Kanoharaさんの指摘」と書いたように、その差分に気がつき、指摘している編集者は明らかにいます。「ご心配は杞憂なのかなー」というご意見には、恐縮ですが、Caserioさんにはもっと敏感に考えていただきたいです。--Moon.rise会話2017年9月11日 (月) 20:00 (UTC)
えー、どうも鈍感なCaserioです。Moon.riseさんが指摘している「猫が人類の友達という、そんなことはあり得ない。よって、この文章はWP:SELFSOURCEの条件を満たさない」などと主張し始める可能性、というものについて、そんな輩はそもそもwikipediaというものを理解していないだけであって、主題の文言どうこうで対処するべき問題ではない、とわたしは考えています。そのため、そんな輩が出ないとも限らん、という心配は杞憂だと申し上げたところです。(杞憂、の使い方が間違ってるか知らないが、ここで心配するべき事柄じゃなかろうってことね)
両案のあいだにある差分についてですが、禮旺さんの案においてのみ「そんな輩」が生まれうるという点で異なる、とMoon.riseさんは考えているのだ、と理解しています。そしてわたしは「そんな輩」はどっちだって生まれうるわい、と思っているがゆえに差分が無いと考えています。--Caserio会話2017年9月11日 (月) 23:52 (UTC)

コメント あまり伝わっていないようですが、「記述と執筆者の信憑性について」とか「記述の信憑性について」などの文言をいれると、Wikipedia:検証可能性に反する内容になってしまうということはご理解されたのでしょうか。根本的な文面の改訂であればまだしも、これまで提案された文言については、いずれにおいても反対せざるをえません。--はるみエリー会話2017年9月13日 (水) 08:51 (UTC)

コメント ウィキペディアのガイドラインは訳文の美しさを愛でたり鑑賞したりするためのものではないので、いくら翻訳が文法的に完璧であっても、読む人に誤解を与えるようなものであっては本末転倒と考えます。時には大胆な意訳や注釈も必要でしょうし、そもそも問題のあるガイドラインであるのなら、改良も必要でしょう。Caserioさんは繰り返し「杞憂」と仰いますが(私は大いに誤解を招く表現だと思っていますが)、私は今まで、ルールをおかしな方向に解釈して、自己流の解釈を振りかざす編集者を何人も見てきましたし、そうした人物によってコミュニティが疲弊したり、自分が疲弊させられたりする状況を幾度も見たり体験したりしてきました。目先の「名文言を生み出すまでのコスト」を惜しんで、多くの編集者を疲弊させることは、結局コストを増大させることになると考えます。

さて、そもそも、「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」なのに、「信憑性」が疑わしいので出典として使用できないような状況とは、どのような状況を想定したガイドラインなのでしょうか? 例えばCaserioさんは2017年8月22日 (火) 07:03 (UTC) における発言で、宗教団体の自己公表物についての「あまりに荒唐無稽であるとか、全く具体性をもたないもの」を例示していますけれど、いくら荒唐無稽な内容であっても「本人がそう言っている」こと自体は検証可能な事実ですし、荒唐無稽な内容であっても「本人はこれこれ、このように主張している」という形で掲載することは問題ないように思えます。記事の主題となっている対象自身による公表物であることは明確であるものの、内容の信憑性の疑わしい内容については、あくまで「出典として使えるが、扱いに注意を要する」扱いとし、「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」や、該当ガイドラインのすぐ上のセクションにある「Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる」へのリンクを示すだけで十分という気がします。どうでしょうか?--Kanohara会話2017年9月13日 (水) 10:18 (UTC)

「(明確に)本人が公表した内容であること」の根拠、のところに信憑性が求められているんでしょう?2017年8月30日 (水) 10:05 (UTC)あたりのくだりです。そのうえであれば、「本人がそう言っている」こと自体を載せることは可能だと思いますし、これまでのところで否定したつもりもないです。(あと、繰り返し「杞憂」なんて言ってないからね。2回目に登場するのは、前回その単語を用いた説明だからね。)--Caserio会話2017年9月14日 (木) 00:01 (UTC)
返信 (Caserioさん宛) だとするなら、現状の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと」という訳の方が、的確に意図が伝わると思います。他については、信憑性の定義について論じるより「Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け…だが意見は書くな」と「Wikipedia:信頼できる情報源#用語の定義」へのリンクを示せば十分でしょう。--Kanohara会話2017年9月14日 (木) 12:22 (UTC)
コメント Kanoharaさんのご意見に賛同させていただきます。--Moon.rise会話2017年9月14日 (木) 20:42 (UTC)
およそ「ほげほげ」とは言わなそうなAさん(たとえばこれまでガチガチの猫派であることを知ってる人は知ってる)が、「ほげほげ(私は猫がきらい)」と個人ブログなりtwitterなりで発信した。このとき当然に、Is there no reasonable doubt as to its authenticity? と問われると思うんですよね。もちろん人の気持ちは変わるもんだし、とかいろんな話があると思うんだけど、これまでのガチガチの猫派っぷりの根拠がちゃんとあるならば、そこには一定の合理的疑いがあると判断されるような場面てあるんじゃないかな、と思っています。で、このときどこに疑いがあるのか?ってところで、これは「誰が書いたのか」ではなくて、「書かれている物事」のほうに合理的疑いがある、って言うんじゃないかな、と思ったの。本人名義の窓口からの発信であれば、なんでもかんでも載せていいってわけじゃあないことは皆様ご理解しているとは思うんですが、ただでさえ、信頼できる情報源ではない自己公表されたものであるからには、本人であることはもちろん、記述に一定の信憑性が求められるっていうのはリーズナブルだと思うんだけどな。--Caserio会話2017年9月15日 (金) 01:19 (UTC)

コメント 「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」なのに、出典として信頼できる情報源として利用できるケースが非常に限られる例として、アラン・ソーカルの疑似論文事件(ソーカル事件)が思い当たります。この疑似論文[1]は、著者であるアラン・ソーカルの所属するニューヨーク大学のドメイン名にあるソーカル氏のプロフィールページ配下のディレクトリに設置されております。よって、「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」は満たしますが、当該疑似論文そのものは、ポストモダンへの批判に関する記事や考察のみでしか使えません(ポストモダン系の論文誌における無批判的な論文掲載、ひいては当時の哲学系ポストモダニズムへの揶揄に関する記事など)。閑話休題。私は、今の訳文は改善提案された禮旺さんと同じくあまり好ましくない(英語版からの英訳の正確性という意味と、この日本語版の文が曖昧≒曲解する編集者が都合よく解釈する虞があること(内容と書かれているものの、その真正性(これは、原文のauthenticityに近いと思います)、その内容が開示されたプラットフォーム(紙媒体なのかオンラインなのか、それらが社会的に信頼できる媒体・プラットフォームと受け入れられているか、又はそこまでは達していないのか)、さらに字義通り内容自体の疑義の程度など、種々の観点からの悪用・曲解)と考えています。一方で、どういう訳文がいいかというと、今のところ対案を出せるほどの見解を持ち合わせていないというのも実情です。単につらつらと雑感を述べただけになってしまい申し訳ありません。件の"authenticity"について、私が最も信頼しているMerriam-Webster[2]の解説を再掲(形容詞であるauthenticの解説ですが、名詞形も記載されています)させて、一先ず私見表明とさせていただきます。いくつかの定義が解説されていますが、最も関連するのは、「3 :true to one's own personality, spirit, or character」、次に関連しそうなのは、「1a :worthy of acceptance or belief as conforming to or based on fact」と考えます。「2 :not false or imitation」も該当すると思いますが、当たり前過ぎて、本件で議論する定義(解説)ではないと考えます。3または1aの定義から、訳文改定で「信憑性」にするのに同意するのは難しいというのが心情です。--Okiifstation会話2017年9月13日 (水) 13:39 (UTC)

  1. ^ :Alan Sokal (1996). “Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity”
  2. ^ Merriam-Webster: authenticity
脚注処理をしました。--大和屋敷会話2018年7月27日 (金) 06:37 (UTC)

偽の権威に注意より一文除去を提案[編集]

Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。」ですが、「修士以上の学位、もしくは」を除去するか「博士以上の学位、もしくは」に変更することを提案します。百科事典の情報源として「修士卒業」は力不足に感じます。英語版よりの翻訳「postgraduate degrees」のようですが、現在の英語版には記載がないようです。--JapaneseA会話2018年7月26日 (木) 13:03 (UTC)

Wikipedia:方針とガイドライン
現在行われている議論における自身の主張を裏付けるために方針を修正しようと試みることは、ルールの悪用とみなされかねません。その編集者が議論に参加していることを公表することなく方針を修正しようとする場合は特にそうです。
JapaneseAさんが、ノート:疑似科学に関した自身の主張を通すために方針修正を試みているのでそのことを公表します。--163.49.211.92 2018年7月26日 (木) 14:27 (UTC)
コメント JapaneseAさん、「百科事典の情報源として「修士卒業」は力不足に感じます。」と考える理由を提示してください。--郊外生活会話2018年7月26日 (木) 14:57 (UTC)
コメント 私も郊外生活さんに同意見です。修正するに足りる理由がなければ、修正すべきではないでしょう。--煙捲浄土会話2018年7月27日 (金) 01:38 (UTC)
  • 日本の(とりわけ文科系の)学位は認定が極端に厳しく、大学の教授職にあり専門書を複数執筆している研究者であっても博士号を授与されていない人物が相当に居るという事情も考慮すれば、アメリカの標準をそのまま採用するのはためらいを感じます。疑似科学のような個別の記事については記事毎のローカルルールとしてハードルを引き上げるなり対処したほうが良いように思います。ローカルルールの設定についてはいくつかの過去の議論があります([7])。逆に修士号をもつ人物がトンデモ説を高言しているような事例などは百科事典的には採録しておいても面白いのではないかと思ってみたり(採録の筆法は重要ですが)。--大和屋敷会話2018年7月26日 (木) 16:35 (UTC)
コメント 相手にする価値のないコメントは無視します。郊外生活様へ(大和屋敷様もですが)、逆に伺いますが、修士卒業で十二分だと御考えでしょうか?私は修士卒業の方の専門書を見た事はありません。文系は知りませんが理系分野で専門書を書いている人は、博士の肩書きがつきます。--JapaneseA会話2018年7月27日 (金) 00:03 (UTC)
コメント 修士卒業の方の専門書を見た事がないからという理由、肩書だけに着目している状況だけではおそらく修正は難しいと思います。--煙捲浄土会話2018年7月27日 (金) 01:38 (UTC)
コメント 修士はMasterが付く位ですので、「その分野」に対しての専門であると考えて間違いなく、「権威としては」信頼に値する学術位だと考えられると思います。その一方で、JapaneseAさんが主張する通り大抵の専門書は博士学の方が執筆され、同Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意においては「もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です」との記載がある通り十二分に信頼できるのは教科書またはその類を執筆する人物であることという記載もあります。ただし、博士も博士で論文と課程の博士がいます。後者は比較的(根も葉もない言い方をすれば)"とんちき"が多いので、「博士」だからといって信頼性に値する、という訳ではないと考えています。従って米版から除去されたのは単純に「肩書が信頼性に直結する」訳ではないからと考えられるのではないでしょうか?除去に反対はしませんが、単純にそれだけで問題が解決する内容でもないと思うので、除去するに当たりよりそのあたりを考慮できるような文章表現に置換するという方法がベストだと考え、現時点での単純除去には反対します。--禮旺会話2018年7月27日 (金) 01:49 (UTC)
  • 学位は原則ですので機械的に処置しないのがよいです。ガイドラインはあらゆる記事に影響してきますので、特定記事の編集方針を有利に運ぶために改変すれば他の全てのに重大な影響を及ぼすことを理解して頂きたいです。たとえば著名な竹田恒泰氏は大学の講師をされており多数の書籍を執筆されていますが学位は学士です。またやはり著名な山本七平は高等商業学校が最終学歴ですので(おそらく)学位と呼べるものは無いはずです。すこしイジワルに事例を挙げるだけでこの有り様ですので、やはり採録基準については慎重に扱うべきなのです。ほとんどの場合は個別記事の性質によって誰にでも容易に判断が付くものであり、疑似科学の場合は学位のない者がトンデモを執筆し学位あるものが批判する場合は適切に採録し、博士号を持つ者がトンデモを執筆し学位の劣るものがそれを批判している場合は慎重に採録を検討しなければいけません。むろん批判している者が学士程度の単なる科学ジャーナリストであれば、より慎重に扱うべきでしょう。--大和屋敷会話2018年7月27日 (金) 06:45 (UTC)
コメント 特定記事の編集方針を有利に運ぶために提起したわけではありません。あくまで一般論です。なるほど、最近の人ばかり頭に思い浮かべておりました。山本七平をはじめ歴史上の偉大な学者が修士以上とは限りませんね。必要条件としては、不適切ですね(現状の方針では、十分条件なので問題はありませんが)。さて、禮旺様も修士で十二分と御考えなのですね。他のノートで修士がOKというルールを提示され、「なんじゃそのおかしなルールは?修士の書いた専門書など売ってないぞ」と思い、ここで提起したのですが、意外に皆さん、修士でOKという認識なのですね。--JapaneseA会話2018年7月27日 (金) 10:42 (UTC)
  • コメント 私からもコメントを。博士号があるに越したことはないとは思いますし、私自身の専門分野(地球科学)に関しては博士に限定してよいとは思います。少なくとも地球科学では、Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意での「その分野の書き下ろし教科書」の著者は基本的に「博士」あるいはそれに準ずる方とは思います。しかし、だからといって修士号では全記事一律に不可とする積極的な理由が思いつきません(既出の指摘にも関連しますが人文科学・社会科学の分野では「博士」に限定することの弊害もあるかもしれません)。--郊外生活会話2018年7月27日 (金) 17:04 (UTC)
    • JapaneseAさんの提案は、修士なら一律に信頼できるとしている現行のガイドラインを問題視しているだけで、「修士号では全記事一律に不可」のようなことは一切言っていません。このあたりのことを混同していたのでは、ちょっと話にならないと思います。
    • 私の感覚では、情報源の信頼性を判断する基準として、学位の有無はほとんど当てにならないと感じます。博士号を持っている人の言うことが正しいとは限らないし、ましてや修士号の有無などを問題にするのは全くのナンセンスだと感じます。現行の記述から「修士以上の学位」を除去し、「彼らが議論している分野において…実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるもの」という基準に一本化する提案に賛成します。
    • 1つ付け加えると、理学博士とか工学博士とかの学位で示される専門分野の範囲はかなり広いので、例えば、理学博士であっても、数学のことは分かるが生物学のことはさっぱり分からないというようなことがありえます。情報源の信頼性を学位の有無だけで判断するのは、そもそも無理だと思います。--Dwy会話2018年7月28日 (土) 00:06 (UTC)
コメント ちょっといじわるでここに書くのですが。「修士卒業の方の専門書を見たことはありません。」「修士の書いた専門書など売ってないぞ」とのこと。たとえば、そうですね、この方は「大学中退」が最終学歴で「学士」すら持っていないはずですが、今年出た小学館の図鑑『日本魚類館』でも執筆者として名を連ねていて・・・p406-409を担当しています。この書籍は「売ってない」どころかニュースになるぐらい売れましたよ(私も買った)。ま、これは「実証可能な形で公表された専門知識を有する人」に該当するのでしょうね。「実証可能な形で公表された」とかいう言い回しが私にはどうもピンとこないですけどね。もっと平易に「(その分野について)専門的知識を有する人物であると認められていることが、複数の情報源で確認できる」みたいにすればいいのに、とは感じます。
ま、「修士だから必ずダメ」とか「博士だから必ずオッケー」とかの話ではないし、Dwyさんのおっしゃるように大きな「分野」でもそのなかの領域にはまた専門性があり、生物学の博士だからといって菌類から家畜まで全てに精通しているということもないでしょう。ときには中学校を卒業してからずっと厩務員としてキャリアを積んできた人のほうが生物学の博士よりもウマに詳しい、なんてこともあるでしょうね。
その学問分野の基礎的な事柄、定説を取り扱う場合には「修士」でも大丈夫ということもあるでしょうし、先端的な部分では1人の「博士」が主張していても取扱注意(帰属化が望ましい)ということもあるでしょう。議論がある場合には、「ほにゃららである[1]。」とするかわりに、「A氏はほにゃららと主張している[1]」みたいに帰属化しつつ一歩引いた表現にすれば、合意に近づけるのではないでしょうか。-柒月例祭会話2018年7月28日 (土) 19:21 (UTC)
コメント 真面目に話されているところで肩身が狭いのですが、感触的なコメントを残しておきます。「学位がないこと」にどれだけの重みがあるか、「学位」「職位」を持っていることがどれだけ信頼性につながるかは分野・個人に左右される部分が多く、機械的に「博士」だからあり、「学士以下」だからなしとするのは無理だと考えています。私の執筆分野ですと、職歴・学歴ともに十分な方が、「在籍組織、出資企業、出身母体、政治家や官庁との関係性」などで専門分野でも「誰でも判る」レベルで変なことを公言することはあります。また、専門分野が思ったよりも狭く、隣接分野だと上手く行かない事もあります。また現場やジャーナリスト出身ですと、学士ですらないこともありますが、それで信頼性が左右されることはありません。つまり、この提案のうち「博士号」を要求するのは適用可能な領域が狭く、適用できない分野では悪影響しか考えられません。一方の学位への言及そのものを除去するのは応急措置としてはよいのですが、これはこれで「専門知識を持っているのにおかしな人」ってのをどうするかという問題がありますね。--Open-box会話2018年8月7日 (火) 13:26 (UTC)

コメント 極端な例ですが最近でも「さかなクン」のように学位がなくとも専門家として認められるケースもありますし、バイオインフォマティクスなどの融合分野では学位から専門分野が判断しづらい場合もあるでしょう。学位関連の記述はばっさり削って「著者にその分野の専門知識があるのか確認してください。専門知識を有することが検証可能な人物の著作を情報源としてください。」などと書きかえてしまってもよいのではないでしょうか。--SilverSpeech会話2018年8月9日 (木) 03:58 (UTC)

議論が止まっているのですが、「博士」に限定する案は分野による違い、文化による違いで一般化が難しい一方、「学位」を外して対処する方向性に明確な反対は見受けられません。このままでよいとする意見はなかったので、ここまでの議論を踏まえ以下の変更を提案します。いくつか文案がありましたが、平易と思われたSilverSpeechさんの文面を元にしました。

現行
権威の詐称に注意してください。高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます。脚注が多数あるウェブサイトでも全く信頼できないかもしれません。まず自問すべきなのは「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ワールド・ワイド・ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。

彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。
改訂(打ち消し線が除去、『』が追加)
権威の詐称に注意してください。『議論している分野の専門知識があるのか確認してください。』高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます。脚注が多数あるウェブサイトでも全く信頼できないかもしれません。まず自問すべきなのは「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ワールド・ワイド・ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。

『専門知識を有することが検証可能な人物によるものを情報源としてください。』彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。

変更点は2点です。まず、後段先頭を置き換えます。そして、置き換えた文章の前半部分を先頭に移動します。これは、「高い学位」以降とセットでも考慮されるべきであるからです。音声・映像による公開講義も想定して、「著者」「著作」という言い回しは回避しました。ついでに英語版を見てきましたが、情報源によって性質が異なるからかScholarshipの節に言及があり、学位については「修士論文」の形で否定的に存在しますが、あくまで論文に対するものとしています。学術以外の世界で活動したら適用基準が変わるため、必須の限定でしょう。金銭、文化、時間等の環境の差異があるので詳細レベルだとそのままってのは難しいのは仕方ないですが、基本的な情報源別に再編する手法は応用できそうです。ついでにこの文章は大学以上を想定しているので、日本語なら高校以下を想起させる教科書ではなく概説書とか総論ってした方が適切かもしれません。--Open-box会話2018年9月12日 (水) 01:09 (UTC)

  • 反対 やはり個人的に学位は参照する際に重要な判断材料だと思いますので反対とさせていただきます。仮に司馬遼太郎と文学博士の論文が内容において矛盾している場合は文学博士を優先し、司馬遼太郎はその著名さによって「紹介される」という体裁を百科事典は採用すべきです。--大和屋敷会話2018年9月12日 (水) 04:16 (UTC)
  • 賛成 前述で述べた通り、博士は博士でも修士に劣る方はそれこそ居るので、学位だけで選別するのは判断材料としては否定しませんが出典の選び方として不適と考えられます。逆に言えば修士の評論が一般的に評価され、博士取得者の主張が突飛なものであった場合、「紹介される」という体裁になっていると記述に不整合が生じるという可能性も考慮する点を考えるとなると、学位で優先を付けるというのは中立的な観点を考えた際に違和感が残ります。--禮旺会話2018年10月2日 (火) 01:12 (UTC)
  • 賛成 御提案の文案のように一文丸ごと除去が良いと思います。--JapaneseA会話2018年10月9日 (火) 08:27 (UTC)

ギリギリまで待ちましたが、大和屋敷さん以外の反対はありません。一旦適用しますが、大和屋敷さんの仮想ケースの場合、文学博士の専門領域であれば改訂案の前半でカバーされますし、専門知識がない領域であれば弱くなり、文学を離れればそもそも「文学博士」であることが根拠にはなりえません。つまり、大和屋敷さんの想定は、学位が持つ専門性で対象を区分すれば問題なく解決されるのです。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 14:02 (UTC)

  • すみません。何をおっしゃりたいのか意味が理解できかねます。しかし「編集方針」については三大方針以外についてはwikipedianコミュニティで検討することが承認されておりますので多数決で宜しいのではないでしょうか。将来この改定に問題があればまた改定されることでしょう。--大和屋敷会話2018年11月7日 (水) 14:31 (UTC)
    • 学位の専門性は、その専門性を離れたところでは意味を持たないのです。想定しているケースは、自然に学位が尊重される部分(専門性がある部分)と、考慮されないもの(専門性とは無関係の「偽の権威」)に区分されるということです。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 15:20 (UTC)
    • なお「司馬遼太郎」というよりも「司馬史観」に代表される「非専門家の影響力」を気にしているのであれば、それは「信奉者」や「俗説・巷説」というこの文書にはまだ存在しない対象であって「偽の権威」とは別の問題なので、別途文案を考えて下さい。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 15:30 (UTC)

外国語で書かれた情報源について[編集]

Wikipedia(WP)英語版の記事を翻訳して作成された項目に関わっています。その出典には多数の‎外国語の情報源が含まれています。

「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきで(中略)相当する記事が日本語の新聞にないような場合以外は、外国語の新聞を情報源として使ってはいけません」という記述について質問いたします。

1. 外国語の情報源を元に記述されたWP外国語版の記述を翻訳する場合、その情報源を確認する必要はありますか。また、その内容に応じて手直しする必要はありますか。

2. 1の場合、外国語の情報源と類似した内容を述べている日本語の情報源(相当する記事)を探す努力義務を負いますか。

3. 翻訳された記事に外国語の情報源が残されている場合、その部分を編集する人は日本語の情報源に差し替える努力義務を負いますか。

4. 3において日本語の情報源を発見し採用する場合、元の外国語の情報源に基づく記述は除去されなければなりませんか。

5. WP外国語版で信頼できると見なされている情報源は、WP日本語版でも一律に信頼できると見なすことはできますか。また、WP日本語版で信頼できないとする情報源(もしあれば)に基づく記述は除去されなければなりませんか。

質問事項が多くご面倒をおかけしますが、見解を教えていただきたく思います。--メリース会話2018年11月9日 (金) 14:36 (UTC)

  • 返信 ガイドラインの引用し、一つの解釈・意見ということで書かせていただきます(あとはあなたが引用したあたりを読めば良いかと思います)。まず参考までにガイドラインを略して引用します。
翻訳に値する記事とは 自分が読みたい記事を翻訳する、というのが普通でしょう。翻訳しなくとも読んで理解できる記事でも、翻訳してみると案外わかっていなかったり、追加で調べ物が発生したり、自分自身の勉強にもなります。しかし、ちょっと待ってください。その翻訳元の記事は、本当に翻訳に値する記事でしょうか。正確な翻訳は大切ですが、元記事を無批判に翻訳するべきではありません書かれていることが信用に足るか、内部で矛盾を起こしていないか、確認した上で翻訳記事として投稿しましょう。内容希薄な項目については、関係する項目を集めて翻訳し一つの記事とする方法もあります — 翻訳のガイドライン、翻訳に値する記事とは
1、 必須であるか?なら必須ではありませんが、たいへん望まれることです。査読のない編集は検証性を担保しません。「WPに記述してあるから査読されているはずである」という仮定は望ましくありません。これを良しとすると「誰かが出典を貼ってるから正しいはずだ。そのまま使っていいだろう」ということになってしまいます。
2、 あります。しかし1のように完全に補完しなくてはいけないという義務ではなく努力義務にすぎません。程度にも依るでしょう。
3、 あります。日本語WPにおいてはなるべく情報源は日本語で提供されるべきです。 しかし2同様です。
4、 義務ではありませんが、同様の記述について日本の出典がついたのならばそちらだけでも十分でしょう。個人的には検証性において複数の出典がつくことは歓迎します。検証性をより担保したいならそのまま残すことも問題ではないと思います。
5、 一律には無理でしょう。国内と国外では言葉はもちろん文化も異なります。彼らの文化の中で信頼されているものが、私達の文化の中で信頼できるという保証はありません。そういったものが示してくれるのは信頼性ではなく「どの人がどのようにいっているか」の検証性になり、検証性の出典となります。それが引用された文の一要素であるかと思います。これは国内でも「ある特定の思想にとらわれた集団の発言は信頼性に欠ける恐れが強い」といったものに近いです。ある特定の文化に対して特筆性・中立性があるものが、その他においてもそうであるということはありません。
総論として翻訳というのは原文を忠実に機械的翻訳するだけではなくバックグラウンドまで含めた翻訳・意訳である必要性が高いです。質問内容から、例えばある記事が、機械的翻訳も目立ち、すなわち内容の査読(検証性中立性など)をしているのかも疑わしく、日本語の出典にほとんど代えられていないと仮定した場合は、査読をしたのか大変疑義があり、しかも検証性しか満たさない記事となります。少し語弊があると言うか大まかな話で例外はありますが、質問に引用されたように日本での特筆性があるなら、日本の新聞などのメディアにそのような記事が生まれます。それがないということ、更に私が引用した太線部も考慮されてないとなれば、記事立項の基準を満たしていませんので削除や統合に値すると思います(重ねて書きますが例外はあります)。もちろんスタブとしての価値はありますが、場合によってはそういった中途半端なものが存在することは、日本WPでその主題記事の成長を阻害する恐れもあります。以上ほぼ私論はない解釈と思いますが意見として述べました。--鶏のから揚げ会話2018年11月9日 (金) 17:01 (UTC)

ご意見ありがとうございます。すなわち、翻訳することはそう簡単ではないということですね。そして、そのように作られた記事を(質の良さを追求するために)編集することも簡単ではないのでしょう。件の記事は質量ともに充実しているように見えるので編集したいところ、出典が英語ばかりであることが編集のハードルを上げていると感じています。編集するからにはさらに質良くしたいのですが、そのために各出典を確認するとなると大変な労力を要します。せっかく翻訳するのですから、後の編集者のことを考えれば翻訳の時点で配慮するのが良いと学びました。

なお件の記事においては、査読については英語版の時点で(私の拙い英語読解力をもってしても)疑問を呈するものがありまして…… ランダムに一つ出典を覗いてみたのですが、その記事の言いたいことをしっかり書かず出典の言いたいことを記事にしっかり書かず(打ち消し線部を斜線部に修正、誤解を招く表現でした)、欲しい数値情報だけを抜き取っているような有様でした。査読というのは、そのようなミスを是正することを含むのでしょう。特定の記事の話題を持ち出し、大変失礼しました。--メリース会話) 2018年11月9日 (金) 18:32 (UTC)--メリース会話2018年11月9日 (金) 19:09 (UTC)

コメント 鶏のから揚げさんのコメントが詳しいのであまり多くを述べませんが、「単なる日本語化」と「翻訳」は異なるということです。分野の知識がないまま・英和辞書だけで・無批判にやるのは「単なる日本語化」です。下調べをしたり、出典元や周辺分野の日本語文献を確認したりする・分野の日本語文献にあたってその文脈での適切な訳語を求める、原文に書かれていることでもヘンだと思ったら調べて注釈をいれるなど、等々の手間をかけるのが翻訳というものでしょう。善意で知の探究者たるウィキペディアンとしては後者を行うべきです。前者がまったく無価値ということもないですが、ときにはひどい誤りを広めてしまうこともあるでしょう。--柒月例祭会話2018年11月9日 (金) 22:36 (UTC)

ありがとうございます。そうですね、日本語版で普段の編集をする時にも出典についてはしっかり調べます。外国語を翻訳するからといって、訳しただけで満足してはいけませんね。外国語版由来の記事を扱う時は、辞書的な訳にとどまらないローカライズを心がけたいと思います。--メリース会話2018年11月10日 (土) 12:55 (UTC)

コメント メリースさんが今回提起された問題意識は、私もかねて薄々感じてきた事でした(参照: Special:PermaLink/69916332#翻訳について)。私は出典を自分の目で全て確認した場合や、他の利用者による翻訳中の音写に違和感を覚えた場合あるいは明らかな誤りが含まれる場合でもない限り、他言語版からの翻訳には手を出さない事に決めております。自分の目で確かめた資料のみで記事を作ります。2.の論点ですが、日本語による資料を探した上で内容が誤っていると考えられるものしか見つからない場合は、海外の文献を出典に正しいと思う内容を記します。たとえばエウフォルビア・カンデラブルムという植物が存在しますが、和名がつけられていないという点から窺える様に日本では生育しておらず、日本語による主要な植物図鑑には載っていません(『植物レファレンス事典』日外アソシエーツ、2004年を調べても掲載されていません)。それでもこの種の場合は一応『A-Z 園芸植物百科事典』(クリストファー・ブリッケル 編集責任、横井政人 監訳、誠文堂新光社、2003年、428頁)に詳しい記述はあるのですが、「杯状花序は赤紫」とあり、これはコモンズに挙がっている画像から誤りである(恐らく果実を誤って花と見做してしまった)と考えられ、英語文献である Kenya Trees, Shrubs and Lianas (H.J. Beentje, Nairobi, Kenya: National Museum of Kenya, 1994) の "Flowers yellow-green" という記述を訳して記しました。--Eryk Kij会話2018年11月11日 (日) 06:32 (UTC)

ありがとうございます。多くの外国語文献に接されてきたEryk Kijさんの苦悩の一端をお察しいたします。むしろ日本語文献が間違っていることもありますね。翻訳の場合、質の担保・追求のためには両言語の文献を比較することも大切と思いました。もちろん翻訳でなくとも外国語文献が参考になることがあります。--メリース会話2018年11月11日 (日) 08:17 (UTC)